京都では正月に行事食として蛤のお吸い物を食べます。幼い頃、私の中で蛤といえば、お雛様の季節よりもお正月でした。蛤の出汁は、まろやかで優しく甘く香りも良く、何杯でもおかわりしたい好物です。

蛤のお吸い物

蛤のお吸い物

正月のハマグリ

蛤の仕事を始めて「お正月といえば蛤ですよね」と言うと「えっ?そうですか?どうして?」と言われることがあり、京都以外の地域では正月の行事食として蛤を食べないのだとあらためて思い、数年前、私のSNSを通して「お正月に行事食として蛤を食べますか?」と問いかけてみたところ、多くの方から回答をいただきました。そもそも蛤が採れる産地に近い地域では正月に蛤を食べることがあるようですが、これは地元の食材を食べるという意味合いで、普段から蛤を食べる機会が多い地域でした。家族の中に関西がルーツの人がいて「うちでは食べていました」と言う回答もありましたが、これは京風に習って、という意味合いでしょう。

興味深いのは広島です。広島では、野菜や塩鰤などを入れたすまし汁の雑煮に蛤や牡蠣など貝類も入れるようです。魚介類が豊富で是非食べてみたい豊かな海を感じるお雑煮です。広島湾沿岸部の貝塚では蛤が出土していますから、古い時代には干潟があり蛤が採れていました。また広島県立歴史博物館の草戸千軒町遺跡(中世の港町)の土坑や井戸、溝、池などからは蛤が出土しています。広島では中世から蛤を食べていたと言うことですから、もしかすると単に産地に近いからと言うだけではない「いわれ」が見つかるかもしれないと思いました。

 

旧正月のハマグリ市

産地ではないのに正月の行事食として蛤のお吸い物を食べるのは京都だけ?と思っていたら、私どものアトリエの女性スタッフが私の地元の三重県名張市では旧正月に蛤を食べるお祭りがありますよ、と教えてくれました。赤目四十八滝で知られる名張市は海ではなく山が広がる地域です。山で食べる蛤とはどんな料理なのでしょうか。

名張市の蛭子神社は旧正月(2月8日)の八日戎で知られています。かつて伊勢の海産物と名張の山の幸を交換した市に由来して旧正月にハマグリ市が立ち並び、「蛤入りの粕汁」が振る舞われ、また名張の多くの家庭では蛤が食べられるそうです。粕汁に入った蛤とはどんな味なのか、一度食べてみたいです。三重県伊勢市は古くから蛤の産地ですが、このような形で郷土の風習となり、蛤を食べる行事が続いているのは嬉しいことです。しかしやはり名張のケースも産地だから食べると言う意味合いになりますから、京都人が蛤を食べる意味と違うような気がします。どうして京都人が正月に蛤を食べるのか、もう少し調べてみましょう。

唐櫃に入った蛤

唐櫃に入った蛤

平安時代が始まり?

京の庶民は古くから公家や武家の方々との関わりが様々にあり、庶民の年中行事にもそういったことが影響していると言われています。京都のお正月、蛤のお吸い物を食べるのもそういったことがルーツなのでしょうか。宮内庁が監修している書籍「宮中 季節のお調理」の「新年 御祝先付(1月1日、2日、3日 ご朝餐 御所にて)」には「潮仕立蛤吸」がみられます。また元日、「新年祝賀の儀」を終えられた皇族方がお召し上がりになる「皇族祝酒」のお膳にも「潮仕立蛤吸」がみられます。宮中の元日の朝食のメニューには蛤のお吸い物があり、皇族方もお召し上がりになっていると思うと京都人としてはやはり嬉しい気持ちになります。

明治の料理研究家、本山萩舟の「飲食事典」によりますと、平安時代に清少納言が老後を過ごしたとされる阿波(徳島県)の鳴門海峡のほとり、吉野川河口付近に橅養(むや)というところがあり、昔は全国から京に集まる蛤の選定に橅養産の蛤が標準になったといわれ、師走16日に川開きがあり、その日とれた物が最上とされ、京へ送り二条家から内裏の御用に供せられたと伝えられているそうです。徳島県の吉野川河口付近では今も潮干狩りで蛤が採れるそうですし、鳴門森崎の貝塚からは確かに蛤が出土しています。

