目覚ましい出世から流罪へ
菅原道真公は幼少期から詩歌の才を示し、11歳で漢詩を読んでいます。25歳の時官吏登用試験に合格して官吏になり、その後も順調に位階を進め、寛平7年(895年)には、参議在任2年半にして、先任者3名(藤原国経・藤原有実・源直)を越えて従三位・権中納言、権春宮大夫に叙任されました。翌年に長女衍子を宇多天皇の女御とし、翌々年には三女寧子を宇多天皇の皇子・斉世親王の妃としています。
寛平9年(897年)宇多天皇は敦仁親王(醍醐天皇)に譲位され、2年後の昌泰2年に道真公は右大臣に昇進して、藤原時平と道真が左右大臣と並びます。しかし昌泰4年(901)正月に「宇多上皇を欺き惑わした」、「醍醐天皇を廃して娘婿の斉世親王を皇位に就けようと謀った」として、1月25日に大宰権帥(ごんのそち)に左遷されました(昌泰の変)。大宰帥は大宰府の長官ですが、失脚した貴族が左遷される際には、定員外である大宰権帥となります。この昌泰の変により、道真の子供4人と右近衛中将源善らも左遷または流罪されました。これは「時平の讒言」によると考えられています。
なぜ昌泰の変がおこったのか
宇多天皇は藤原氏の外戚による介入を避け、その勢力を削ごうとし、12歳の皇太子敦仁親王に譲位し、太政天皇として皇統の正当性を守ろうとしました。これまで天皇擁立や皇太子選任には、藤原氏の影響が大きかったためです。藤原基経(時平の父)は娘の温子を宇多天皇の中宮に、その後時平は娘の褒子を宇多法王の御息所に入内させていました。法王は即位した醍醐天皇には妹の為子内親王を正妃とし、更に道真公を抜擢して、時平の独走を防ごうとしました。
しかしこの人事は多くの上級公家には不評で、更に天皇の許した藤原穏子の入内を法王が反対したため、天皇が反発し、時平と図り、法皇の代弁者である道真を失脚させたようです。穏子の入内の話を契機に、法皇はこれを時平の外戚の力を増すものとして警戒しますが、一方の天皇は藤原氏との連携により政権を安定させようとする対立が明確になってきます。また儒学者の藤原菅根や大蔵善行などの妬みに加え、昇進を競っていた源光などの不平不満もありました。
道真公の左遷人事に対して法王は取りなそうとして御所に行くものの、衛士に阻まれて参内できませんでした。しかし法王が御所に向かったのは、25日に左遷が決まった5日後の事で、道真公が大宰府への出立前日でした。それまでに法王は、若い天皇と時平の勢力にはもう逆らえないと考えていたようです。
道真公の流罪にお供する北野神人
2月1日に道真公はあわただしく京を出立しますが、その際「東風(こち)吹かば 匂いおこせよ梅の花 主なしとて 春な忘れそ」と詠まれた時の心境はどれほど悲しかったことでしょう。供の従者は一人しか認められず、また幼くて別れを悲しみ慕って離れなかった姉の紅姫と弟の隈麿を連れていました。左遷の道中には監視の役人がつき、駅ごとの馬や食べ物の給付は一切無しでした。従者として門人の味酒安行が供をし、また後に瑞饋祭りを担ってきた元家人(北野神人/西之京神人)数名がその道中を助けました。
神人とは中世に神社に奉仕した俗体の人を指します。北野神人のことは殆ど知られていませんが、随行したことは北野神人の子孫への伝承としてあり、北野天満宮の「北野誌」にも記録されています。家人の職業については御牛飼の牛飼丸との伝承もあり、当時の貴族の乗り物であった牛車の御者もいたようです。牛飼いは大人であっても童形の髪型をして、丸の字をつけた名前で呼ばれていました。
安楽寺(大宰府)
大宰府での道真公は権帥という名ばかりの職名で、政務には一切関われず、給与もなしでした。左遷の道中と同様に、配流後の生活も都にあるわずかな道真公の荘園からの収入に支えられていました。
ただ訪れる人もなく、親子三人寂しくも支えあって過ごされていました。京に残された奥方の事を心配しながら、左遷2年後の延喜3年(903年)2月25日に、享年59歳で薨去されました。北野神人の伝承によれば、道真公は最後に「京の都には戻らない」と遺言されました。神人と味酒安行が公の亡骸を牛に引かせ、どこかでお世話になろうと動き出しましたが、当時の公は流人であり中々引き受けてもらえませんでした。やがて牛が疲れ果てて止まった所に安楽寺という寺があり、住職に事情を説明し受け入れられました。神人達は住職に、「もし京の都に戻ることが許されたら道真公手彫りのご自身像を祀りたい」と、都で安楽寺の寺号を名乗ることを願い、それが許されました。
味酒安行と神人は、公の薨去後、かねて親交のあった藤原忠平公に朝廷への口利きをお願いし、2年後の延喜5年(905年)に京の北野へ帰りました。北野の西之京に安楽寺を建立し、道真公の墓所として日々神事に奉仕してきました。
また毎年9月9日には穫れた穀物、野菜、果物と草花を供え、五穀豊穣を祈願して捧げてきました。これが今に残る瑞饋祭の起源です。一方、従者の味酒安行はそのまま大宰府の安楽寺に残り、公の墓所をお守りしてきました。墓所の安楽寺はその後大宰府天満宮となり、安行の42代目子孫である味酒安則氏は神職として今もお墓をお守りしています。また道真公の直系子孫の西高辻家は代々1100年に渡り、宮司として公のお墓をお守りしています。