現在の京都駅は平成9(1997)年9月に完成した地上16階、高さ60mで、4代目の駅です。ご存知のようにホテルグランヴィア京都やジェイアール京都伊勢丹なども入る巨大なビルです。今回お話するのはその1つ前の3代目の駅舎についてです。中年以上の方にはこの駅が一番なじみのある京都駅だったのではないでしょうか。

この3代目の駅舎ができることになったのは2代目駅舎が火事で焼失したので急きょ建設されたというセンセーショナルな事情がありました。昭和25(1950)年11月18日の未明、2代目京都駅は食堂のアイロンの切り忘れからの失火で焼失してしまったのです。この時の様子は京都市消防局のホームページでも写真が公開されています。別の写真では、何と当時の1番線と2番線の間に蒸気機関車(SL)を持ってきて、その水を使って消火作業をやったことが見て取れます。しかし残念なことにルネサンス風の塔まであった優雅でモダンな駅舎は大半が木造ということもって数時間で灰と化してしまいました。
(記録では、同日午後には駅として営業を再開したとありますから、それはそれで驚きです)

炎上中の2代目駅舎

炎上中の2代目駅舎

(京都市消防局HPより)

そこで急きょ建設されたのが鉄筋コンクリート造りの3代目駅舎です。実は大きな京都駅は京都の市街を南北に分断するというので駅全体をいつかは高架にしようという計画というか構想のようなものが昔からありました。しかし急いで駅舎を再建する必要があったため、高架化の話は横に置いたままとなり今日を迎えているのです。設計にあたっては様々な声が出たようですが、結局は2階建て(一部3階建て)を基本とする直線状のシンプルなデザインのいわば細長い箱のようなものでした。このようなデザインはアメリカの建築家ノイトラさんが得意としたそうでノイトラ流と呼ぶようです。窓を大きくとりタイル仕上げで装飾とよばれるものはほとんどなく、合理的な設計でした。床面積は2代目よりも7倍大きく、当時はまだ高かった蛍光灯も多用されました。

そしてなんといっても3代目の駅舎の特色は8階建ての塔屋の存在でした。ところがこの塔屋は設計の途中で加えられたとか。それも建物の中央ではなく、烏丸通の真正面に設置されたのが結果的に素敵なアクセントになりました。こうして我々世代が知る3代目の京都駅が建設されたのです。着工は火災から約3か月後の昭和26(1951)年2月26日、総工費は約4億2000万円、翌27年2月11日には新駅の一部が利用できるようになりました。そして同年5月27日に竣工しています。結構遠くからでも烏丸通の南を見ると京都駅の塔屋が見え、京都のメルクマールの役割も果たしました。

西側に続いて、塔屋の建設が始まった様子

西側に続いて、塔屋の建設が始まった様子

(鉄道友の会京都支部提供)

完成直後の3代目駅舎

完成直後の3代目駅舎

手前の屋根は当時の京都中央郵便局(鉄道友の会京都支部提供)

さて駅の中ですが、最大の特色は「民衆駅」と称して駅の中に本格的に物販店や食堂を取り込んだことです。当時の駅はどこもせいぜい売店や弁当販売店があった程度でした。

まず1階ですが、正面玄関は建物の中央付近(塔屋より西より)でした。そこに入ると中央コンコースの名に恥じない天井の高い大きな空間があり、正面が乗車専用の中央改札口でした。一方出口は駅舎の西よりに設けられました。その中央コンコースと西コンコースの間に出札窓口(切符売り場)と待合室、洗面所などが配置されていました。カウンタータイプの出札口がずらーっと並んでいました。今とちがって近距離でも切符を窓口で買う時代でした。確か近距離の切符売場と長距離の切符売場(貴重だった指定席や寝台券など)が分かれていたように思います。各窓口にいろいろな区間や種類の切符(もちろん硬券)を入れたケースが斜めに配置され、出札掛の駅員さんは瞬時にそこから切符を取り出して、日付をサッと刻印して売っていました。ある意味、各自が運賃表を見て自動券売機のボタンを押す今より速かったかもしれません。もっとも今日ではそれすら少数になり、ICOCAなどのICカードの利用が進んで出札口で切符を買うという鉄道文化そのものが絶滅危惧種?になってきました。お話を戻して、やがてその切符棚に代わり、マルスと呼ばれるコンピュータによる出札に代わっていきました、また近距離区間の切符は自動券売機に代わっていきましたが、最初の自動券売機は今のように額面のボタンがいっぱいある(多能機)ではなく70円区間の券売機、120円区間の券売機と切符の額面ごとに機械も分かれていました(単能機)。

