江戸時代、高砂神社の「相生の松」は、同神社の護符として広く庶民たちに授けられていたことをご存じですか。
この「相生の松」については、十五代応神天皇の母親である神功(じんぐう)皇后が、神のお告げによって三韓征伐に出陣され、勝利して凱旋された場所が、高砂の浦であったと伝えられています。その神功皇后がお産みになられたのが応神天皇です。応神天皇については神話的な要素を含んでいる天皇だとする説もありますが、多くの歴史学者により、実在が認められる天皇であるとされています。勿論、異論もあるそうです。(神功皇后を画いた絵図は第一回、②の絵図参照)
神功皇后が凱旋された場所には、いつしか一株の松が生い出て、大きく成長したのが「高砂の松」である。その松は雌・雄の両幹に岐れていたことから「相生の松」と称えられるようになりました。高嶋雄三郎氏は『松』と題する自書に、
この銘木も、一時枯れて跡を絶っていたことは、源俊頼の筆で知られている。上代以来和歌に謡曲に有名な相生の松の枯れ死を惜しんだ本田忠政が、寛永二年に三代相生の松を継植した。この松は天然記念物に指定された天下の名木であったが、昭和十二年に枯れ死し、現在は天然記念物の石碑とともに、霊松殿中に、その巨幹を残して盛時をしのばせている。今、境内には秩父宮妃御命名の四代相生の松が、いよいよ濃く、伝統のみどりに栄えている。その傍らに尉姥神社があり、寛永七年にその尉姥神社を朝廷より、「永く夫婦の伉儷(こうれい=夫婦・つれあい)の道を護らん」と仰せられ勧進したものである。四季を通じて色かわらぬ松の永遠性は、不老長寿の思想に結びついて、日本では、相生、連理の松の精が『高砂』の翁・媼の話となって伝えられている。
と、記していました。ですから、私蔵の護符は、江戸時代の三代目の松の雄姿を木版刷りし、頒布された物であったことが分かります。同護符は縦35センチ、横48センチの和紙に、その雄姿が墨摺りされていました。
高砂神社の「相生の松」は、世阿弥作の謡曲『高砂』の物語を通して広く知られています。一昔前までは、結婚式には必ずと云ってよいほど謡われてきたのが、謡曲『高砂』で、
「高砂や、この浦舟に帆をあげて、この浦舟に帆をあげて・・」
の台詞は、誰もが一度は耳にしたことがあると思います。その粗筋は次のようなものです。
時はうららかな春。場所は、播州高砂の浦。その浦に生えている高砂の松の木陰を、共に白髪となった翁と媼が掃き清めていた。
肥後の国の阿蘇神社の神主の友成は、京の都へ上る途中にこの浦に立ち寄った。そして、この老夫婦を見て、高砂の松と云うのはどの木かと尋ねた。さらに、国を隔てた「高砂の松」と「住吉の松」とを「相生の松」という謂れや、「高砂の松」のめでたい謂れなどについても尋ねた。すると老夫婦は、中国の故事などをひいて詳しく答えたのち、翁と媼は、実は私共は、その相生の松の精であると打ち明けたのち、住吉でお待ちしていますと云いのこして、夕波がうちよせる汀に繋いであった小舟に乗って沖のかなたへと消えていった。そこで友成もその後を追い、舟で住吉へと行く。すると、月明かりの下に住吉明神が影向(ようごう)されて「御代万歳」「国土安稔」の、神楽を舞われ祝われた。その日は春の初めであって長閑(のどか)な気分があった。また、松の葉は千年の齢をたもち変わらぬ翠の色を見せている。しかもその松を象徴している翁と媼は、夫婦の仲が変わることなくともに長寿を保つというめでたさがあり、住吉明神の姿には颯爽とした威厳を感じ取ることが出来た。
高砂神社の「相生の松」は、黒松と赤松が根元で一緒に生えている同根の松です。これと似た物に、「連理の松」または「比翼の松」と呼ばれてきた松があります。高嶋氏は「我が国では不老長寿の思想に結びついて、相生・連理の松の精が『高砂』の翁・媼の話となって伝えられてきた」と述べられていたことはすでに紹介しました。この「比翼の松」とは黒松と赤松が、左右から抱き合いながら接ぎ木をしたかのように完全に一体化したものを指してきました。鳥取県気高郡浜村町の長泉寺境内にある松が特に有名だそうです。
ところで、花の道は、結婚式が執り行われる床の間に、「相生の松」や「比翼の鳥」を意匠した生け花を飾ってきました。ここには「比翼の鳥」を意匠して生けられた、生け花の絵図を載せておきます。
