このタイトルで「そんなん、だいたい知っているわ」という方は相当京都の鉄道史に詳しい方ですから、以下読んでいただく必要はないでしょう。

京都市電の前身である京都電気鉄道(京電)によって明治28(1895)年に京都駅から伏見まで、そして京都駅から木屋町通を北上して木屋町二条に、さらに鴨川を渡って岡崎まで日本で最初の営業用電車を走らせたのはご存知の通りですが、続いて木屋町二条~寺町二条~寺町丸太町~烏丸丸太町~烏丸下立売~堀川下立売と京都の北西部を目指して路線を伸ばしていきます。そして今回お話する「出町線」は先述の寺町丸太町で分岐して寺町通を北上、出町の桝形に至る全長1.6kmの路線のことで、明治31(1898)年3月に開業しました。ちなみにこの出町線は一連の京電の路線の付け足しではなく、伏見線や木屋町線、蹴上線などと同時に敷設を許可されており、当初から計画されていた路線でした。

明治の中頃、市街の北東部で鴨川の西を通るメインの道は御所の東の寺町通でした。まだ河原町通にあたる道は狭い道だったようです。一方、寺町通は平安京の東京極大路にあたる道ですからそこそこ広い道で、直線状に通っているのも納得です。ここに京電は電車を走らせたのです。

京電の他の路線は最終的に複線化されて行きますが、この出町線だけは最後まで単線でした。途中の停留所は寺町広小路(開業時の停留所名は広小路)と寺町今出川(同 今出川)の2か所。それぞれに行き違い線がありました。寺町広小路は現在の京都府立病院や立命館大学の広小路学舎がありましたから、ある程度の乗降があったと思われます。少し下がると荒神口ですから鴨川を渡って吉田から北白川にも通じていました。また寺町今出川を下がったあたりは今も道幅が少し広いですが、あそこで電車がすれ違っていたのです。そこに寺町今出川の停留所がありました。

寺町今出川の南側

寺町今出川の南側

道幅が広いのは電車が離合できた停留所があった証

そして寺町今出川から東に向きを変え、現在の河原町今出川でさらに北に曲がって終点出町(開業時の停留所名は出町橋)に達していました。今も桝形商店街の東側は鴨川との間が広くなって、地下駐車場などが整備されていますが、あそこが終点でした。なお終点付近は線路が二股に分かれていたようです。

ところで出町線の電車は木屋町線の方に直通することなく、出町線内を往復していたようです。途中2か所の行き違い線があったということは最大3列車が運用されていたと考えられますが、詳しいダイヤなどは分かりません。また出町線には車庫はありませんでしたから、京都駅近くにあった三哲の車庫から回送または営業しながら寺町丸太町までやってきた電車を日中は出町線専用に走らせたのではないかと考えられます。

寺町今出川 出町行の電車 告知人の少年も乗務している

寺町今出川 出町行の電車 告知人の少年も乗務している

(京都学歴彩館 石井行昌コレクションより)

松並木に沿って広小路下ル付近を走る電車

松並木に沿って広小路下ル付近を走る電車

(「さよなら京都市電」より)

出町線が廃止になったのは大正13(1924)年10月です。これは当時の都市計画上の道路整備が寺町通の拡幅ではなく、河原町通の新設の政策をとったことが大きいでしょう。そこには線路幅の広い市電河原町線が新設され、並行するする寺町線がなくなったわけですが、これは寺町線だけの問題でなく、七条以北の河原町通の拡幅整備とセットで考えられることでしょう。すなわち京電木屋町線も路面電車としての役割を市電河原町線に譲って廃止されるのと文字通り軌を一にしています。

ところで寺町今出川を下がったところに京都市立京極小学校があります。明治当初からの番組小学校の1つですが、私が仕事で同校を訪れた際に目に止まったのが校長室に掲げてあった次の写真です。明らかに「京極尋常小学校」と掲げられた校門の前を通る京電の電車が写っているではありませんか。ちょっと感動、校長先生にお断わりをして写メを撮らせていただきました。のちに写真屋さんが引き伸ばして寄贈されたようですが、出町線が寺町通を走っていたという貴重な1枚です。さらに驚いたのは車体に52号車の文字がありますが、のちに改番されて2号車となり、市電北野線の廃止時(昭和36年)まで頑張った電車の1両なのです。そしてその後、平安神宮の神苑に展示されてましたが、他の保存車と違ってほとんど手を加えることなく残されていたこともあって令和元年に重要文化財に指定された電車なのです。すごいつながりです。

京極尋常小学校の前を南行するN52号車

京極尋常小学校の前を南行するN52号車

(京極小学校蔵)

平安神宮に保存されている2号車 重要文化財

平安神宮に保存されている2号車 重要文化財

さてここまでは実際に走っていた路線のお話ですが、この後は計画線のお話です。出町・桝形で終わりかと考えられていた出町線は、なんと出町で賀茂川と高野川を渡って、高野川の左岸(東側)を現在の上高野の三宅八幡あたりまで伸ばす計画があったようで、明治36年に「三宅線」として敷設の許可を得ています。しかし京電は市内部の既設の路線の複線化などを優先させために実際には三宅線は着工されず、大正5(1916)年に敷設を断念します。具体的に出町からどのようなルートで三宅線が敷かれようとしたのかは分かりませんが、早期開業を願う決起集会も計画された沿線では開かれたようです。

お気づきようにこのルートは現在の叡山電鉄叡山本線に近いルートにあたります。京都電燈(叡電の前身)による出町柳~八瀬間の敷設申請が大正10年ですから、京電三宅線の計画とん挫を受けてがら具体的に動き出したとみるのが自然ではないでしょうか。一方で叡山本線の開業が大正14(1925)年ですが、出町線の廃止が前年の大正13年ですから、橋を渡っての叡電と出町線の乗り換えは実現しませんでした。

京電の路線図

京電の路線図

地図の左上に「三宅線」の計画線が読み取れる
(「さよなら京都市電」より)

もし京電三宅線が実現し、出町線と直通していたら、仮に出町線が河原町線に置き換わっても京都駅から河原町通を通って上高野まで直通電車が走っていたかもしれないと、地図を眺めながら想像を膨らませています。

(2021.12)

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この記事を書いたKLKライター

鉄道友の会京都支部副支部長・事務局長
島本 由紀

 
昭和30年京都市生まれ
京都市教育委員会学研究課参与
鉄道友の会京都支部副支部長・事務局長

子どもの頃から鉄道が大好き。
もともと中学校社会科教員ということもあり鉄道を切り口にした地域史や鉄道文化を広めたいと思い、市民向けの講演などにも取り組んでいる。
 

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