はじめに
能楽師から切っても切り離せない、いや離れられないと言う方が正しいのが、能舞台というものです。京都には古くから守られてきた能舞台がいくつも在ります。私が所属している金剛流の金剛能楽堂はその一つです。また京都で言えば、同じ烏丸通り沿いの今出川通を少し上に行きますと、観世流の河村能舞台があります。
ここで、能舞台と能楽堂という言葉の説明をしておきます。能舞台とは、能楽という芸能を演じるために必要な全ての装置を含めた舞台のことを言います。そして能楽堂とは、能舞台を中心として建てられた劇場のことを指します。
現在では能楽協会の公式サイトから全国の能楽堂を検索できるようになっており、約70ヵ所の能楽堂が案内されます。京都には6つの能楽堂が登録されておりますが、これらは能楽堂(又はそれに準ずる施設を有する舞台)の数であり、純粋に能舞台というもの自体は、全国にはもっと多く存在します。特に京都では寺社仏閣が有していることが多く、数をかぞえれば驚く結果になるかもしれません。
今回は、能舞台に仕掛けられた装置についてお話し致します。但しマニアックな解説は専門家に任せるとして、あくまで演者目線で、そして能舞台の近くで寝泊まりしていた者として、友達(いや見守ってくれる親)のような存在である能舞台の素敵な特徴を、少しだけ皆様にご紹介したいと思います。
檜の本舞台
まずご案内するのは、能舞台の中で最も重要と言っても過言ではない「本舞台(ほんぶたい)」です。”檜舞台に立つ”という言葉が残っている様に、一般の人が上がれるところではないのが、正にこの本舞台のこと。私たち能楽師にとっては聖域であり、基本的に本番や稽古の時以外は立つことが許されません。ただし舞台を所有する者やその家人、弟子などは日々稽古や掃除を致しますので毎日上がることができます。
私はよく早朝や夜の遅い時間などに電気をつけず暗い中で舞台に上がりました。この経験は今とても活きております。能楽では能面をかけて舞うことが多いので、舞台の大きさを身体で覚えていたり、舞台上からの景色が頭に入っていたりすると、安心して役を勤めることができるのです。
また、毎日の掃除の時に舞台を間近で見ますので、次第に板の細かな傷や摺り跡の箇所を覚えます。少しでも増えると自身の身が削られるような悲しい気持ちになります。能楽師にとって舞台はそれほど特別な存在なのです。
屋根と白州
初めて能楽堂に入って来られた方や能舞台をご覧になった方で、まず不思議に思われることが多いのは「屋根」の存在です。これは、能楽という芸能が野外で行われていたことの名残だと言われております。他にも、舞台の下には「白州」が敷かれております。かつて自然光を舞台上に集める先人たちの知恵で、同時に聖域であることを意味しました。かつて白州の部分はもっと広大であったと聞きますが、現在では形式的に小さく収められております。
さて、私の思い出話をいたしますと、白州の掃除はとても大変だったことを思い出します。特に『土蜘蛛』という蜘蛛の巣を沢山投げる演目がありますが、大抵この演目後の掃除に苦労致します。小道具の蜘蛛の巣というのは、和紙が細長く切られたものが丸まって詰まっており、その先端に小さな鉛が付いております。その仕掛けのお陰で、遠くに美しい放物線を描いて巣が放出されます。この鉛が非常に厄介で、多くが舞台上に残るのですが、稀に板間や屋根の隙間に挟まり、また白州の間に落ちることがあります。特に白州に落ちた鉛は、文明の利器である掃除機でも吸うことが出来ず、手作業で拾うことになります。内弟子による掃除の苦労話でした。
目付柱
少し前まで、能楽堂見学に来られた方に舞台の説明をする機会がありました。まれに能舞台の屋根をご覧になった後、相撲の吊り屋根のことを仰る方がいらっしゃいました。確かにテレビ中継で観る相撲の土俵には柱がありませんが、これは相撲では柱を使用しないからと分かります。ではなぜ能舞台には柱があるのでしょうか。ここに気が付かれる方は、本当に”目の付けどころが良い“と思います。能舞台の柱の中でも、正面席から向かって左の柱は特に重要なものです。これを「目付柱(めつけばしら)」と呼び、能楽師が目をつけて舞う、上演に欠かせない柱です。能面をかけて狭まった視界でも無事に勤められるのは、目付柱を頼りに位置関係を把握しているからなのです。
この「目付柱」の唯一の欠点は、見所(観客席)のど真ん中に位置していることです。それ故に、しばしば観劇のお邪魔をしてしまいますが、どうぞご寛大なお気持ちでご覧頂けますようお願い申し上げます。