通常は乗り換えなくてはならないところ、乗り変えずにそのまま電車に乗っていけるのは便利です。例えば、地下鉄烏丸線沿線から近鉄奈良に行こうとすると、通常は竹田で近鉄に乗り換えることになりますが、昼間1時間に1本やってくる奈良まで直通の急行に出くわしたら、わずかなことですが竹田で乗り換えずに済みラッキーです。
そんなことが戦前の京阪でありました。当時の京阪の大阪方の起点は天満橋駅でした。三条までが京阪本線、そこからさらに滋賀県の浜大津まで京津線が通じていました。通常、三条で本線から京津線に乗り換えるのですが、天満橋~浜大津間を直通で走ってくれる電車がありました。大正期から「琵琶湖連絡」は京阪の悲願だったのです。
それは「びわこ号」の愛称が付いていた京阪60形という電車です。昭和9(1934)年4月から直通運転を開始したこの電車はなかなかの優れものでしたので、今回はこの「びわこ号」を紹介しましょう。
いつの時代も電車にはさまざまな技術が詰め込まれていますが、とりわけこの「びわこ号」は特別でした。今よりも速度は遅かったとはいえ、京阪本線は高速で走る区間でしたが、京津線は、一部は道路上を走り、東山と逢坂山の2つの山を急勾配と急カーブで越えねばなりませんでした。このように条件が大きく違う2つの路線を1つの電車で通し運転するにはいろいろな工夫がなされました。モデルはアメリカの電車だったようですが、まさに当時の京阪の技術の結晶だったといっても過言ではないでしょう。
その1番の工夫は「連接構造」であったということです、通常、電車は連結器で車両と車両をつなぎますが、この2両編成の「びわこ号」は前の車体と後ろの車体を1つの台車(2つの車輪で構成される)に乗せ合いっこするのです。つまり2車体3台車で構成しました。こうすることで、急カーブでもスムーズに走ることができました。このような構造の電車を「連接車」といい、我が国で初めて京阪がこの「びわこ号」で採用したのです。ちなみに連接車は初めてのことだったので、当時、国の認可を得るのに5年間かかったそうです。なお連接車は急カーブに強いので、京都市電にはありませんでしたが、名古屋市電などで採用されていましたし、小田急には10車体を連接車の構造でつないだ特急電車もありました。
また電車の連結面は一般的にホロと呼ばれる蛇腹状のものを取り付けて転落をせずに隣の車両に移れるようになっていますが、「びわこ号」はホロではなくドラム式と呼ばれる特殊な装置が付いていました。文字通りドラム缶のような大きな円筒の筒状のものに2か所通路の穴をあけて、連結部分の台車に載せ、両方の車体を押し付けるような構造でした。
次に側面の扉を見てください。タテの寸法が全く違う扉が2つずつありますね。京津線の路面軌道の区間には道路上の安全地帯から乗り降りする停留所がありました。そのために電車内にステップがあり、それを使って乗り降りしたため、扉もタテ長になっているです(低床用ドア)。一方、京阪本線などはプラットホームがありましたから電車の床の高さの扉でよかったのです(高床用ドア)。この2つの扉を駅や停留所によって使い分けたのです。
3つ目の工夫は集電装置です。京阪本線ではパンタグラフによって電気を取りましたが、京津線では長い棒の先に滑車が付いているポール集電でした。それも当初はプラスとマイナスの両方を架線から取り入れるために2本のポールを上げて走っていました。(ダブルポール)ポールは進行方向の後ろ、すなわち車掌さんが乗っている側を上げていましたから、前後に装備しなければなりません。したがって三条駅にはこのKLKでも紹介しましたように京阪本線と京津線を繋ぐ連絡線があり、そこを通る時に天満橋から来た電車はパンタグラフを下げてポールを上げるという操作をやっていました。もちろん浜大津から来た電車はその逆です。ちなみに架線の電圧は京阪本線も京津線も直流600Vでしたから問題はありませんでした。
ところで車体の前面がやや斜めになっていますね。いわゆる流線形を採用したのもこの電車の特徴です。当初はフツーの電車のようなデザインだったようですが、設計変更でこのように前面に傾斜を付け、屋根が窓の上辺まで下がった形になったとか。当時、鉄道での流線形は流行りで、大阪から琵琶湖畔までかっこよく走る電車だったのです。
定員は112名、うち座席は60名でロングシートでした。先頭部分は、運転台は半分だけで、もう反対側(前から見たら向かって左側)は前面いっぱいまで座席でしたから、そこは前方展望が楽しめる特等席だったことでしょう。ダイヤは天満橋を午前7時・8時台に約30分間隔で3本発車、浜大津まで所要時間は72分でした。帰りは浜大津午後4時・5時台にやはり3本が天満橋行きとして設定されていましたが、平日は上下ともにそのうち1往復だけだったようです。途中は蒲生(現京橋)と四条、そして三条だけに停車しました。
戦時体制のため昭和15(1940)年には直通運転は中止されますが、戦後は、正月は初詣のための電車や浜大津でスキー船に接続する電車を走らせました。夏場は「マイアミ号」という水泳客列車として、また秋は「菊人形号」として浜大津から枚方公園まで走らせました。
このように「びわこ号」は大阪から琵琶湖観光の足として、京阪の看板電車として活躍するのですが、昭和24(1949)年8月に危機一髪なことが起こりました。京津線の車庫は四宮駅に隣接してあったのですが、車庫が火災に見舞われたのです。当時の四宮車庫は本線から90度カーブして南北方向に電車を留置する構造でした。火の回りが速く、止めてあった27両中22両が消失するという大惨事となったのですが、その中で職員や近所の人が押して車庫の外に出し、難を逃れた5両には「びわこ号」の61号車と63号車が含まれていました。そして62号車はそのとき大阪の守口車庫に入庫していました。こうして「びわこ号」は奇跡的に3編成全てが生き延びることができたのです。
やがて戦後の成長が著しくなりますと、京阪本線の乗客が増えて連結運転ができない「びわこ号」は次第に本線では使い勝手が悪くなりましたので、京津線や石坂線(石山寺~坂本)内だけに閉じ込められて余生を送ることになります。それでも当初は京津線内の急行電車として使われていましたが、他の古い電車が車体更新などで近代化されていく中でこの「びわこ号」はその特殊な構造ゆえに更新されず、主に各停用として使用されていましたが、老朽化もあって、昭和42(1967)年にまずは62号車が、43年には61号車が廃車になります。昭和45年には、残る63号車で、鉄道友の会京都支部によってお別れ運転会が実施され、その後廃車となります。しかし解体を免れて、京阪開業70周年を記念して保存されることになり、ひらかたパークで静態保存されました。その後、平成8(1996)年には寝屋川車庫に移されて開業時の姿に復元され、現在も残されています。一時期、この電車を復活させて再び本線で走らせようという地元主体のプロジェクトもありましたが、技術的にも資金的にも無理なようです。そんな中、平成21(2009)年には近代化産業遺産に認定され、かつての活躍を末永く顕彰されることになりました。
この「びわこ号」、車体に砲金で「びわこ」の文字が付けられていましたが、左書きのため「こわび」って何やろうと思った子どももいたとか。現在では叡山電車の「きらら」や「ひえい」など電車そのものに愛称を付けるものも増えてきましたが、戦前から「びわこ」号は親しみやすく、乗ってみたい憧れの電車だったのでしょう。
京阪電鉄社史 鉄路50年
レイル№103号
鉄道ピクトリアル№553号 1004号