家康は源氏の末裔だったのか? ~葵の紋が導く縁 松平家 賀茂氏説~

徳川家康。
いうまでもなく、江戸幕府の初代将軍として歴史に名を残す人物です。
彼が征夷大将軍職に就くに当たって根拠としたのが、清和源氏新田流の末裔であるという事でした。

若き日の徳川家康公像 浜松城公園

清和源氏に新田家という一族がありました。もっとも有名なのは、南北朝時代に活躍した新田義貞でしょう。
そのまた分家として、下野国新田荘 世良田得川郷に得川四郎義季という人物がおり、家康はその世良田得川家の子孫だというのです。(なお、得川は「とくがわ」とも「えがわ」とも読みます)

しかし、この系譜に信憑性があるのかどうか、長い間議論されてきました。
 

家康の系譜

徳川家康は、天文11(1542)年に、三河国(現在の愛知県東部)に勢力を持っていた松平広忠の嫡男として、岡崎城に生まれました。
彼を生んだ松平家というのは、三河国加茂郡(賀茂とも表記)にあった松平郷から始まり、徐々に三河西部に力を伸ばしていった一族です。
その初代は松平親氏といいます。彼は若い頃、諸国を旅する時宗の僧侶で徳阿弥と名乗ったとされます。彼は流れ着いた土地の有力者に気に入られて婿入りし、名蹟を継いで松平家の主となるのです。

後に家康が大名として勢力を増し徳川幕府が成立すると、この徳阿弥(親氏)こそが清和源氏新田流の末裔である、だから徳川家は源氏の末流として征夷大将軍に就きうるのだ…という始祖伝説が整備されます。
 

松平家 賀茂氏説とは?

では初期の松平家では、自分たちの出自をどのように認識していたのでしょうか?
今回注目するのは、古代豪族の一つであり京都にもゆかりが深い、賀茂氏。
上賀茂・下鴨神社でおなじみの、あの賀茂氏です。

『松平家というのは、三河賀茂郡松平郷を発祥の地とする在地領主にして、古代の豪族賀茂氏の一族と言われている』
(「徳川家康の源氏改姓問題」 笠谷和比古 日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 1997年)

松平家の第三代に、信光という人がいました。松平家の勢力を飛躍的に広げた人物で、同時代の史料で活動を裏付けられる最初の松平家当主です。
彼は、三河国岩津(現在の愛知県岡崎市)というところに、妙心寺というお寺を建立します。
京都市右京区花園の臨済宗妙心寺とは、また別のお寺です。
そこに阿弥陀如来の像が納められ、その銘文に「賀茂朝臣(かものあそん)」と記されていたのです。

妙心寺のあった愛知県岡崎市岩津の位置

『賀茂氏は全国に広く分布していたが、三河国賀茂郡もまたそのゆかりの地の一つと見なされていた。松平家の三代目当主信光が「加茂朝臣」を称していたことが、信光の建立した三河妙心寺の阿弥陀像の銘文から知られ、また松平-徳川家の家紋である「三つ葉葵」も葵祭で有名な京都の賀茂神社との関連の深いものであることを思わせるものがある。』
(同「徳川家康の源氏改姓問題」)

松平家・賀茂氏説は、まったくの荒唐無稽という訳ではないのです。
そして、この話にはさらに京都につながる続きがあります。
 

「蛸薬師さん」におられる阿弥陀如来

三河妙心寺は明治維新後の混乱によって、京都へ移転します(正確には、京都にあった同じ宗派の円福寺というお寺と土地を交換、円福寺は三河岡崎へ)。これによって妙心寺は松平信光寄進の阿弥陀如来像とともに、京都の新京極に。
その後、とあるお寺の境内に妙心寺仮本堂を建て、阿弥陀像を安置され、今に至ります。
あるお寺とは…これを読んでいる皆さんなら、きっと一度は耳にしている場所ではないでしょうか。

「蛸薬師さん」こと、蛸薬師堂永福寺。
病気平癒、厄除け祈願のあの蛸薬師堂の境内の中に、妙心寺が併存しているという形になっています。

蛸薬師堂永福寺 外観。妙心寺阿弥陀堂は入って右奥にある。

これを知った私は、いそいそと蛸薬師さんを訪れました。
松平家ゆかりの阿弥陀さんの話を伺うためです。
まさか、徳川家康の出自を探る「よすが」が、巡り巡って京都の中心部にあったとは。
ご住職様は快くお話してくださり、以下のことがわかりました。

