1月は睦月、睦は睦まじい、親しい、仲良くするという意味があります。久しぶりの親族との再会に睦まじい時間を過ごす人も多い時期です。正月の思い出といえば、まだ中学生くらいの時の正月休みに親族十数名でホテルに宿泊した夜、全員参加でトランプゲームをしたことを思い出します。3名ずつほどチーム分けをし色々なトランプゲームをしたのですが、とても盛り上がり、悔し涙を流す子供や、腹がよじれるほど笑い出す人、怒り出す人などが現れ、忘れられない一夜となりました。トランプを囲んで手札に一喜一憂する面白さは、私の人生であの夜が一番の盛り上がりではなかったでしょうか。今、貝覆いの遊びの普及をしていて理想としている遊びの姿は、あの夜の興奮に満ちたゲームへの熱中、皆が一体となり誰かの札を注視する姿だと思います。

談山神社の飾蹴鞠と骨董の貝覆い蛤貝殻

談山神社の飾蹴鞠と骨董の貝覆い蛤貝殻

とも藤所有

 

蹴鞠と貝覆い

貝覆いの遊びは、蛤の貝殻を使って遊ぶ伝承遊戯で、平安時代の末期から鎌倉時代にかけて遊ばれていたことが記述に残っています。しかしその詳細はあきらかではありません。当時、どのような蛤貝を使い、どのようなルールで遊ばれたかよくわかっていないのです。実はこの時期、蹴鞠は遊戯から芸道へと発展しました。達人が現れ、口伝書なども書かれ、高貴な身分の人々による蹴鞠の会も行われています。平安時代後期に成立した「とりかへばや物語」には女に生まれたのに男の子のように蹴鞠に熱中する姫と男に生まれたのに、ひいな遊びや貝覆いばかりしている若君が登場します。この時代には「貝覆い」と別に「貝合わせ」の遊びもありましたが、物語では姫の遊びは「貝覆い」と書かれています。「貝合わせ」の方は洲浜というジオラマを作り様々な貝を飾り、ジオラマの内容に合った和歌を皆の前で詠み合う遊びですから、人前に出て発表する形式の遊びです。しかし貝覆いは囲碁と同様に道具類、貝桶と蛤の貝殻があればすぐに遊べますし、さらには囲碁と違って1人でも複数人でも遊べます。「とりかへばや物語」の若君が部屋から出ずにお世話をしている女房たちと、または一人で貝覆いの遊びをしている様子は、蹴鞠に溌剌と興じる男装の姫君との対比にちょうど良いと思います。

東海道之内京 大内蹴鞠之遊覧 歌川芳盛

東海道之内京 大内蹴鞠之遊覧 歌川芳盛

出展:国立国会図書館ウェブサイト

 

蹴鞠の家

蹴鞠は古くは中臣鎌足と中大兄皇子が蹴鞠の会で出会い、大化改新の発端となったと言われており、公家の間で遊びとして親しまれていましたが、源氏物語や枕草子が書かれた平安時代の中期の頃はまだ遊びの範疇でした。優雅に鞠を蹴り合う長閑な遊戯の印象ですが、運動量の多い遊びで体力が必要です。蹴鞠には勝敗がなく鞠を落とさず蹴り続けることが大切ですが、貝覆いの遊びも明確に勝敗を決める遊びではないのでそこが似ていると思います。貝覆いの遊びは室町時代以降、婚礼道具としては発展し武家の婚礼において欠かせないものとなりましたが、蛤貝を取る遊びそのものは、カードゲームであるカルタや百人一首などが取って代わったといって良いでしょう。貝覆いの遊びの普及をしていく中で、蹴鞠という遊びが芸道へどのようにして変化していったのか調べてみました。

千代田の大奥 かるた 揚州周延

千代田の大奥 かるた 揚州周延

出展:国立国会図書館ウェブサイト

遊びであった蹴鞠が芸道として発展した大きな転換点は「蹴鞠の家」の誕生にあります。公家には家職と言って家によって世襲される家業がありますが、蹴鞠の場合、難波家と飛鳥井家が蹴鞠の家です。難波家と飛鳥井家の祖は藤原頼輔(ふじわらよりすけ)です。頼輔の母方は賀茂氏で蹴鞠の名手が多く、幼少の頃より鞠を習っていました。この頃、蹴鞠といえば、賀茂氏と小野氏でしたがどちらの家もそれほど官位の高い家ではありません。頼輔の兄は保元の乱の際に崇徳上皇の側近を務めていたほどの人で頼輔も由緒のある家柄の男子でした。そんな頼輔が蹴鞠を習っていたのが「蹴聖」と言われた藤原成通(ふじわらなりみち)です。成通は蹴鞠の世界では後世に名を残した偉人です。『成通卿口伝日記』には1000日休まずに蹴鞠をする千日行を達成したと書かれている他、鞠の精との交流とその教え、蹴鞠を行う際の心得なども書かれており蹴鞠の作法が作られるのにあたりこの日記は重要な役割を果たしました。

