【第三回】金銀の相生結び 生まれながらにそなえ持っている、質感の近いものを象徴していた

今日でも、多くの家庭で、お正月は松飾りをし、家族そろってお祝いをします。このような風習は、京都御所を中心とする、「公事(くじ)」として執り行われてきた良き仕来りが、いつしか公家たちの間でも執り行われるようになり、次に京都の町に邸宅を構えていた地方の守護大名たちの間に浸透していき、守護大名たちによって我が国全土へと広まっていったものだと云ってよいでしょう。今でも、心ある人の間で広く執り行われていますが、それは京都御所で執り行われていた年中行事、つまり季節の折節に数多く執り行われていた「公事」の一部が、庶民たちの間に広がり、今でも執り行われていると云ってよいでしょう。

ここにいう「公事」とは、京都御所で執り行われていた年中行事を指します。その行事の内容は『公事根源(くじこんげん)』にて知ることができます。同書は足利五代将軍義量(よしかず)公のたっての願いにこたえて、一条兼良(いちじょう・かねら 一四〇二~一四八一)公が撰述し送られたものだと伝えられています。同書は我が国の宮廷の学者の中でも屈指だとされてきた、足利時代中期の宮廷学者の一条兼良が著したもので、江戸時代の元禄七年(一六九四)に松下見林が同書に注釈を加えた『公事根源集釈(くじこんげん・しゅうしゃく)』が広く世に知られています。同書は、京都御所では季節の折々に年中行事が執り行われていただけでなく、その行事がどのような理由で、何時ごろから執り行われるようになったのか、その起源も併せて記され説明されていました。註①。

私たちが今でも行っている年中行事に「五節供のまつり」があります。その行事の本となったのが、「公事」と呼ばれる、天皇を中心として執り行われてきた年中行事です。つまり、京都御所で執り行われてきた年中行事の一部が、庶民たちの間に広がり、現在では姿を変えて広く執り行われていると云ってよいでしょう。たとえば、お正月は、床の間に松飾りをした部屋で、家族全員がそろって新年の挨拶をしたのち、年の少ない子供から屠蘇酒を頂いたのち、丸餅の入った雑煮やお節料理をいただき、お祝いをすることを習いとしてきました。

宵祝膳
絵図① 我が家のお正月の祝い膳。膳の奥にはシダの一種のウラジオを敷き、塩鰯を居(す)える。これを「居(す)わり鰯」と呼び習わしてきた。左の椀には丸餅を入れた雑煮、右に乾菓子、手前の柳箸で食す。

では、そのように習いに従い、庶民たちがお正月のお祝いをしてきたのは、いつの頃から行われてきたのでしょうか。また、庶民たちの間で、お正月は若松を床の間に生け飾り、その前で屠蘇酒を飲み、お節料理をいただくことは、いつの頃から行われるようになったのでしょうか。我が国の庶民たちが、左記の習いに従い行事を執り行うようになったことを知る手掛かりは、我が国で最も古いとされている『仙傳書(せんでんしょ)』と呼ばれている花書にありました。註②。

同書には、

五節供の花のこと。 正月一日は松。

と記されていました。この花書は足利時代の中期ころに著された書物を、江戸時代の初めに木版刷りの本として出版したものです。ですから足利時代の後期ころには、武士階級の人々の間で習いとして執り行われていたことが分かります。それが、庶民たちの間に広がって行ったのは、江戸時代はじめころです。その理由として、下剋上の世が収束し、庶民たちは安心して暮らせるようになりました。すると、庶民たちの生活は向上し、正月飾りをしてお祝いをすることが出来るようになったのです。そこで、正月に用いる花材を相手方に贈るときは、先の「公事」にならって、若松であれば色紙を「松重」の重色目にして、「松包み」の折形(おりがた)に包み、花台に載せて送ったのです。そのようにして送る仕来りを庶民たちの間に広めたのは、『抛入花伝書(なげいれかでんしょ)』と題する花書でした。同書は生け花に関する仕来りを記した書物で、桃山時代から江戸時代初期にかけて京都の六角堂の僧侶として、また花の道の宗匠として活躍した、初代池坊専好(?~一六二一)が著したものです。同書の下巻の末尾には、

