暗殺された場所は?

中京中学校西横

中京中学校西横

神泉苑西横の各奉行所跡石碑

神泉苑西横の各奉行所跡石碑

二条城に接して「西町奉行所」(中京中学校西横)と「東町奉行所」(二条城南 神泉苑西)
の石碑が立っている。奉行所の仕事は京都や周辺地域の行政、司法、警察全般を、隔月交代で担当した。
奉行所南側一帯は与力長屋として千本組屋敷があった。慶喜は二条城での勤務を終え、二条城南側の若州(若狭)屋敷を宿舎としていた。円四郎が暗殺されたのは、与力長屋近くと推察されている。

慶喜の宿舎 若狭屋敷跡

慶喜の宿舎 若狭屋敷跡

平岡円四郎が暗殺されたと推察される二条城南側の与力長屋付近

5.足利将軍三代木像梟首事件

1863年(文久3年)2月2日深夜、北区衣笠山南麓にある等持院に安置されていた足利尊氏、義詮、義満の足利将軍三代の木像の首が盗まれる事件が起きた。翌日朝、三体の首は三条大橋下流の河原に晒された。京都の町衆は、「また、天誅かいな」と思ったが、生首ではなく、木像であった。位牌も並べられ、犯行声明をにおわす文面が添えられていた。
「逆賊足利将軍は、畏れ多くも朝廷をお悩ませつづけてきた。それが理由で首を晒した」
と…

足利氏に仮託して徳川討幕の意を表現したもので、幕末の尊皇攘夷運動のひとつである。木像三体の首と位牌は、当時の等持院住職が持ち帰り、元の場所に落ち着いた。
歴史上、足利将軍家が「逆賊」「朝敵」とされるのは、後醍醐天皇の「建武の新政」に対し、足利尊氏が反旗を掲げ、その後、南北朝の二朝廷となり、尊氏が北朝に与したことによる。この南北朝分裂により、足利将軍家への痛烈な批判、天皇に歯向かう「朝敵」という歴史観によるものであった。
この木像の首盗難事件で捕縛された犯人は9名になったが、明治維新後、事件は逆に評価され「討幕に尽力した」と判断されて、全員赦免された。その後は政治家として活躍した人もいる。

 

6.佐久間象山

1864年(元治元年)7月11日京都木屋町で白昼、開国派の兵学者、佐久間象山が殺害された。
象山は、外国の先進技術を学びながら国力をあげたのち、列強の仲間入りを果たすと言う、開国攘夷論者だった。
とはいえ、洋装様式の鞍をつけた白馬にまたがる象山の姿は、攘夷論者にとっては西洋かぶれの腑抜けに見えたのであった。

三条小橋 最初に襲われた場所

三条小橋 最初に襲われた場所

佐久間象山の墓

佐久間象山の墓

花園妙心寺塔頭・大法院墓地

刺客が象山を最初に襲ったのは、三条大橋西詰、三条小橋に近いところであった。
木屋町通を北上し、象山は馬を走らせたが、御池通りに出たところで、待ち伏せていた刺客に遭い、挟み撃ちにされメッタ斬りに惨殺された。象山の小袖は血で真っ赤に染まり、翌朝、三条河原に首が晒された。享年52歳。
攘夷派の公家や長州藩士らが京都から一掃されると、報復として開国論者が攘夷派に狙われて命を落とす事件が多発した。朝廷や幕府用人らに開国を解く象山が攘夷派の刺客に狙われたのは、象徴的と言えよう。

2回目に襲われた地に立つ佐久間象山遭難のレリーフ

 

7.赤松小三郎

赤松小三郎は、1867年(慶応3年)9月3日信濃上田藩に帰国途上、東洞院魚棚下る(下京区)で暗殺される。享年37歳。
京都に私塾を開き、英国式兵学を教える。京都の薩摩藩邸において兵制を蘭式から英式へと改変するのに指導的役割をした。
小三郎の才が佐幕派(反幕勢力たる勤王派に対して幕府政策を擁護する勢力)に利用されるのを避けるためという。薩摩藩の内情を知り過ぎていた。下手人は門下生の薩摩藩士との説が有力。
死後、金戒光明寺に葬られた。

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この記事を書いたKLKライター

自称まちの歴史愛好家
橋本 楯夫

 
昭和19年京都市北区生まれ。
理科の中学校教諭として勤めながら、まちの歴史を研究し続ける。
得意分野は「怖い話」。
全国連合退職校長会近畿地区協議会会長。

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