千代田之御表 蹴鞠 揚州周延

千代田之御表 蹴鞠 揚州周延

出展:国立国会図書館ウェブサイト

 

蹴鞠は芸道へ

貴族たちは蹴鞠の技法やルール、装束、鞠の場の故実、鞠の軽量化などを固めてゆき体系化し、蹴鞠の家は芸道としての蹴鞠の家元となり蹴鞠を門弟に伝授するようになります。蹴鞠免状もありました。免状には蹴鞠をする際の装束、袴や沓の着用許可、そして許可された装束が門弟に送られていました。実は成通も頼輔も歌人として知られてはいましたが、四男であり、家柄は良くとも蹴鞠をしていなかったらこれほど後世に名を残すほどの人物ではなかったかもしれません。蹴鞠で頭角を現すことで、高貴な人々に引き立てられ出世したのです。貝覆いも男性を魅了する遊びであればもしかすると芸道として発展したかもしれません。そして遊戯を芸の道として発展させるには技やルールを固めて体系化する必要がありそうです。

京都では毎年、下鴨神社でお正月に蹴鞠初めが行われます。装束姿で鞠を蹴るのは想像以上に難しいそうですが私もいつか蹴鞠を体験してみたいと思っています。蹴鞠初めに行きそびれたという方は京都市上京区の白峯神宮(4月、7月)の奉納蹴鞠もありますので是非実際の蹴鞠の様子を見に行ってみてください。

貝尽浦の錦2巻 貝蓋紀 大枝流芳

貝尽浦の錦2巻 貝蓋紀 大枝流芳

出展:国立国会図書館ウェブサイト

貝覆いは「間違い探しゲーム」

貝覆いは観察力のゲーム。観察力のゲームとは現代でもあり、例えば似た絵を並べて比べる「間違い探し」がその類です。似た貝を並べてお題になっている貝と同じ柄を探す、貝覆いの遊びでは観察力だけでなく洞察力や集中力が試されます。実際にとも藤での貝覆い遊び体験では3人~5人ほどで貝を囲み遊びに興じますが、いつも大変な盛り上がりで、白熱します。「貝覆い」は室内ゲームですが、貝を探す、見つける、取る、合わすといった自発的な行動が伴う能動的な遊びです。400年続いた平安時代の後期、公家の社会から武家の社会へと移り変わる中で、貴人の妻や寵姫は政治に深く関わっていたと言われています。そんな時代に女性たちは「似た柄からたった一つを探して見つける遊び」を楽しんでいました。私には「貝覆い」がこの時代の女性たちを象徴しているように思います。

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この記事を書いたKLKライター

とも藤 代表
佐藤 朋子

京都市中京区の呉服店の長女として生まれ、生粋の京都人である祖母や祖母の叔母の影響をうけながら育つ。通園していた保育園が浄土宗系のお寺であったことから幼少期に法然上人の生涯を絵本などで学び始め、平安時代後期の歴史、文化に強い関心を抱くようになる。その後、浄土宗系の女子中学高等学校へ進学。2003年に画家の佐藤潤と結婚。動植物の保護、日本文化の発信を共に行なってきた。和の伝統文化にも親しみ長唄の稽古を続けており、歌舞伎などの観劇、寺社への参拝、院政期の歴史考察などを趣味にしていたが、2017年、日向産の蛤の貝殻と出会い、貝合わせと貝覆いの魅力を伝える活動を始める。国産蛤の⾙殻の仕⼊れ、洗浄、蛤の⾙殻を使⽤した⼯芸品の企画販売、蛤の⾙殻の卸、⼩売、⾙合わせ(⾙覆い)遊びの普及を⾏なっている。

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|とも藤 代表|貝合わせ/貝覆い/京文化

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