家康が名乗った氏は二つあります。
ひとつは祖父清康から受け継いだ源氏。もうひとつは藤原氏です。

家康がまだ20代の青年大名だったころ、三河の制圧が進み、支配者として名分を整える必要が生じます。
ライバルである今川や武田はれっきとした清和源氏の名族であり、室町幕府の守護職にも就いていました。これに対抗するのに在地豪族 松平の背景だけでは、いかにも弱かったのです。源や藤原の氏や官位を求めたのは、これを克服するための手段でした。

朝廷の官職である従五位下 三河守に就任しようとしたところ、「三河守についたのは藤原氏以外に先例がない」という指摘を受けます。時の正親町天皇の意向だったと言われます。
そこで、京の近衛家や吉田家に仲立ちをしてもらい、藤原氏を名乗ります。
政治的事情に応じて氏を変えていたのです。
なお、このとき併せて松平の姓を徳川に改めています。

家康にとっても、祖父が名乗った源氏を覆すのはさすがに本意ではなかったらしく、のちに源姓に復帰します。
その時にも近衛家の仲介を受けており、当時の近衛家当主の手紙には源氏復帰は「将軍望に付候ての事」、つまり征夷大将軍に任官するためだと書かれています。

松平家が明確な出自を主張しないからこその苦労ですが、逆に融通を効かせられた、と言えるかもしれません。
私は、徳川家がどのような血筋から生まれていたとしても、それぞれ興味深い話だと考えています。
実力次第で家格を乗り越えられるのが戦国の世であり、むしろ出自の不確かさは彼らの抜きん出た力量を示す勲章ですらあると感じます。
家康もまた、それを体現した一人でしょう。

話がそれますが、イギリスで15世紀の王の墓が発掘され、遺伝子の検査も行われました。すると、それが当時の王 リチャード3世のものであると特定できたのですが、曽祖父とは違う男系遺伝子を引き継いでいたことも判明したのだとか。
当時の報道はこれを「誤った親子関係」と表現しましたが、何らかの取り違えや不義密通などの事情により、男系が入れ替わっていたようなのです。
王統でさえ、このような事があります。
地方領主の遺伝子に、正確性を求めることの非合理性はどれほどでしょうか。
私は血統自体を主眼においているわけではなく、当時の人たちが出自をどう考え、どのように影響を受けていたかについて興味を持っているのです。

葵祭こと「賀茂祭」より。参列者は葵と桂の葉を身につける。

葵祭こと「賀茂祭」より。参列者は葵と桂の葉を身につける。

筆者撮影

家康が将軍職を退いた慶長15(1610)年、上賀茂から駿府にいた家康の元へ、使者が遣わされます。自生の葵の葉をはじめ、さまざまな進物を携えていたので、「葵使(あおいつかい)」と呼ばれました。
葵使は行き先を江戸城に変えつつも、徳川最後の将軍 慶喜の時代まで続けられます。
この行列は大名行列と同格の待遇を得るなど、大切に取り扱われました。

冬の日の上賀茂社家町の景観。

冬の日の上賀茂社家町の景観。

筆者撮影

上賀茂の神官を務めていた旧家 梅辻家には、江戸城の本丸に至る道筋を書いた江戸城本丸秘図というものが残っているそうです。葵使が江戸城に参上する際、参照するのだとか。

あるとき梅辻家が特別公開されたことがあり、私も訪問したのですが、まさに葵使のことを記した文書が展示されていて、大変興味深く思ったことを覚えています。

歴史の狭間に、思いを馳せるなら。
ある家が時流に乗って権力を手にし、出自さえも今のきらびやかな地位にふさわしいものに装いたてます。清和源氏の長者にして征夷大将軍、徳川家です。
徳川家に天下人としての地位を保証するのが征夷大将軍の官位であり、その官位を正当化するのが清和源氏の名である以上、「源氏」になりきるしかなかったことでしょう。
しかし自分たちの源流を知ってか知らずか、毎年毎年、賀茂氏の人々を城に迎え入れて歓待し、その繋がりを温め続けていたとしたら…。
歴史とは、人のつながりとは面白いものではありませんか。

なお、葵使の行事は平成19(2003)年に有志の方々によって再興されました。

葵使の様子

葵使の様子

2016年筆者撮影

地元の上賀茂小学校の児童や地域の人達が行列を作り、二葉葵を運びます。
年によって経路は変わりますが、京都コンサートホールへ行く事が多いです。大政奉還150年記念のときには二条城まで行ったそうです。
最終的には静岡市へと運ばれ、4月に駿府城公園で行われる「静岡まつり」ではこの二葉葵が奉納されます。
徳川と賀茂の繋がりはこうした形で語り継がれ、現代にもその文化を伝えています。

参考文献等
徳川家康の源氏改姓問題 笠谷和比古 日本研究:国際日本文化研究センター紀要 1997
人物叢書 徳川家康 藤井譲治 吉川弘文館
菊地 浩之  徳川家臣団の謎 (角川選書). KADOKAWA / 角川学芸出版
葵プロジェクト公式ホームページ
遠州山中酒造ホームページ 「葵天下の結ぶ縁」

協力
蛸薬師堂永福寺
岡崎美術博物館
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この記事を書いたKLKライター

写真家
三宅 徹

 
写真家。
京都の風景と祭事を中心に、その伝統と文化を捉えるべく撮影している。
やすらい祭の学区に生まれ、葵祭の学区に育つ。
いちど京都を出たことで地元の魅力に目覚め、友人に各地の名所やそれにまつわる歴史、逸話を紹介しているうち、必要にかられて写真の撮影を始める。
SNSなどで公開していた作品が出版社などの目に止まり、書籍や観光誌の写真担当に起用されることになる。
最近は写真撮影に加えて、撮影技法や京都の歴史などに関する講演会やコラム提供も行っている。

主な実績
京都観光Navi(京都市観光協会公式HP) 「京都四大行事」コーナー ほか
しかけにときめく「京都名庭園」(著者 烏賀陽百合 誠文堂新光社)
しかけに感動する「京都名庭園」(同上)
いちどは行ってみたい京都「絶景庭園」(著者 烏賀陽百合 光文社知恵の森文庫)
阪急電鉄 車内紙「TOKK」2018年11月15日号 表紙 他
京都の中のドイツ 青地伯水編 春風社
ほか、雑誌、書籍、ホームページへの写真提供多数。

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SNSなどで公開していた作品が出版社などの目に止まり、書籍や観光誌の写真担当に起用されることになる。
最近は写真撮影に加えて、撮影技法や京都の歴史などに関する講演会やコラム提供も行っている。

主な実績
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いちどは行ってみたい京都「絶景庭園」(著者 烏賀陽百合 光文社知恵の森文庫)
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