洋の東西を問わず、高級品からB級グルメまで、人々の関心を集めてやまないスイーツの世界。おいしさ、美しさ、あるいは「映え」への飽くなき探求が繰り広げられているのは、なにも現代のSNS上に限ったことではない。

千年の都で洗練されてきた「京菓子」はその最たるものの一つ。時代ごとにどんな工夫が凝らされ、人々は何に感嘆してきたのか。いつもは食べる専門の私だが、ちょっと資料を遡ってみたいと思う。

御所そばの京菓子資料館へ

訪ねたのは京都御苑のすぐそばにある京菓子資料館。古代から現代に至る国内外の菓子にまつわる資料を集め、わかりやすく展示されている。
ここは銘菓「雲龍」で知られる江戸中期創業の「俵屋吉富」が、京菓子の文化と歴史を広く知ってもらおうと昭和53年に私財を投じて創設した資料館で、現在は一般財団法人となっている。

展示室でひときわ目をひく生け花は、なんと砂糖と寒梅粉で作られた工芸菓子。咲き誇る牡丹の花や色づく紅葉、松葉の一つひとつまで細かく作り込まれていて、婚礼の席などで飾られる。まさに職人の飽くなき技術研鑽の賜物だ。

光源氏が酒の肴にした“甘くない”お菓子

資料館担当の辻真奈美さんの案内のもと、古代から菓子の歴史を遡っていく。とはいえ、現在のような甘い菓子が広く食べられるようになったのは江戸時代に入って砂糖が普及し始めてからのことで、はるか古代の人々にとって菓子といえば木の実や草の実だったそう。

穀物を加工した菓子作りが中国から仏教とともに伝わったのは奈良時代。上の写真で辻さんの前に並ぶ「唐菓子(からくだもの)」と呼ばれる菓子は、もち米やうるち米、麦などの粉に甘味料や塩を加えて練り、多くは油で揚げたもの。宮中の節会や寺社の供物として用いられ、ごくごく希少品だったという。

平安時代になると宮中の宴などにも供されるようになり、『源氏物語』では光源氏が女性の噂話をしながら酒の肴に唐菓子を口にしているようすが登場する。
「お菓子で酒を呑むの!?」と一瞬、源氏の君の味覚を疑ったが、聞けば当時の甘味料は葛(ツタ)などからわずかに採れる蜜を使っており、希少すぎてたくさんは使えず、菓子もいまほどには甘いものではなかったとか。

鎌倉時代に禅が伝来すると、禅僧の間で喫茶の習慣が広まり、それは次第に日本独自の茶の湯として発展し、菓子が大きな役割を果たすようになっていったのだとか。

秀吉を驚かせた角の生えた「鬼の菓子」とは?

茶の湯が武士のあいだで大いに流行しだした安土桃山期。日本の食文化に大きな転換をもたらしたのが南蛮文化だった。卵や白砂糖を使ったカステラやボーロが渡来し、ハイカラ好きの天下人・織田信長を驚かせ、夢中にさせた。

当時の最先端技術で作られたギヤマン(ガラス)の器に入った金平糖を、信長は早速茶会に用いたという。ただ、その配下にあった羽柴秀吉は、金平糖の角がどうやってできるのかわからず、「鬼の菓子だ!」といったというエピソードが伝わっているらしい。

資料館に収蔵されている一番古い菓子の資料には、天正4~5年(1576~77)ごろに、ある菓子屋が京都釜座の御屋敷にカステラを納入したという記録が残っているそうだ。

江戸中期の元禄のころともなると、経済が発展して人々の暮らしが豊かになり、国内でも砂糖の生産が始まった。これによって食文化は大きく変わり、京菓子も現在のような形になった。都の菓匠たちは新たな材料や手法を貪欲に取り入れ、さまざまに趣向を凝らしたものが作られるようになった。

写真左は大仏餅所の看板。季節や節句ごとに菓子の意匠も工夫され、職人が腕を競った。基本的には受注生産のオーダーメイドで、写真右のような菓子の図案帖はいわばカタログ。これをもとに客先で御用聞きをしていたという。

都だけでなく、江戸や大坂でも都市が発展し、そこで都の洗練されたものがもてはやされたことで、相対的に「京菓子」という言葉も生まれた。

 

戦後、もののない時代から、現代へ

幕末の動乱と明治維新の東京遷都で経済的に衰退した京都では、菓子業界も大きな打撃から逃れることはできなかったが、京の菓匠たちはなお一層の創意工夫で歴史の波を乗り越えたという。

資料館の母体となっている俵屋吉富もその一つ。七代目の石原留治郎氏が銘菓「雲龍」を考案したのは大正7年(1920)のこと。この菓子は、大戦による休業を経て、戦後まもない昭和25年(1950)に開かれた京菓子展示会で大好評を博し、以降、数々の賞を受賞し、宮内庁・京都御所御用を任じられることになった。

この雲龍、いまは京を代表する銘菓として定番になっているが、当時としては革命的な菓子だったことをご存じだろうか? それまで竿菓子といえばほとんどが羊羹類に限られていたが、雲龍は「竿物の生菓子」であり、京菓子に新しいジャンルを創り出した。

こうした進取の精神はいまも絶えることなく京菓子の世界に受け継がれている。俵屋吉富でも若者に親しみやすいブランド「といろ」を立ち上げ、新たな挑戦を続けている。伝統を固持するだけではなく、常に変化を模索してこそ、京菓子を京菓子たらしめている由縁なのだろう。

京菓子資料館の1階には呈茶席が設けられていて、季節のお菓子と抹茶が味わえるほか、15人以上のグループで予約すれば京菓子づくりを体験することもできる。

ここのような老舗の菓匠はもちろんだが、京都は“ハレ”の日の特別な菓子だけでなく、普段使いいの“ケ”のおやつまで菓子文化の裾野は広い。

俵屋吉富の八代目であり、資料館設立に奔走した故・石原義正氏は、その著書『菓匠歳時記』で、「京都では、天皇に献上された『上菓子=おまん屋』ばかりでなく、庶民の味として育った『もち屋』や『駄菓子屋』も、京都という同じ舞台に立ちながら役目を演じ分けたことにより、人びとのお菓子に対する高い意識を育ててきた」と記している。
菓匠や職人とともに、食べる側も文化の担い手なのだということを、改めて考えた一日になった。

[協力]
京菓子資料館
住所:京都市上京区烏丸通上立売上ル
   (俵屋吉富 烏丸店 北隣)
アクセス:地下鉄烏丸線「今出川」駅から徒歩約3分
電話:075-432-3101(代)
営業時間:10:00 ~17:00(入館16:30まで)
入館料:無料
定休日:水曜・木曜
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この記事を書いたKLKライター

プランナー・ライター
若林 扶美子

京都まちを駆けずりまわって30年。知るほどに謎が深まる都の不思議にどっぷりはまり、とくに人々の記憶にかろうじてまだ留まっている近代史に目がないです。ご年配の方々から語られる生きた歴史をなんとか記録に留められないかと思いつつ日々に追われ、まちかどグルメと猫につられて関西を徘徊中。

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