平将門公と京都「坂東武者からみた京都①」
将門軍は「大将、こうなりゃ坂東一円支配下に置いちゃいましょうや!」という側近の言葉に従い、下野国・上野国の役人を次々に追い出したのだった。
坂東の天皇に、オレはなる!
こうしてほぼ関東一円を支配下に置いた将門公は、「新皇(しんのう)」と自称するようになる。つまり「オレは坂東の天皇として新しい国を作る! 京の天皇と対等の関係だぜ!」ということだ。
東の朝廷の政庁を常陸国岩井(現茨城県坂東市)に置き、独自の官位を弟や部下に授けた。完全に京の支配からの独立を宣言したのだ。
天慶3(940)年1月、それを伝え聞いた京の天皇を中心とした朝廷はブチ切れた。平将門公を謀反人として討伐する命令が下される。
将門公討伐、開始!
さて、京から出発した将門公討伐軍の大将は、平貞盛(たいらの さだもり)と、藤原秀郷(ふじわらの ひでさと)殿だ。
平貞盛は将門公といとこの関係。しかし坂東での戦で貞盛の父は将門公と敵対し、殺されている。
藤原秀郷殿は「俵藤太(たわらの とうた)」という名でも有名だ。経歴はアヤフヤで、貴族の藤原氏との関係も曖昧だが、元々は下野国の有力者だったらしい。
平貞盛は藤原秀郷殿と手を結び、共に将門公討伐へ赴いた。天慶3(940)年2月のことだった。
将門公は自ら先陣を切って戦い奮戦したが討死してしまった。こうして坂東独立王国の夢は、わずか2カ月で儚く散ってしまったのだった。
平将門の乱のその後
将門公の東国国家計画はこれで終わってしまったが……坂東の豪族にとってはここからがまた長い道のりの始まりだ。
「東国の自治権を認めてもらう」「公平な裁判をしてもらう」。そのために「朝廷と対等に交渉できるリーダーを担ぐ」。この悲願を達成するには鎌倉幕府の成立まで約200年待たなくてはならない。
坂東の豪族たちは、まず平将門公の叔父にあたる平良文(たいらの よしぶみ)や、藤原秀郷殿の血筋を自分の家系に取り入れた。
そして将門公討伐の総大将だった平貞盛は京へと戻り出世を重ね、子孫に平清盛(たいらの きよもり)殿を輩出する。
平将門公討伐から清盛殿誕生までも坂東武者と貞盛の子孫はけっこうイザコザがあってなぁ……。ざっくりと紹介していくぞ!
平繁盛VS平忠頼・忠光兄弟
まずは貞盛の弟、繁盛! 「はんじょう」ではなく「しげもり」だ。寛和2(986)年2月に、繁盛が朝廷に訴えた起訴文書が残っている。それはこんな感じのものだ。
「私は平将門の乱の時に兄・貞盛と一緒に戦ったのに、恩賞は十分貰えませんでした。それでも国の平安を願うため、600巻の写経を奉納しようとしたら、忠頼と忠光が妨害しました。
これを朝廷に訴えたところ「二人を逮捕しろ」という命令が下されましたが、いざ捕らえようとしたら取り消されてしまいました。
あいつらますます調子に乗ってるし、私の写経も無駄になってしまうでしょう。私、若いころから朝廷に尽くして来ましたよね? そこらへん汲み取ってもらえませんか?」
忠頼(ただより)と忠光(ただみつ)は平良文の子だ。忠頼は千葉氏や畠山氏、忠光は梶原氏や三浦氏などの祖となっているが、ここでは一旦それは置いておく。頭の片隅で覚えておいてくれ。
朝廷は「よしわかった」と、写経納経の為の警備体制をしいた。でも繁盛の本来の目的は、「納経を無事に完了する」ことよりも「恩賞をもらって忠頼と忠光を討伐する」ことだったんじゃないかなー……。
ちなみに忠頼と忠光側は実際どんな感じだったかは残ってない。以前にも追捕令が出て取り下げられた所をみると、どちらかというと二人に分があるか、繁盛よりも一枚上手だったのかもしれない。
頼光四天王・碓井貞光は坂東武者の祖!?
次は忠光の子どもの時代。……といってもただでさえ坂東武者の系図があやふやな時代のなかでも更に曖昧な感じなんだが……。
忠光の子は、一応「忠通(ただみち)」という名前なんだが、実は忠通は酒呑童子(しゅてんどうじ)を退治した源頼光(みなもと よりみつ)公の四天王の1人、碓井貞光(うすい さだみつ)である! ……という説があったり、いやいや貞光は忠光の子で忠通の父だという説があったり。本当によくわからない。
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