この絵図を載せているのは『生花秘伝集』です。同書には序文も跋文ものせられていないことから、誰かが備忘録として書き留めていた物を、風月吉郎兵衛半七という人物が出版したのだと思います。巻末に「元禄十五年九月、風月吉郎兵衛半七」と記されていることを当時の出版事情に照らし合わせ推察してみると、風月吉郎兵衛半七とは版元であったと思われます。
江戸時代初期に出版された花書には『生花秘伝集』と同じように、著者名を記さずに出版された花書がありました。それは『抛入(なげいれ)花伝書』という書物です。
この書物には著者が記されていなかったことから、学者の間では随分と長い間、誰が記した花書であったのかと幾人もの名前が挙げられてきました。昭和五十四年当時、日本大学教授であった湯川制氏は、『諸流作家収載の意味』と題する小論文に、
十七世紀末葉には日本のいけばな世界に、早くも、次時代への様式的模索が開始されている。まるで西洋十六世紀のルネッサンス最盛期中に、次時代への志向が認められるのと同様である。後になって「バロックの父」と呼ばれたミケランジェロ(1475-1564)のような人物がいた。それは、『抛入花伝書』の著者である。
その著者が何者であるかは明白ではない。立華全盛期のさ中に、匿名でなければ無理だったと思われる。自信を「さる癖」と記すだけであり、また自論でなくて、「情けある人の尋ね来て教ふ・・・是は道のしるべすべき物なりと一冊を給う」と逃げている。しかし、かなりの人物でなければ、本屋は引き受けなかったであろう。ともかく時代の動向について、感受性の鋭敏な、有数の作家だったことは十分に想像される。著者は決して「古いものの復活」を求めたものではなく、明らかに立華とは違った次時代を予感していたと思わずにはいられない。
と記されていました。湯川氏は、江戸時代初めにミケランジェロのような大人物がいたと云っていますが、その人物の名を挙げていません。もし湯川氏が、西堀一三氏が昭和四十三年に著した『いけばなの初め』をご覧になっていたら、「感受性の鋭敏な有数の作家」ではなく、きっと「初代池坊専好」と、その名前を明記されるだけでなく、「情けある人の・・・」とは、藤原惺窩や一条兼良といった、我が国の歴史において、もっとも高名な学者の名前をあげられていたに違いありません。そのように私が言えるのは、『いけばなの初め』には『齢花集覧』に収められていた『抛入花伝書』の粗笨が伝えていた絵図を載せ、惺窩や兼良の言葉をもって、その抛入れ花が生けられた理由を説明していたからです。そのようなことを考え合わせると、『生花秘伝集』も、きっと高名な花の道の師匠が著したものであったと思います。
因みに、初代池坊専好(?~1621)は、詫び茶の湯を大成した千利休の花の道の師匠であり、専好は『古哲の花形』と題する池坊家に代々伝えられていた、抛入れ花に関する秘伝書を利休に授けていました。ただ、このことは池坊家に伝えられていないこともあって、そのことをご存じの方は余りおいでになりません。そのことについては、回を改め詳しく話をすることに致します。
江戸時代も八〇年ほど過ぎると、我が国の庶民たちの生活も豊かになってきました。そこで庶民たちは、結婚式が執り行われる床の間に、『生花秘伝集』が伝えていた生け花を、生け飾るようになりました。それは、同書を含む生け花に関する書物が次々と刊行されたことで、多くの庶民たちのあいだに生け花の文化が浸透していったからです。
絵図を観ると、一つの花器に、真っすぐに伸びた若松が二本並べて生けられていました。このシンプルな姿に生けられた生け花には、現代人がやゝもすれば忘れかけている、深い意味が込められていたのですが、そのことをご存じでしょうか。
ここに用いられている花材は、お正月が近づくと、今でも花屋さんで売られている、真っすぐに伸びた「若松」が用いられていました。このように真っすぐ伸びた松のことを、中国では「松柏赤心」の熟語で表してきました。そのことは、約二〇〇〇年前、文字学の大学者と称された許真によって著された『説文解字』に記されていました。この字書は随分と昔に、我が国へも伝えられていました。同書をもとに江戸時代の寛文十(一六七〇)年、夏川氏元朴は『説文韻譜』と改題し、木版刷りの字書として出版しました。
『説文解字』を著した許真は、「松や桧の仲間は、木の中心部が赤く染められている」。
そこで「松栢赤心」の熟語をもって、「松や桧の仲間は、天に向かって真っすぐに伸びて行くことが出来る」と説きました。
許真は、植物の姿をよく観察したのです。その結果、松や桧の仲間は天空高く真っすぐに伸びることができると云ったのです。因に『説文解字』は【一】の文字を、
