午後10時過ぎ。夕暮れとともに降りはじめた雨は本降りとなっていた。冷たい雨のせいもあって街中の人通りは途絶えたようだ。「今日はあがりにするか…」独りつぶやくタクシードライバーの視界にひとりの女性の姿が入ると、手慣れたハンドルさばきで急停車。ドアを開けると「ザーッ」という轟音が、雨水よりも先に入りこんでくる。女性客は豪雨ともいえる状況で、まるで乗車をためらうかのように、ゆっくりと乗り込む。車内が濡れるのを嫌った運転手は、急ぎドアを閉めた。と、さっきまで激しく鳴りわたっていた雨音が消えたかのように「シーン」という無音が響く。

「深泥池まで…」

女性客のささやくような声が、静寂の中でハッキリと聞きとれた。

北へと向かうタクシーの車内には、いつのまにか雨音が戻っていた。同時に後部席からすすり泣きのような声がこぼれてきたので、バックミラーに目をやるが、特段変わった様子はない。鏡に映る彼女は切れ長の目をもつ古風なタイプの美人で、その透きとおった素肌からは、艶やかというより妖しいとさえいえるオーラが放たれていた。「何か妙だな…」長年のドライバーの勘がそう感じさせる。やがて目的地が見えてきたので、料金メーターを確認しようとしたその時、再び「シーン」という無音が響き渡る。いささかの緊張とともに振り向くと、女性の姿が忽然と消えているではないか。焦った運転手は傘もささずに車を降り、あたりを見渡したが人影はない。「俺は幻を見ていたのか…」と思いながら、ルームランプを灯す。すると後部座席には、何本もの髪とともにびっしょりと濡れた跡が残っていたのであった…。


事件として新聞記事に

みなさんもこの話を聞かれたこと、一度はあるのでないでしょうか。ある種の都市伝説として、全国各地に様ざまなバージョンで伝わったタクシー怪談発祥の地が、京都市にある深泥池だと言われています。なぜこの地が起源とされるのか?それはこの怪談が、実話を元に語り継がれているからです。1969(昭和44)年のことでした。京大病院前で雨に打たれた女性を乗せたタクシーが深泥池に着くと、その女性の姿は消えていたというのです。怖くなった運転手さんは交番に駆け込みます。警察も捜索をしたというから事件として扱われたわけです。結局、女性の行方は杳としてつかめませんでしたが、嘘か真か同じ日に京大病院で亡くなった女性が、深泥池周辺の出身者だったということでした。この事件は、当時の新聞にも載せられたことから、タクシー怪談として一躍有名になります。

その後、同じような経験をするタクシードライバーが続出したという噂が広まります。そのほとんどが深泥池に向かったとされています。ここまでくると、さすがに話がひとり歩きしているように思いますが、京都のタクシードライバーたちを恐怖に落としいれたのは間違いないようです。なにしろ「夜間のタクシーは女性客の乗車を拒否してもよい」という暗黙の了解のようなものがあったというくらいですから。


氷河期の姿を伝える池

深泥池は京都市北区上賀茂、京都府立植物園を北に1kmほど行ったところにあります。周囲約1,500m、面積は約9haの小さな池です。読み方は「みどろがいけ」「みぞろがいけ」の2種類があり、文献をたどると泥濘(ぬかるみ)を意味する「泥濘池」が名称のルーツとなるようです。

深泥池

深泥池

背の高い草がクセモノ。夜風が吹いて草が大きく揺れる様は、ゾクッとさせてくれます。

深泥池の歴史は、なんと14万年前の氷河期時代にまでさかのぼるといわれ、日本最古の池なんだそうです。14万年前って想像もつきませんよね。懐かしのアニメ「はじめ人間ギャートルズ」のゴンたちの時代が「つい最近のこと」になるくらいの大昔です。ゆえに深泥池は、氷河期以来の動植物が今も生息していることで有名です。1927年には、深泥池の水生植物が14万年のご長寿であることから国の天然記念物に指定されました。さらに1988年には昆虫や野鳥を含む深泥池に棲むすべての生物が天然記念物になります。このように深泥池は学術的に貴重な価値を有しているのです。

深泥池の全景

深泥池の全景

昭和52年当時の写真なので、今とは道路の状況が異なる。これはこれで興味深い。
※写真は深泥池に掲出された看板を撮影

いっぽうでこの地は平安京から見て北東、いわゆる「鬼門」に位置していることから、鬼の出入り口であったという話や、人間の男に恋をした大蛇の伝説など洛北の魔界スポットでもあります。昔の文献には「洫呂池」と書かれていたこともあったそうです。見るからにおどろおどろしい字面ですよね。こうした謎めいたイメージが、怪談としての箔付けになっているように思います。

〇〇の名所として…

もともと深泥池は心霊現象が起こるとの噂が絶えないスポットでした。周辺は夜になると街灯が少ないこともあり人通りが絶え、バツグンの雰囲気を漂わせます。鬱蒼とした葦が生い茂るこの池は「沼」といったほうがピッタリのように思えます。

曇天の深泥池は、昼間でも「出そうな」雰囲気を醸しだしている。

また、「深泥池は底なし沼ではないか」という噂もあったそうです。科学的調査の結果、そうではないことが判明していますが、それでも水深20mはあるらしく池に足を取られてしまうと、びっしりと水面に浮かぶ水草が絡まって抜け出すことが難しいので、危険であることに変わりはないそうです。そんなこともあって、入水自殺をしようとした人を見たという人、自殺しようとしている人を止めたという人、自殺遺体を発見したという人、などなどの噂とともに、いつの間にか自殺の名所として名を馳せるようになっていました。ひとりで深泥池に向かう人には自殺予防のために声をかけるようにしたり、子どもたちは深泥池に近づくことを禁じられたりしていたのは事実です。でも、何ごとも禁じられるとやってみたくなるのが人の性。特に好奇心旺盛な子どもたちにとっては格好の肝試しスポットでもありました。


Remember in the middle of night at Midorogaike

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この記事を書いたKLKライター

八坂神社中御座 三若神輿会 幹事 / (一社)日本ペンクラブ会員
吉川 哲史

祇園祭と西陣の街をこよなく愛する生粋の京都人。

日本語検定一級、漢検(日本漢字能力検定)準一級を
取得した目的は、難解な都市・京都を
わかりやすく伝えるためだとか。

地元広告代理店での勤務経験を活かし、
JR東海ツアーの観光ガイドや同志社大学イベント講座、
企業向けの広告講座や「ひみつの京都案内」
などのゲスト講師に招かれることも。

得意ジャンルは歴史(特に戦国時代)と西陣エリア。
自称・元敏腕宅配ドライバーとして、
上京区の大路小路を知り尽くす。
夏になると祇園祭に想いを馳せるとともに、
祭の深奥さに迷宮をさまようのが恒例。

著書
「西陣がわかれば日本がわかる」
「戦国時代がわかれば京都がわかる」

サンケイデザイン㈱専務取締役

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