花の包みようを問
一、或曰く、花の根のつつみよういかゞ。答、爰(ここに)図して、此如く水引にて蜻蛉(とんぼ)に結ぶ

と記し、前回紹介した『花鳥のつかい』と同様の絵図を載せていました。ただ、ここでは根元を「蜻蛉(とんぼ)結び」にしているところが異なっています。「蜻蛉結び」については後に詳しく説明することにします。
また、年中行事以外の祝い事である「祝言」、一般的には「結婚式」の祝いに贈る花材の根元は、金銀の水引で相生結びにして贈ることを習いとしてきたことを、今に伝えていました。

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花材を折紙につつんで
絵図② 『抛入花伝書』所収。初代池坊専好著。同書には著者名が記されていないため、これまで色々の名があげられてきた。だが、私蔵の『齢花集覧』にて初代池坊専好が記した花書であることが判明した。 初代専好は、京の都で「百瓶華会」と称する生け花展を開き、京都の人々の人気をさらった。それだけでなく、文禄三(一五九四)年、豊臣秀吉が、彼の家来の前田邸に御成(おなり)したとき、つまり秀吉が前田邸を訪問した時、前田邸の大床には「砂の物」と呼ばれる形式の生け花を生けたことが知られている。その生け花の作品は、のちのちまで「池坊一代の出来物なり」と語り継がれているように、一面雄大で華麗であるだけでなく、静々とした優美さを兼ね備えていた。元日本大学教授で故湯川制氏は「初代専好は、西洋における、十六世紀のミケランジェロに匹敵する、大芸術家である」と評した様に、稀にみる傑出した花道家であった。

「相生(あいおい)」は「相老」とも書きます。金銀の「相生結び」には、若い男女が恋をして結ばれ、晴れて夫婦となり、夫婦ともに白髪が生えるまで健康で長生きができるようにとの願いが込められてきました。その姿は「島台(しまだい)」の上に、黒松と赤松の古木の姿を象った飾り物を置き、その松の根元に翁(おきな)と媼(おうな)の老夫婦の人形を置いた、飾り物を指してきたことは、すでに話しました。その思いは現代科学が進んだ今でも、人の世である限り変わることはないと思います。

相生結びを掛けた折形
絵図③ 『はなつつみ』所収。同書は遠州流の本にて伝えられたもの。

絵図を見ると、島台の上に載せられた翁の手には熊手、媼の手には玉箒を持って立っています。熊手は屋外の仕事を表し、玉箒は屋内の仕事をあらわしていました。つまり女性は子供を産み育てなくてはいけませんから、出産する部屋、産所を象徴するものとして「屋内」の言葉が使われてきたのです。そのことをもって男性は屋外、女性が屋内を司るとしてきたのです。仕事の場所は違っても、男女は互いに尊敬しあい、協力し合うことが必要である。そうすることが出来れば、互いの人柄は円満になり、共に白髪が生えるまで健康で穏やかに暮らすことができ、結果として長生きをすることができるのだ、と云うことを語りかけてきたのです。そこには男尊女卑の思想が、我が国では無縁のものであったことが分かります。詰まるところ、翁が手にもつ熊手と、媼が手にもつ玉箒は、「相生」の言葉をもとに、「金銀の相生結び」に姿を変えて、夫婦がともに白髪となるまで円満に暮らしていく秘訣を、目で見て学ばせてきたと云ってよいでしょう。

ところで、我が国では、金と銀は、最も質感の似たものだとされてきました。ですから、我が国では結婚式の祝いに持参する祝儀袋には金と銀の水引で相生結びを掛けた袋を、お祝いとして贈ってきたのです。では、最も質感の似たものとは、どのようなものを指してきたのでしょうか?

