【第五回】足利八代将軍義政が生けた、抛入れ花
そのように私が言えるのは、東京大学国語国文学が発行した『国語と国文学』、昭和四十二年号に「室町時代連歌最盛期に活躍した蜷川智蘊(ちうん)と池坊専順についての覚書」と題する小論文を石村雍子氏は寄せていました。その小論文には、「専順は文明のころ、義政の花の御所に参邸し、連歌の席に連なり、また義政等に花道を講じ・・・」と述べられていました。そこには、義政、能阿彌、専順の三人が同席して連歌を読んだことを記すとともに、連歌の会が執り行われる書院の床の間に相応しい生け花を生けただけでなく、そこに集まった諸芸術家たちに、花の道に関する講義をしたことを述べられていたからです。
専順は、義政の同朋衆の一人であった能阿彌とともに義政の命を受け、連歌の会を催すためのマネジメントをしたのです。それだけでなく、その部屋に生け花を生け飾ったことが伝えられていたのです。義政の側には花の名手と云われた能阿彌が控えていました。にもかかわらず専順が能阿彌とともに床飾りの花を生けたのは、専順が「御家元古流」の秘技を、専阿彌慈垂から授けられていたことが大きくかかわりあっていたように、私は思います。因みに、能阿彌が著した私蔵の『君台観左右帖記』には、唯一、花瓶に抛入れ花を生けた絵図が描かれていました。そこには、池坊が伝えてきた、立花とは異なる抛入れ花が描かれていました。そのことは、専順もこの抛入れ花と似た生け花を生けたであろうと思われます。
のちに、能阿彌の孫の相阿彌が書院の床飾りを大成しました。それを今に伝えているのが『御飾書』です。同書が伝えている床飾りの絵図には、三幅対の掛け軸を掛け、両脇の掛け軸の前に一対の生け花が生けられていました。その生け花はのちに「立花」とよばれる生け花の姿に近い生け花が生けられていました。同書は、このような床飾りの方式を、「諸飾(もろかざ)り」と呼び習わしたことを今に伝えています。
時代は下り、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて、武士の大名であり、作事奉行として活躍した人に、小堀遠州がいました。遠州が京都の文化人たちと交わるようになったのは、東寺の五重塔の建設に携わったことがはじまりであったと伝えられています。のちに、天皇のお住まいである御所や、天皇を退かれた上皇がお住まいになられた、仙洞御所を手掛けていました。たとえば、慶長十一(一六〇六)年、遠州は徳川幕府の作事奉行(幕府の官僚、及び設計者)に任命され、仙洞御所の普請に携わりました。そのとき中井正清が工事を行っていました。このように、遠州と天皇家とは御所の建設を通して信頼関係が深くなっていったのです。そのことが本となり、「御家元古流」ろ呼ばれ伝えられてきた花の道の秘伝を、承快法親王から授けられるに至ったのでしょう。遠州が「花道・遠州流の祖」と称された理由は「御家元古流」の秘伝を授けられていたからだと云ってよいでしょう。
足利時代の中期から江戸時代の初めにかけて、「御家元古流」と呼ばれた生け花の秘伝は、梶井宮家に、代々伝えられていました。それは、伏見宮家の親皇たちが、圓融院門跡寺院とも呼ばれた、この寺院にお住まいになられていたからです。そのことは『雲上示正鑑』に載せられていた「立花生華御家元略系譜」にて知ることができます。また、その系譜に伝えられている堯胤親王から慈胤入道親王までの親王たちが、圓融院御門跡の座主であったことを『雲上明覧大全』は今に伝えています。
圓融院御門跡とは、皇子や貴族たちがお住まいになられた寺院の一つです。古くから学問の府(今にいう大学)として知られていました。それだけでなく、遠く平安時代から、目の不自由な方に針灸や琵琶を教え、優秀な者には方眼の位を授けることで自活できるよう福祉活動に力を注いできたことは広く知られていました。だが、花の道の「秘伝」を伝えていたことは余り知られていません。
江戸時代の中期、小堀遠州を祖とする生け花の流派に、正風遠州流がありました。その流祖と称される人に、貞松斎米一馬(1764-1837)がいました。米一馬が著した花の道の秘伝書に『遠州流・切紙口伝書』(以後、切紙口伝書と表記する)が今に伝えられています。「切紙口伝書」とは、歌の道が、特に大切なことがらを書物に著さず、大切なことがらを口授することで伝えてきました。そのとき口授した項目を紙に書き綴って与えたことから、「切紙口伝書」と呼ばれてきました。
花の道は、歌の道に習い、口授する大切な内容を画いた絵に簡単な説明書きを添えたものを、「切紙口伝書」とよび習わしてきました。そこに描かれた絵図を本に、絵図に描くことができない事柄や思いを、花の道の師匠は彼の弟子に語り聞かせたことから、そのように呼ばれてきたのです。
