京都の学区はとっても大事(前編)学区のルーツは戦国時代 -京都の「町」の不思議(その4)-
事実上の東京遷都が進められる中、教育に未来を託した京都の人々は学校建設のために惜しまず私財を提供、中には住民の私財だけで開設した学校もありました(のちの桃園・龍池・初音・柳池の各校)。
さらに教員の給料など学校の運営資金のために「竈金(かまどきん)」として、番組内のすべての世帯が一律の金額を供出して積み立て、自分たちの資金で学校を運営したのです。
全国の学制発布の3年前にすでに全校が開校し「竈金」の精神で運営した京都の小学校は「公立」というより「番組立」「町民立」の性格を強く持っています。
その後「番組」は「区」「組」と名前と番号を変えながら明治25年に今の「学区」という名前になります。その途中「番組」が「区」と変わった明治5年には「地租改正」が行われ、土地に地番がつけられます。京都市ではこのときの「区」が租税徴収単位の役割も持っていたため、「区」ごとに北西から地番をつけていきました。
これが今の番地の基礎となったのです。「番地は学区ごとにつけられている」理由はこの地租改正にさかのぼるのです。
すべての番組がこぞって学校を設立したことで、ほとんどの旧市街地ではおよそ500m四方に1校ずつという今の感覚からはずいぶん多くの学校が建ちました。そのためこの狭い学区から通う生徒や家族はみんな顔見知り、地域の会所や防災拠点も同じ場所、という昔からの緊密な地域コミュニティを新時代に継承していく仕組みにもなったのです。
明治25年に今の学区制度になって以来、太平洋戦争の危機も乗り越えて学区制度も小学校も続いてきました。1980年代から都心の人口減などで小学校の統合が行われ通学区域も大幅に変わりましたが、学校がなくなっても学区は元の形でそのまま残っています。今でも「オレの家は郁文(いくぶん)や」「あ、オレ格致(かくち)やから近くやね」など学区で住所を伝えあう人も多く、京都人以外は意味分からない会話になっています(笑)。「学区は永遠に不滅」ですね。
さて学区の話題、盛りだくさんなので2回に分けての掲載です。
後編は生活の中での京都の学区の大事な役割についてお話ししたいと思います。
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京都市中京区生まれ、北区紫野育ち、民間企業に37年間勤務
祇園祭の魅力が忘れられず、定年を機会に埼玉県から帰郷、大学院に入学し民俗学を学ぶ
祇園祭を中心に京都の祭り・民俗行事、平安京の歴史、京都の地理・町の形成などを研究
京都府文化財保護課での祭り行事調査に参画中
現在、佛教大学非常勤講師、京都民俗学会理事、日本民俗学会会員
|京都の祭り・歴史研究家|京都の町名/京都の通り/番地/山鉾町
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