男性と女性は、生まれながらに体型も異なり、持っている性格も異なるものです。とは言っても、その中から最も性質の似たもの同士が寄り添い、一つ屋根の下で暮らして行くには、互いが理解しあい、波風をたてず言い争いをすることなく、穏やかに暮らしていくことが大切です。そうすることができれば、円満に寿命を全うすることが出来る。つまり互いが白髪となるまで、寿命を全うすることが出来る。そのことを「金銀の相生結び」はそっと私たちに教えてきたといってよいでしょう。しかしながら、私たちが耳を澄ましそのことを聴こうと寄って行かなければ、聴くことはできません。そこに難しさが潜んでいると云ってよいでしょう。
更に説明すると、性質の似た男女が一緒の屋根の下に暮らすと云うことは、互いに思いやりをもって同じ色に染まっていくことです。金銀の相生結びは、そのようになることが、このうえもなく一番の幸せであるということを、単純明瞭に意匠化した姿をもって、今も私たちに語りかけているのです。

足利時代から江戸時代にかけて、我が国は「金」と「銀」の産出量が世界でも屈指の国であったことが知られています。
日本の国が江戸時代とよばれたころ、我が国は世界でも有数の金と銀の産出国であったことは誰もが知っていることです。にもかかわらず、西欧諸国の宮殿のように、京都にある皇居の室内を、金や銀で目もくらむような煌びやかな建物としてこなかったのです。それは、我が国では西洋の国々のように、金や銀を、王権の象徴だとみてこなかったからです。たとえば、伊勢神宮の神殿は、檜の白木をもって二十年に一度建て替えることで、千数百年前に建てられた姿をそのままに、今に伝えています。そこには自然を生かし、自然とともに生きてきた、我が国の先人たちの深い優れた知恵が、今でも脈々と引き継がれていることを見て取ることが出来ます。つまり、天皇家を中心とする公家たちが今に守り伝えてきた文化とは、自然を師とし、共に生きていく文化であったと云ってよいでしょう。ですから、京都の町を中心として醸し出されてきた伝統文化には、凄さ深さがあると云っても過言ではありません。

繰り返しになりますが、祝儀袋に掛けられている金銀の相生結びに込められた思いは、宮中行事に源がありました。「公事」と呼ばれ、宮中で醸し出された仕来りが、今も口伝えで執り行われているといってよいでしょう。言葉を変えていえば、京都の町を中心として執り行われてきた良き仕来りが、池の水に落ちた一滴の水滴が波紋となり、我が国全土に広まっていったのです。この素晴らしい我が国の精神文化を後世に残すため、私たちはいま一度足を留め、見直す時期が来ているように思います。

註①  『公事根源』一条兼良著。同書は元禄七年、松下見林翁が注釈を加えて木版刷りとして出版した『公事根源集釈』が、世に広く知られている。
註②  『仙傳書』。原本は伝えられていず、刊本だけ伝えられている。序文、跋文、ともに記されていないことから、誰かが忘備録として記したものとされている。後半には、『義政公御成式目』の後半が記されている。

〇『公事根源』『仙傳書』『抛入花伝書』『齢花集覧』『はなつつみ』著者蔵書
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この記事を書いたライター

出身地
熊本県 熊本市

生年月日
昭和22年生

職業
自営業 いけはな研究家 花道・洗心流教授

テーマ
はなの道は、何時興ったのか。また、一輪の花に、どのような意味が込められていたのか?

過去の出筆
『はなをいる 花に聴く』 マインド社刊 2018年
『石州流生花三百ケ條』監修・解説 マインド社刊 2021年
『いなほのしづく』(A3用紙に約三千字の文章、関連した絵図) 月一回発行。令和三年六月で三六三号 県立図書館等にて公開。

|いけはな研究家 花道・洗心流教授|花道/生け花