東へ西へ。

前編では足利将軍家のお家騒動を中心に、応仁の乱に至るまでのややこしい経緯をお話ししましたが、戦いが進むにつれて「ややこしい」では済まされない事態が起こります。なんと東西両軍それぞれのシンボルとして君臨していた将軍家が、互いの陣を替えるんです。つまり、東軍にいた足利義視が西軍に、西軍にいた足利義尚(with日野富子)が東軍に移籍しちゃったんです。電撃トレードなんて生やさしいものではありません。現代でいえば、自民党の岸田総裁(首相)が立憲民主党に、立憲民主党の泉健太代表が自民党に移りました…みたいなもんです。もし、こんな発表をしたら「国民をバカにしているのか?」と暴動が起きますよね。それが現実の話として起こったのが応仁の乱です。

【Before】応仁の乱 東西の陣営

【Before】応仁の乱 東西の陣営

【After】応仁の乱 東西の陣営

【After】応仁の乱 東西の陣営

さて、そうこうするうちに両軍の総大将である細川勝元、山名宗全が相次いで亡くなり、彼らの後継者は和睦します。さらには次期将軍の座も義政の息子・義尚に収まります。でも戦いは収まりません。それもそのはず、元々なんのために戦っているのかがアイマイだったので、やめる理由も特になかったからです。この時代に生きた興福寺の大僧正である尋尊は「いくら頭をひねっても応仁・文明の大乱が起こった原因がわからない」と書き残しているほどです。

さらには、「東軍とか西軍とかどうでもよくね?それよか今なら地元の領国を乗っ取っることができるんじゃね?」と考える者が出はじめます。その典型が戦国大名第一号ともいわれる越前の朝倉孝景です。越前の守護大名(今でいうなら知事)は斯波氏で、朝倉氏は家来にあたる守護代(副知事みたいなもの)でした。それが戦乱のドサクサで越前国の経営を朝倉氏が乗っ取ります。いわゆる下剋上ですね。この「乗っ取っちゃってもいいんじゃね?」のノリがやがて戦国時代を招くことになります。不穏な空気を察した大名たちはそれぞれの領国に帰って混乱を鎮めようとします。このように戦いの大義名分が「大名家それぞれの家の都合」となったため収拾がつかなくなったことが、応仁の乱が長引いた原因のひとつでした。

 

現実からの逃避行

ところで、応仁の乱を引き起こした張本人である将軍・足利義政は何をしていたのでしょうか?軍の指揮を執っていたのか?それとも戦乱を収めるべく和平工作を画策していたのか?正解はどちらでもありません。「んー、なんかみんな喧嘩好きだな~。まっ、そのうち収まるっしょ」と彼の人生観「なんとかなるっしょ」イズムを遺憾なく発揮し、傍観を決めこみます。正確にいうと、最初のころは戦いをやめさせようと奔走していたのですが、誰も言うことを聞いてくれないのであきらめたようです。これが江戸時代なら、こんなことは絶対にありえません。大名同士に争いがあれば「お前らケンカすんの、やめんかい!言うことを聞かんと取り潰すぞ!!」という権力が江戸幕府にはありました。その背景には圧倒的な武力と経済力があったからです。でも室町幕府にそんな力はありません。かといって、竹内まりやみたく「♪けんかをやめて~」となだめることもできずズルズルと戦乱を長引かせるだけでした。

それだけならまだしも、困ったことに義政は現実逃避の道を一直線に突っ走ってしまうんです。連日のように宴会を開き、自分の趣味ともいえる文化に没頭する始末。でも、文化事業にもお金がかかります。てか、めっちゃいります。都が焼けおち人びとが苦しい生活を強いられているのに、税金で自分の別荘すなわち銀閣寺を建てちゃうんですよ、この人。いくらなんでもあんまりです。

銀閣寺

銀閣寺

なぜ、京都人にとっての“前の戦争”とは応仁の乱なのか?その理由に「京の都が焼け野原になったのに、将軍は何の対応もせず現実逃避したことで、“住民が見捨てられた”という記憶が刻み込まれたから」という説を唱える人もいるくらいです。現代でいうなら、大災害で町が壊滅状態になったのに、知事が何の対策も打たずに、でも自分の家は熱心に修理していた…みたいなもんでしょう。そら一生忘れられませんし、根にも持ちます。

