怨霊から神様
道真公の亡くなられた年から日照りが2年続き、更に疫病が流行り京では多くの死者がでました。
薨去5年後の延喜8年(908年)には讒言一味の菅根が、翌年には讒言した時平本人が39歳で病死しました。延喜13年には右大臣の源光も、亡くなりました。
これら一連の出来事は、道真公の怨霊の仕業と思われ、菅根は落雷に打たれて死んだと噂されました。
翌年には京の左京に大火事があり、その翌年には京都・畿内に疱瘡(ほうそう)の大流行が起こり、醍醐天皇も重病になりました。
そこで天皇は延喜19年に左大臣藤原仲平に命じ、安楽寺にあった公の墓所に社殿を造営し、これが大宰府天満宮の創祀です。
祟りが決定的となったのは延喜23年(923年)春に、時平の娘を妃にしていた皇太子保明親王が薨御したことでした。
そこで天皇は道真公の怨念を鎮めるため、流罪を命じた宣命を焼却し、公を権帥から右大臣に戻しました。
しかし翌々年には、保明親王の皇子の慶頼王が薨御しました。
更に5年後には清涼殿での会議中に落雷があり、大納言藤原清貫を始め多くの朝廷要人が亡くなりました。
この惨事を目撃した天皇も体調を崩し、3か月後に崩御しました。
公の元教え子であった清貫は時平におもねて出世し、時平に命じられて無残にも落剝した公の姿を見分するために、大宰府に訪れていました。
更に、承平3年(933)には時平の長男保忠も亡くなりました。
わずか30余年の間に道真公の讒訴に関わったとされる天皇一人、皇太子二人、左大臣・右大臣各1名以下多くの高級貴族達が没しました。
天慶5年(942)西之京の多治比文子に、北野の右近の馬場に祀って欲しいとの道真公の神託があり、自宅に公をお祀りしました(西之京の文子天満宮)。
文子は巫女であったとされていますが、公の乳母であったという伝承もあります(下京区の文子天満宮)。
また5年後には近江の神主神良種の子太郎丸・北野朝日寺の僧最珍らにも、同様の宣託があり、北野の地に公をお祀りしました。
社殿には天徳3年(959)に右大臣藤原師輔(忠平の子)により御神殿が造営され、それが現在の北野天満宮です。
実在した人物が祭神になったのは、道真公が初めての事でした。
その後更に公の神格化が進み、永延元年(987)には一条天皇により祭礼が勅祭となり、「北野天満天神」の社号が贈られました。
元々北野の地に祀られていた雷神に道真公の霊が重ね合わされ、御霊神に転化していきます。
雷神は災害を起こすが、雨と落雷をもたらし豊作につながるように、公の霊力が禍を鎮める御霊神に変化しました。
北野天満宮の楼門の正面には古来から祀られてきた天神社である地主社があり、三光門の門前にもこの地にあった古い雷神の火之御子社があります。
後世になると、学者・文人・書家としての一面が評価されるようになり、現在みられるように学問の神様と位置づけられて来ました。
七保御供所/寺
北野神人は延喜5年(905)以来、西之京で道真公をお祀りしてきましたが、最初に建立した安楽寺を一之保社と定めました。
またそれぞれの神人の住んでいた地域の単位である保で分けて、更に二之保社から七之保社まで設けて、それぞれで日々の神事と9月には収穫物のお供奉仕をしていました。
永延元年(987)に北野天満宮の祭礼が勅祭の北野祭となり、神人も神饌をお供えし行列に加わりました。
ただ北野天満宮の縁起に関して安楽寺の縁起が差し支えたことから、七保社の名称を七保御供所と変えられました。
その後応仁の乱で北野祭は中止されましたが、神人は継続して神饌のお供えをしてきました。
その後お供えは大型化し、慶長12年(1607)には葱輦形(八方形)に製作し、瑞饋で屋根を葺き神饌で飾るようになり、これが瑞饋神輿の祖型となりました。
瑞饋祭のズイキの音に因んでサトイモの葉柄(ズイキ、芋茎)で屋根を葺きました。
この神輿を安楽寺天満宮社殿に据えて祝詞を奏上し、次いで北野天満宮の広前に据えた後、西之京中を振り巡りました。
応仁の乱以来絶えていた北野祭が明治8年に官祭として復活しましたが、瑞饋祭は私祭として瑞饋神輿の奉昇は廃止されました。
また明治政府の上地令で安楽寺天満宮と文子天満宮は北野天満宮に遷宮されました。
下京区にも文子天満宮はあります。
その後神人達は瑞饋祭りが執り行えないと神輿製作の伝統も失われると、北野天満宮に陳情を続け、15年後の明治23年に再興が認められました。
このことから神人たちの天満宮に対する厚い信仰と瑞饋祭に対して伝統を守ってきた誇りが感じられます。
ただ時代を経るとともに、北野神人達の職業、住環境も変遷し、多くの保社が閉鎖されたり統合されたりして、今では一之保社の活動に依存するようになってきました。
歴史の一コマ一コマには表に現れることなく隠されたままの事柄も多いと思われますが、この北野神人(西之京神人)の道真公をお祀りして瑞饋祭を行ってきた活動もそのような一例でしょう。
氏神祭と氏子祭
北野天満宮の官祭である北野祭は応仁の乱以来断絶していましたが、その間400年余も瑞饋祭は継続していました。
そのためいつしか瑞饋祭が北野祭であるかのように思われ、瑞饋祭を北野祭と呼んだりしました。
明治23年以降では再開された北野祭に瑞饋神輿も行列の巡行に加わったため、一層瑞饋祭と北野祭は同じだと思われるようになりました。
しかし小川文子氏らが指摘しているように、北野祭は氏神祭であり、一方の瑞饋祭は西ノ京の氏子による氏子祭なのです。
両者の違いは瑞饋祭の行列の巡行コースと、瑞饋神輿の巡行コースを比べればよく理解されます。
北野祭では10月1日に北野天満宮で出御祭が行われ午後1時に御鳳輦行列は出発し、午後4時には西ノ京の御輿岡町にある御旅所に神幸します。
2日・3日は御旅所に駐輦し、2日に献茶祭、3日に西ノ京七保会による甲御供奉饌(かぶとごくほうせん)が行われます。
この間1日から御旅所には瑞饋神輿が奉安されています。
4日には還御祭が行われ、御鳳輦行列は出発し北野天満宮へ還御します。
一方瑞饋神輿は御鳳輦行列より先に御旅所を出て、西ノ京から天満宮にかけて行列とは別の経路で巡行し、夕方には御旅所に戻ります。
5日に天満宮で后宴祭が行われますが、御旅所では瑞饋神輿の解体が行われています。
このように同じ日程で北野祭と瑞饋祭は行われますが、別々の動きをしていて北野祭は氏神祭であり、瑞饋祭りは氏子祭であることが分かります。
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