・蛸薬師堂永福寺の阿弥陀堂(妙心寺阿弥陀堂と表記あり)に安置されている阿弥陀如来像は、前述の松平信光寄進の像である
・「賀茂朝臣」と記された銘文は、愛知県にある岡崎美術博物館に寄託されている

本堂の右手に細い路地があり、これを進んでいくと妙心寺阿弥陀堂という建物があります。残念ながら阿弥陀像の様子はよく見えなかったのですが、参拝してきました。
また、蛸薬師堂さんと岡崎美術博物館のご厚意で銘文の写真データをお借りできました。

これが、その阿弥陀如来像銘文(仏像記)の写真です。

阿弥陀如来仏像記 【妙心寺】

これによって、信光の時代に松平家が賀茂氏の子孫と称していたことが確かめられます。

たくさんの名前が並んでいます。説明が必要でしょう。
もっとも重要なのは中央 やや下に赤字で書かれている「沙弥 信光」です。沙弥とは、出家してはいないが仏教の修行をしている人を表します。この仏像は信光の主導によって制作されたものだということです。
中央いちばん下には「願主 賀茂朝臣 親則(生年二十六)」とあります。親則は信光の息子です。(弟説あり)。早くに亡くなってしまいます。
三河妙心寺は、夭折した親則を弔うために、彼が住んでいた城跡を利用して建立されました。阿弥陀如来像も同じときの制作で、亡き息子のために父である松平信光が京都七条の仏師に依頼したということまでが読み取れるわけです。

ただ細かいことですが、信光以前の事情を辿れるわけではありません。松平氏が本当は全く別の出自を持つ一族で、何らかの事情により賀茂氏を称するに至ったとしても、それを否定・肯定できるまでには至りません。

江戸初期にまとめられた「松平氏由緒書」には、松平初代親氏が、その出自を尋ねられて「わたくしと申しますのは東西を定めずに旅する浪々の者でありまして、恥ずかしく存じ ます」と答えたとあります。
(菊地 浩之  徳川家臣団の謎 (角川選書). KADOKAWA / 角川学芸出版)

また、賀茂氏は京都山城や大和、備前など各地に分布しており、その系統が一つなのか複数なのかは定まっていません。この銘文だけで、それらの背景を確定できるわけではありません。
後述しますが、京都上賀茂との交流などの状況証拠によって、それが山城賀茂なのではないかと推察される、ということです。
 

家康が名乗った氏

さて、当の徳川家康は、賀茂氏を名乗った形跡はありません。長い歴史の中で、賀茂朝臣という名乗りが忘れられていったのか、どうか。
松平家が源氏の子孫であるという主張は、家康のお祖父さんである清康の時代には始まっていました。
清康が岡崎のお寺(松平氏の菩提寺 大樹寺)に奉納した棟札には「世良田二郎三郎清康」とあります。世良田氏は最初に述べた通り、得川氏と同族です。
余談ですが、隆慶一郎の小説「影武者 徳川家康」の主人公 道々の者 世良田二郎三郎の名前はここから取られたものでしょう。

家康が名乗った氏は二つあります。
ひとつは祖父清康から受け継いだ源氏。もうひとつは藤原氏です。

家康がまだ20代の青年大名だったころ、三河の制圧が進み、支配者として名分を整える必要が生じます。
ライバルである今川や武田はれっきとした清和源氏の名族であり、室町幕府の守護職にも就いていました。これに対抗するのに在地豪族 松平の背景だけでは、いかにも弱かったのです。源や藤原の氏や官位を求めたのは、これを克服するための手段でした。

朝廷の官職である従五位下 三河守に就任しようとしたところ、「三河守についたのは藤原氏以外に先例がない」という指摘を受けます。時の正親町天皇の意向だったと言われます。
そこで、京の近衛家や吉田家に仲立ちをしてもらい、藤原氏を名乗ります。
政治的事情に応じて氏を変えていたのです。
なお、このとき併せて松平の姓を徳川に改めています。

家康にとっても、祖父が名乗った源氏を覆すのはさすがに本意ではなかったらしく、のちに源姓に復帰します。
その時にも近衛家の仲介を受けており、当時の近衛家当主の手紙には源氏復帰は「将軍望に付候ての事」、つまり征夷大将軍に任官するためだと書かれています。

松平家が明確な出自を主張しないからこその苦労ですが、逆に融通を効かせられた、と言えるかもしれません。
私は、徳川家がどのような血筋から生まれていたとしても、それぞれ興味深い話だと考えています。
実力次第で家格を乗り越えられるのが戦国の世であり、むしろ出自の不確かさは彼らの抜きん出た力量を示す勲章ですらあると感じます。
家康もまた、それを体現した一人でしょう。