【一】物事の初めであり、根本を表す。
まこと、純一、誠一の意味をふくむ。
と説いていました。
許真の説に従えば、「一とは、物事の始まり。今風に言えば、この宇宙を作ったビッグバンのようなもの。そこから、人を含む、すべての生き物が生まれた。更に説明すると、ビッグバンから生まれたのが天と地であり、すべての生き物は天と地によって育まれる。故に、天と地の教えである、〝まこと〟に従い生きていくときは、松や桧のように、天空に向かって真っすぐに伸びて行くことが出来るのだ」と説明していました。
同書は【朱】の文字を、
【朱】赤心の木。松や桧の仲間は、その中心が赤く染められている。故に天空に向かって真っすぐに伸びて行くことが出来る。大切なことは、松や桧のように、人の心に、まことの心が具わること。
と解いていました。
『説文解字』が我が国に伝えられると、我が国の先人は、松や桧の仲間が天空に向かって真っすぐに伸びることが出来るのは、幹の中に【一】を含むことで、朱色に染まっているのだと理解し、松の幹を割ってみたのです。すると、幹の中心部は「朱色」に染まっていました。そこで「松や桧の仲間は、幹の中心が朱に染まっている故に、天に向かって真っすぐに伸びて行くことが出来るのだ」との説明に納得し、引いては「人が、守らなければならない道理を、松や桧はその姿を通して、私たち人に示して見せているのだ」として、結婚式が執り行われる床の間に、真っすぐに伸びた若松を生け飾ってきたのです。
「松栢赤心」の【赤心】とは、「うそ偽りのない心」。更に中国ではその言葉をもとに「赤心を推して人の腹中に置く」と言い伝えてきました。その言葉には、「人と接するときには、真心を以て接し、すこしもへだてないことを意味する」と『広辞苑』は説明しています。つまり、すべての人が幸せに生きていくための決まり事とは、【一】の文字が含み持つ意味を理解することだと説かれてきました。花の道は、そのことを受けて、目で見て理解するために、我が国の先人たちは結婚式に生ける生け花は、天を指して真っすぐに伸びた若松を花材として生けることを習いとすると定めたのです。詰まるところ、ここに載せた生け花には、「松栢赤心」の熟語を目で見て理解させるため、生けられてきたと云ってよいのですが、それ以外にも無言で大切なことがらを私たちに語りかけてきました。
絵図を観ると、松の左側に「男」、右側には「女」の文字が書き入れてあります。ですからこの生け花は、恋して結ばれた男女の二人に、このように生きて行くことができれば、幸せに生きていくことができますよと、人としての究極の願いを込め生けられていたのです。ここには、二本の若松が同じ高さに生けられていました。その姿を通して、男性と女性、両性は互いに性が異なっていても、お互いを尊敬し助け合って生きていくことが大切である。つまり『共棲』することの大切さを、生け表されていたのです。このことは、江戸時代の庶民たちの間では「男尊女卑」の思想が無かったことを今に伝えていると云ってよいでしょう。
更によく観ると、松の下の枝は左右の枝が交差して生けられていました。また、左下には「このしんにある葉を、ミのげという」との文字が書き添えられていました。この生け花のように、左右の枝が交差するように生けることを、「連理の松」に仕立てると云い習わしてきました。とともに、このように生けられた姿には、「比翼の鳥」が生け表されていました。「ミのげ」とは「蓑毛」とも書き、鷺の首の部分に生えている乱れた毛を指すことから、この生け花が「比翼の鳥」として生け表されていたことが分かります。では、「比翼の鳥」とは、どのような鳥を指してきたのでしょうか。
「比翼の鳥」の言葉をもっとも早く伝えていたのは、中国が周と呼ばれた二千年以上も前に著された『爾雅(じが)』という辞書です。同書は早くに我が国へ伝えられていました。その書物をもとに、儒学者の貝原益軒は、元禄七年(一六四九)に『和爾雅』と改名し、その本を出版しました。
同書には「比翼の鳥」を、
南方に比翼の鳥あり。比べれば飛べず。
と記していましたが、その説明文だけでは、比翼の鳥とはどのような鳥かを明確に知ることはできません。そこでさらに『広辞苑』等をもって説明すると、
南の国の楽園には、比翼の鳥と云う鳥が住んでいる。この鳥は、雄は頭に右目だけ、胴体には右翼、右足だけ。また、雌鳥の頭は左目だけ、胴体には左翼、左足だけで、この鳥が空を飛ぶことが出来るのは、雌雄の二羽が一緒になったときだけである。だが、互いを比較しあうときは、空を飛ぶことはできない。