そしてその奥には中央改札口があり、切符にパンチを入れる駅員さんがやはりズラっと並んで、カチャカチャとパンチを扱っていました。その中央改札口ですが、改札口の上には昭和52(1977)年3月、京都駅開業100周年を記念して大壁画が設置されました。「京洛東山三十六峰四季」というテーマで清水寺や円山公園のしだれ桜などの光景を信楽焼の陶板とモザイクタイルで表現されたものです。縦2.7m、横幅20mに及ぶ大迫力でした。それを見上げてプラットホームに入っていくと「鉄道で旅に出る」というなんともいえない高揚感があったものです。

中央改札口と大壁画

中央改札口と大壁画

(当時の新聞記事より)

そのコンコースの脇に階段があり、2階に上がると約30のお店が並んでいました。これらは「京都駅観光デパート」としてまとめられ、お土産や旅行に必要なものはひと通り揃いました。お店の名前を見ると京都を代表するお店ばかりですが、当初は出店を希望するお店も少なく苦労されたようです。しかし次第に人気が出てきて、元祖「駅ナカ」は活況を呈していきました。ちなみにその「京都駅観光デパート」はその後JR西日本のグループ会社として、今の駅になっても存続していましたが、他の物販会社と統合され、社名も消えると過日の新聞が報じていました。

また8階建ての塔屋ですが、1階は皇族や国賓などが京都駅を利用するときに出入りした貴賓玄関で、車寄せもありました。当然その奥には貴賓待合室がありましたが、その中を見た人はまずいないでしょう。そこにあったソファなどは、今は京都鉄道博物館で見ることができます。

そして党屋の上層階はフロアーごとにやはり京都を代表する飲食店が入っていました。残念ながら私はここのどのお店にも連れてもらったことも、大きくなってから自分で行ったこともありません。烏丸通をずっと見通して、あるいは駅前広場を見下ろしながら美味しいものがいただけたのでしょうね。

開業時の京都駅観光デパートの新聞広告

開業時の京都駅観光デパートの新聞広告

もうひとつこの駅舎についていた広告のお話しを加えておきます。昭和45年(1970)から走り出した新快速の広告です。走り出した当初は1時間に1本でしたが昭和47(1972年)から1時間4本運転になりました。その頃登場したのが、毎時0・15・30・45分に大阪方面に向けて発車するという時計を模したデザインの広告で、国鉄としてはなかなか洒落たものでした。そういえばそんな広告が付いていたと思い出される方もおいででしょう。実はその広告の横に「京都駅」と大きな駅名表示が付きました。誰もがあの建物は京都駅だと知っているのですが、それまでは建物に駅名表示はなかったとか。京都では駅もお高く留まっていたのでしょうか。もっとも消失前の2代目駅舎には「京都駅」という表示がされていたようです。さらに進駐軍の指示で「京都駅」と「KYOTO STATION」という大きなネオンサインが付けらてた時期もありました。

新快速の広告や駅名が付けられた駅舎

新快速の広告や駅名が付けられた駅舎

この3代目駅舎も利用者の増加とともにしだいに進化していきました。基本的には形は変わりませんでしたが、西に増築され観光デパートも拡大されます。東側には東口や団体待合室(後に西に移動)も設けられました。さらに中央口や西口前には大きな屋根も付きました。このように少しずつ変化していきましたが、利用客の増加や施設の老朽化などで建て替えの話が浮上、平安建都1200年を記念して大きな4代目駅舎が建設されることになります。そして駅前広場の一部に2階建てのプレハブ造りの仮駅舎(2階はやはり京都駅観光デパート)が平成5(1993)年に完成し、その後4代目駅舎の建設のため、3代目駅舎は解体が始まるのです。そして国鉄からJRへとその変遷を一緒に歩んできたあの3代目駅舎は姿を消していきました。

Twitter Facebook

この記事を書いたKLKライター

鉄道友の会京都支部副支部長・事務局長
島本 由紀

 
昭和30年京都市生まれ
京都市教育委員会学校指導課参与
鉄道友の会京都支部副支部長・事務局長

子どもの頃から鉄道が大好き。
もともと中学校社会科教員ということもあり鉄道を切り口にした地域史や鉄道文化を広めたいと思い、市民向けの講演などにも取り組んでいる。
 

記事一覧
  

関連するキーワード

島本 由紀

 
昭和30年京都市生まれ
京都市教育委員会学校指導課参与
鉄道友の会京都支部副支部長・事務局長

子どもの頃から鉄道が大好き。
もともと中学校社会科教員ということもあり鉄道を切り口にした地域史や鉄道文化を広めたいと思い、市民向けの講演などにも取り組んでいる。
 
|鉄道友の会京都支部副支部長・事務局長|京都市電/嵐電/京阪電車/鉄道/祇園祭

アクセスランキング

人気のある記事ランキング