話がそれますが、イギリスで15世紀の王の墓が発掘され、遺伝子の検査も行われました。すると、それが当時の王 リチャード3世のものであると特定できたのですが、曽祖父とは違う男系遺伝子を引き継いでいたことも判明したのだとか。
当時の報道はこれを「誤った親子関係」と表現しましたが、何らかの取り違えや不義密通などの事情により、男系が入れ替わっていたようなのです。
王統でさえ、このような事があります。
地方領主の遺伝子に、正確性を求めることの非合理性はどれほどでしょうか。
私は血統自体を主眼においているわけではなく、当時の人たちが出自をどう考え、どのように影響を受けていたかについて興味を持っているのです。

葵祭こと「賀茂祭」より。参列者は葵と桂の葉を身につける。

家康が将軍職を退いた慶長15(1610)年、上賀茂から駿府にいた家康の元へ、使者が遣わされます。自生の葵の葉をはじめ、さまざまな進物を携えていたので、「葵使(あおいつかい)」と呼ばれました。
葵使は行き先を江戸城に変えつつも、徳川最後の将軍 慶喜の時代まで続けられます。
この行列は大名行列と同格の待遇を得るなど、大切に取り扱われました。

冬の日の上賀茂社家町の景観。

上賀茂の神官を務めていた旧家 梅辻家には、江戸城の本丸に至る道筋を書いた江戸城本丸秘図というものが残っているそうです。葵使が江戸城に参上する際、参照するのだとか。

あるとき梅辻家が特別公開されたことがあり、私も訪問したのですが、まさに葵使のことを記した文書が展示されていて、大変興味深く思ったことを覚えています。

歴史の狭間に、思いを馳せるなら。
ある家が時流に乗って権力を手にし、出自さえも今のきらびやかな地位にふさわしいものに装いたてます。清和源氏の長者にして征夷大将軍、徳川家です。
徳川家に天下人としての地位を保証するのが征夷大将軍の官位であり、その官位を正当化するのが清和源氏の名である以上、「源氏」になりきるしかなかったことでしょう。
しかし自分たちの源流を知ってか知らずか、毎年毎年、賀茂氏の人々を城に迎え入れて歓待し、その繋がりを温め続けていたとしたら…。
歴史とは、人のつながりとは面白いものではありませんか。

なお、葵使の行事は平成19(2003)年に有志の方々によって再興されました。

葵使の様子

地元の上賀茂小学校の児童や地域の人達が行列を作り、二葉葵を運びます。
年によって経路は変わりますが、京都コンサートホールへ行く事が多いです。大政奉還150年記念のときには二条城まで行ったそうです。
最終的には静岡市へと運ばれ、4月に駿府城公園で行われる「静岡まつり」ではこの二葉葵が奉納されます。
徳川と賀茂の繋がりはこうした形で語り継がれ、現代にもその文化を伝えています。

参考文献等
徳川家康の源氏改姓問題 笠谷和比古 日本研究:国際日本文化研究センター紀要 1997
人物叢書 徳川家康 藤井譲治 吉川弘文館
菊地 浩之  徳川家臣団の謎 (角川選書). KADOKAWA / 角川学芸出版
葵プロジェクト公式ホームページ
遠州山中酒造ホームページ 「葵天下の結ぶ縁」

協力
蛸薬師堂永福寺
岡崎美術博物館
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この記事を書いたライター

 
写真家。
京都の風景と祭事を中心に、その伝統と文化を捉えるべく撮影している。
やすらい祭の学区に生まれ、葵祭の学区に育つ。
いちど京都を出たことで地元の魅力に目覚め、友人に各地の名所やそれにまつわる歴史、逸話を紹介しているうち、必要にかられて写真の撮影を始める。
SNSなどで公開していた作品が出版社などの目に止まり、書籍や観光誌の写真担当に起用されることになる。
最近は写真撮影に加えて、撮影技法や京都の歴史などに関する講演会やコラム提供も行っている。

主な実績
京都観光Navi(京都市観光協会公式HP) 「京都四大行事」コーナー ほか
しかけにときめく「京都名庭園」(著者 烏賀陽百合 誠文堂新光社)
しかけに感動する「京都名庭園」(同上)
いちどは行ってみたい京都「絶景庭園」(著者 烏賀陽百合 光文社知恵の森文庫)
阪急電鉄 車内紙「TOKK」2018年11月15日号 表紙 他
京都の中のドイツ 青地伯水編 春風社
ほか、雑誌、書籍、ホームページへの写真提供多数。

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