平安時代の東国の内乱と京都「坂東武者からみた京都②」
平安後期の東北地方
この先の話をするのに、ちょっとまた古代の話に遡る。都がまだ奈良にあった頃。「朝廷」が支配圏を拡大するにあたって、反対勢力を「蝦夷(えぞ/えびす/えみし)」と呼び、武力によって平定していた。
オレたち坂東の住人がたまに朝廷や貴族に「東夷(あずまえびす)」なんて言われるのもその名残だな。
しかし何百年も対立しているとその関係も変化していく。「蝦夷」の中には朝廷と敵対することをやめて、従う事を選んだものもいた。それを朝廷は「俘囚(ふしゅう)」と呼び、九州や東北へと強制移住させた。
ちなみに俘囚たちは免税というメリットがあったので従ったという背景もあるらしいのだが、そこら辺はオレはあまり詳しくないので各自調べてみてくれ。
東北の俘囚
現代での東北地方は6県に分かれているが、明治維新まで東北地方は「陸奥国」と「出羽国」の2国だ。
陸奥国には俘囚長と称した「安倍氏」。有名な陰陽師の安倍氏とは全くの無関係だ。出羽国には俘囚主と名乗った「清原氏」がいた。これらの氏族は強い権力を持っていたんだが……。この2つの勢力と朝廷から赴任した役人との関係が悪化して、大規模な戦が始まってしまう。
この戦の詳細は次回で語るが、この戦を鎮めるために派遣されたのが頼義公だ。平常忠の乱を父と共に見事鎮めた裁定力を評価されての大抜擢というわけだ。
陸奥国の安倍氏
うむ、まだ少し文字数に余裕があるので、次回の予習として安倍氏と清原氏についてちょっと話しておこう。
陸奥国を支配していた安倍氏のルーツは未だ議論の最中。俘囚ではないという説も出てるぐらいだが、まぁここでは分かりやすく俘囚ということにしておこう。
上の図を見ると陸奥国は広大だ。そして大陸との交易を直接していたこともあって、莫大な富を持っていた。だから朝廷から派遣されてくる陸奥守にも強気な対応ができたのだ。
出羽国の清原氏
出羽国には「秋田城(あきたじょう)」という古代の城があって、これが坂東的には重要な場所だった。
将門公の乱の100年ぐらい前に飢饉があって、秋田城にいた朝廷の役人がそれを補おうと重税を課したら俘囚に反発されたって事件があった。その鎮圧のために、朝廷は上野国・下野国から徴兵し派遣させた。
結果としては俘囚たちの反乱は鎮圧されたんだけど、重税もナシになったので、ある意味反乱は成功したんだな。
で、秋田城はこの戦で荒廃してしまったが再建され、秋田城を拠点とする北方防衛を担う「出羽城介(でわじょうのすけ)」という役職ができた。
出羽国の俘囚主「清原氏」は、この乱の後に秋田城に残り、出羽城介の代理を務めていた。……だから陸奥国の安倍氏とはちょっと立場が違うな。
次回の話の後、出羽城介はその役目を終えて廃止されている。しかし鎌倉時代になると幕府の役職として「秋田城介(あきたじょうのすけ)」と名前を変えて復活し、有力御家人の安達氏が歴任するようになるのだ!
まぁ、安達氏は秋田城に直接赴任はしなかったから、名誉職のようなものだな。でもこの肩書は武士にとって「めっちゃくちゃカッコイイ」からさ……戦国時代あたりまで名誉的な照合として続いてたらしいよ。
東北地方と京都
朝廷と繋がりが保たれていた清原氏が勢力を持つ「出羽国」。朝廷の支配とは独立している安倍氏が支配する「陸奥国」。京都から遠く離れた2つの大国がどうなるか……想像に難くはないだろう。
次回は東北地方が舞台の話になるので、京人には土地勘もない人も多かろうが、この後の歴史にも重要な戦となるので、頑張って解説するぞ!
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承久の乱の時宮方で戦った鎌倉御家人・西面武士。妻は鎌倉一の美女。 いわゆる「歴史上人物なりきりbot」。 まるで見て来たかのように当時の事を語るが、「そういう設定なんだな」と思って生暖かい目で見て欲しい。
思考がどうしても坂東武者寄りなので、ぶぶ漬けを「どんな料理だろう」とワクワク待ってしまう。
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