『切紙口伝書』の一巻には、床の間に掛け軸を掛け、その前に生け花を生けるとき、どのような姿に生けたらよいのか、その骨法図が五通り描かれていました。その中の一つに、四幅対の掛け軸を掛け、床の間の中央に卓(しょく)を置き、その卓に椿の花を生けた絵図を載せていました。その絵図をよく観ると、卓に生けられた生け花は、卓の足に触れないように生けられていました。その骨法図は、まさに比翼の鳥が羽を広げて飛び立とうとする姿が生け表されていたと云ってよいでしょう。
そのように私が言うと、「卓に生けられた椿の花は、比翼の鳥の頭には見えませんが」と云われる方もおいでになるかと思います。そのような方には『抛入花之園』が載せている「卓下の花」を見ていただければ、「なるほど」と頷かれるかと思います。
『抛入花之園』が載せていた絵図は、床壁に二幅対、または四幅対の掛け軸をかけ、床の間の中心に「卓」を置き、その「卓」に抛入れ花が生けられていました。そこには、『切紙口伝書』が伝えていた床飾りの絵図と同じ様式の、生け花が生け飾られていたことが分かります。
ところで、『御飾書』が今に伝えている絵図を観ると、床壁には三幅対の掛け軸を掛け、その前に足付きの敷台を置き、敷台の中央には香呂・香合に香匙(さじ)を並べ飾り、敷台の左右には一対の燭台、一対の花器を並べ置き、花瓶には生け花が生けられていました。このように並べ置く方式を、相阿彌は「諸飾り」と呼んだことを伝えていました。西堀一三氏は、「『御飾書』が載せている絵図には、燭台が対で置かれていた。ということは、仏教色から完全に脱却していなかったことを見て取れる」と、『いけ花の初め』の中に述べられていました。
では、『切紙口伝書』が伝えていた絵図には、どのような意味をこめ描かれていたのでしょうか。その絵図には燭台・高炉・香合・香匙入れだけでなく、敷台も取りのぞかれ、床の間の中央に「卓」と呼ばれる足付きの香呂台を置き、「卓」の左右には一対の抛入れ花が生けられていました。そこには、比翼の鳥が飛び立とうとする姿が描かれていたと云ってよいでしょう。
因みに「卓」の足は、東・西・南・北を示していると伝えられてきました。そこで、「卓」に花を生けるときは、その足に触れないように生けること。その理由として、天皇が正月元旦の未明に執り行われている宮中行事である「四方拝」の意を以て、「卓」の足に触れないように生けることを習いとしてきたのです。
そのような事柄を心に留め、あらためて『切紙口伝書』が伝えている絵図を観て考究すると、その姿は仏教色から抜け出て、「比翼の鳥」を主題として生けられていたことが分かります。それだけでなく、イザナミの尊とイザナギの尊の二柱の思いや、「四方拝」に込められた意味である、「宝作の無窮」「天下泰平」「万民安寧」を込め、生け表されていたといってよいでしょう。さらに『切紙口伝書』が伝えていた骨法図には、「御家元古流」が伝えてきた「秘密」の言葉を目に見える形で生け表されていたといっても過言ではありません。
先に、『雲上示正鑑』は「御家元古流」と呼ばれる花の道の秘伝書を、伏見宮家が伝えてきたと記しました。そこに記されていた「ことば」とは、はるか昔の縄文人や弥生人たちが語り継いできた、「やまとことば」で記されていたかと思います。だがその秘伝書は散逸し、現在、その花伝書を直接みることはできません。だが幸いなことに「御家元古流」が後世に残したかった最も奥深い意味の内容を記した花書が伝えられていました。その花伝書とは元文三(一七三八)年、園大納言基香卿が墨書した『三日月之巻』と題する花書です。
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出身地
熊本県 熊本市
生年月日
昭和22年生
職業
自営業 いけはな研究家 花道・洗心流教授
テーマ
はなの道は、何時興ったのか。また、一輪の花に、どのような意味が込められていたのか?
過去の出筆
『はなをいる 花に聴く』 マインド社刊 2018年
『石州流生花三百ケ條』監修・解説 マインド社刊 2021年
『いなほのしづく』(A3用紙に約三千字の文章、関連した絵図) 月一回発行。令和三年六月で三六三号 県立図書館等にて公開。
|いけはな研究家 花道・洗心流教授|花道/生け花
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『君台観左右帖記』所収。
同書は、義政の同朋衆であった能阿彌が文明八年(1476)、西国の覇者の大内正弘に書き与えられたもの。唯一、花瓶に抛入れ花を生けた姿が描かれている。江戸時代初期写。