また宮中に蛤が運び込まれる様子は鎌倉時代の絵巻物「春日権現験記」には、唐櫃で屋敷に運び込まれる鮑や蛤が描かれています。いずれも大きさがそろったものがぎっしりと積まれており、キズのない美しいものばかりが選ばれ、納められている様子がうかがえます。

蛤のお吸い物

蛤のお吸い物

古事記にも登場する蛤

実は古事記にも蛤が登場します。キサカイヒメ(赤貝)、ウムカイヒメ(蛤)は日本の神話に登場する不思議な力を持つ女神です。神産巣日之命(カミムスビノミコト)によってこの二人の神が派遣され大国主神の火傷を治したと書かれています。また「海蛤粉」は漢方薬として今も使われます。貝に火が通り、パカっと開く様子は「開く運気=開運」の意味もあると言われています。実際に蛤の身はは栄養価が高く、特に鉄分やマグネシウムが豊富です。お正月の朝、蛤のお吸い物を食べることは、体にも良く、縁起の良い初物を食べることであり、日本の神話にもちなんでいます。ただ美味しいだけではない意味があり、宮中の元日のお朝ごはんに選ばれた理由もうなずけます。

 

禁裏御用達の人々

さて、宮中で正月に蛤を食べることは理由がわかってきましたが、宮中(禁裏・御所)の習わしがどのように京都の庶民に伝わったのでしょうか。禁裏御用商人として長年、御所の菓子を調達してきた虎屋の歴史が書かれた「虎屋の五世紀」には、知られざる禁裏御用商人の世界が詳しく書かれています。宮中では日常生活で使うものや食べるもの、儀式で使われるほとんどのものを特定の禁裏御用商人から購入していました。宝暦4年(1754)の「御出入商人中所附」には元禄14年(1701)時点での禁裏御用商人285名がまとめられています。禁裏御用商人はいずれも多くの従業員を抱える大店で、御所や公家の屋敷地の近くや幕府機関が集まっていた二条城近くに店を構えていました。御用に使用する「御用提灯」や「御用札」、通行書である「御用鑑」などが禁裏御用商人の様子を伝えています。御所からは羊羹だけでなくカステラや煎餅、飴などあらゆる種類の菓子の要望がありその全てに対応していたそうです。店では「掟書」といって虎屋で働く人々の規範が定められており、その中には「菓子の製造にあたっては常に清潔を心がけ、口や手などをたびたび洗うこと。また、女性は御用に加わってはいけない」や「御用のお客さまでも、町方のお客さまでも丁寧に接すること」など心得が書かれています。また「御銘」といって天皇や宮家など高位の方から菓子の名前をいただくことがあり、その際、公家の家からは命銘書が出されたそうです。京都には禁裏御用商人の大店があり、商いを通して宮中の習わしが庶民に伝わったのです。

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この記事を書いたKLKライター

とも藤 代表
佐藤 朋子

京都市中京区の呉服店の長女として生まれ、生粋の京都人である祖母や祖母の叔母の影響をうけながら育つ。通園していた保育園が浄土宗系のお寺であったことから幼少期に法然上人の生涯を絵本などで学び始め、平安時代後期の歴史、文化に強い関心を抱くようになる。その後、浄土宗系の女子中学高等学校へ進学。2003年に画家の佐藤潤と結婚。動植物の保護、日本文化の発信を共に行なってきた。和の伝統文化にも親しみ長唄の稽古を続けており、歌舞伎などの観劇、寺社への参拝、院政期の歴史考察などを趣味にしていたが、2017年、日向産の蛤の貝殻と出会い、貝合わせと貝覆いの魅力を伝える活動を始める。国産蛤の⾙殻の仕⼊れ、洗浄、蛤の⾙殻を使⽤した⼯芸品の企画販売、蛤の⾙殻の卸、⼩売、⾙合わせ(⾙覆い)遊びの普及を⾏なっている。

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|とも藤 代表|貝合わせ/貝覆い/京文化

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