 

乱の終結、そして…

応仁の乱は1477年、西軍の主力大名である大内政弘が撤退したことにより終結を迎えます。ですが、終結というよりは「なんかもう面倒くさくなってきたなー、応仁の乱やめよっか?」的にフェードアウトしたというのが実際のところだったように思います。プロレスでいうところの「両者リングアウト」みたいなもので、盛り上がり感ゼロのまま、なし崩し的に終わりました。応仁の乱に人気がないのは、このあたりにも理由があります。

ここで、ひとつ疑問が浮かびあがります。グダグダのままに終わった応仁の乱が、その知名度だけ高いのはなぜでしょうか?それはこの乱の残した影響が、政治と文化の両面であまりにも大きかったからです。具体的には「戦国時代の幕開けとなった」「現代の日本文化の原型をつくった」「地方の発展を促した」の3つです。順にみていきましょう。

戦国時代の幕開け

これは教科書にも載っているので、説明の必要はないかもしれません。乱を通じて将軍の権威は地に落ち、朝廷に調停(寒っ!)する能力がないことが明白になりました。つまり、中央の統制がまったく効かない状況となったわけです。日本全国が『北斗の拳』みたいな状態が戦国時代であり、そのキッカケとなったのが応仁の乱だったと言われています。いっぽうで、近年では1493(明応2)年の「明応の政変」をもって戦国時代の幕開けとする説を有力視する人も増えています。でも、首都である京都が壊滅したという象徴的なできごとが各地の大名に与えたインパクトは相当なものであったと思います。それゆえ戦国時代を招いたのは応仁の乱という従来の説を支持したいと思います。

日本文化の原型

「花が生けられた畳の部屋でお抹茶をいただく」日本文化を象徴するシーンのひとつでしょう。ここに挙げた生け花、畳、抹茶は、すべて室町時代に開花したものです。歴史学者の芳賀幸四郎氏は、その著書『東山文化の研究』のなかで「能楽・茶の湯・生花・庭園・水墨画など、今日、日本的芸術の粋とされるものは多くこの時代に成立し、書院造りをはじめ今日の衣食住の生活様式ないし礼儀作法等は、この時代にほぼ形を整えたのである」と述べています。その東山文化を育んだのは足利義政の功績といえます。彼は庭づくりに熱心で、全国から集めた名石や名水を自ら指揮して配置を決めるほどでした。このように芸術への深い理解と美意識を持つ義政のバックアップがあればこそ、東山文化が発展したといえます。

室町時代の文化といえば金閣寺に代表される足利義満の北山文化と、足利義政の東山文化が有名です。前者が金閣寺そのままに絢爛豪華な色彩を放つのに対し、後者は「侘び寂び」を重視していて対極をなしています。では、どちらが「日本人の美意識に近いか」といえば、やはり東山文化でしょう。つまり現代の日本文化の礎は足利義政の現実逃避から生まれたともいえるわけです。皮肉といえば皮肉ですが、ここに歴史、いや人間社会のおもしろさがあると思います。

 

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この記事を書いたKLKライター

八坂神社中御座 三若神輿会 幹事 / (一社)日本ペンクラブ会員
吉川 哲史

祇園祭と西陣の街をこよなく愛する生粋の京都人。

日本語検定一級、漢検(日本漢字能力検定)準一級を
取得した目的は、難解な都市・京都を
わかりやすく伝えるためだとか。

地元広告代理店での勤務経験を活かし、
JR東海ツアーの観光ガイドや同志社大学イベント講座、
企業向けの広告講座や「ひみつの京都案内」
などのゲスト講師に招かれることも。

得意ジャンルは歴史(特に戦国時代)と西陣エリア。
自称・元敏腕宅配ドライバーとして、
上京区の大路小路を知り尽くす。
夏になると祇園祭に想いを馳せるとともに、
祭の深奥さに迷宮をさまようのが恒例。

著書
「西陣がわかれば日本がわかる」
「戦国時代がわかれば京都がわかる」

サンケイデザイン㈱専務取締役

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自称・元敏腕宅配ドライバーとして、
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著書
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