という想像上の鳥で、実は誰も見たことがないとされてきました。ですから「比翼の鳥」がどのような鳥だか良くイメージできない方もいられることでしょう。幸いなことに江戸時代前期、京都には儒学者の中村惕斎(てきさい 1629-1702)が居ました。惕斎は、ほとんど独学で朱子学を収め、伊藤仁斎と並び称されている人です。その惕斎が著した絵解き百科事典が『頭書 訓蒙図彙(きんもうずい)』です。同書には比翼の鳥を画いた絵図を載せていました。ここに、その絵図を載せておきます。詰まるところ、「比翼の鳥」とは、異なる松の枝が接ぎ木したかのように、男女の契りの強いたとえをもとに、想像上の鳥を描いていましたが、その鳥は東南アジアに生息する「極楽鳥」、またの名を「風鳥」という鳥の剝製をもとに「比翼の鳥」を描いたと伝えていました。
『生花秘伝集』が載せている「相生の松」に話を戻します。一般的には、この絵図のように枝葉が交差するように生けることを、花の道の師匠は「禁忌」だとして、注意してきました。ところが結婚式に生ける松に限っては、このように枝葉を交差して生けることを許してきました。その姿が「比翼の鳥」を生け表していることを理由に許し、さらに花の道の奥義(おくぎ)を伝えている生け花、「秘伝の花」として伝えてきたのです。そこに、花の道に添って生けられた、生け花を生けることの難しさが潜んでいると云ってよいでしょう。
私は、これから花の道の教授になることを目指す若い人に、
「結婚式が執り行われる会場に、『比翼の鳥』を生け表した生け花を生けられるようにお稽古をしておきましょう」
と話します。すると若い弟子さんたちからは、
「そのような生け花を生けても、現代の若い人には理解できません。ですから、受け入れられないように思います。そのような生け花を生けてやるよりも、美しく咲いている赤いバラの花を沢山生けてやった方が、友達は喜ぶに決まっていると云えますが・・・」
との答えが返ってきました。
我が国の先人たちが大切に守り伝えてきた「相生」や「比翼・連理」の言葉が含み持つ「共棲」の言葉の意味を、多くの若者たちにも知っていただきたいです。
「共棲」の言葉は、マメ科の植物の根を観れば、その意味を簡単に理解することができます。たとえば、蓮華の根を掘り起こしてみると、その根には小さなコブが沢山付いています。その小さなコブは、根粒バクテリアという菌が棲み付いているためにできたコブです。根粒バクテリアは空気中の窒素を使って養分を作り、棲みかを与えてくれるレンゲ草にも養分を与えます。このような助け合いの関係を「共棲」と呼んできました。しかしながら、何時しか、そのことを忘れてしまっているのです。
「比翼の鳥」は、中国で生まれ、我が国では『高砂』の物語をとおして語られ、京都の将軍のあいだで究極の願いとされました。その想像上の鳥の姿を、職人や商人といった庶民たちにも理解できるようにと、書物を通してやさしく説いたのは、一条兼良、藤原惺窩、貝原益軒、中村惕斎たちでした。彼らが活躍した時代は異なっていましたが、京都の町を中心に学問を深めた学者たちです。その学者たちが語り聞かせた言葉をもとに、花の道の先人は、床の間に、生け花を生け示してみせたのです。その姿は絵師によって描かれ、さらに木版刷りの「花書」として出版されることで、我が国の隅々へと伝えられて行きました。
江戸時代初期に著された「花書」には、先の学者たちが語り聞かせた言葉を目で見える姿として生けあらわした抛入れ花が、数多く今に伝えられています。その抛入れ花は京都の町を中心に醸され深められた、我が国固有の文化である「花の道」の意にそって生けられていました。つまり、花の道の先人が生け示した抛入れ花の姿とは、京都の町で深められた学問をもとに生け表された姿を、絵師が写し取り、今に伝えられているといえます。その抛入れ花の姿が、我が国の人々の心をどれほど豊かにしてきたかは、あらためて言うには及ばないことです。このすばらしい我が国固有の文化である生け花の文化を、もっと多くの人の知っていただきたいと思います。
『生花秘伝集』 元禄十五年 著者不詳 刊
『抛入花伝書』 貞享元年 初代池坊専好 刊
『説文韻府』 元文十年 夏川氏元編 刊
『和爾雅』 元禄七年 貝原益軒編 刊
『頭書訓蒙図彙』 寛政元年 中村惕斎 刊