葵祭行列はなぜ御所を出発して下鴨神社→上賀茂神社へ向かうのか?! ~上賀茂神社 田中安比呂宮司インタビュー~

京都三大祭のひとつである葵祭は、正式には賀茂祭(かもさい)といいます。華やかな路頭の儀の行列や、誰が斎王代に選ばれるかがニュースになるイメージがありますが、実際に祭祀を行う神社から見た葵祭はどんなものなのでしょうか?
Kyoto Love. Kyoto編集部(以下KLK)が上賀茂神社宮司の田中安比呂様にインタビューをさせていただきました。葵祭の本当の目的や、行列が通るコースの意味、一般人には見ることができない部分までを詳しく教えていただけて、とても貴重な内容になっております。今年の葵祭に向けてぜひ読んでみてくださいね!

葵祭は全国民の幸せを祈る勅祭

KLK それでは質問させていただきます。賀茂祭(葵祭)は正式にはどのような祭祀なのでしょうか?
上賀茂神社宮司 田中安比呂様

田中宮司「賀茂祭は単に当神社としてのおまつりだけではなく国のおまつりです。これを勅祭(ちょくさい)と呼びます。普通の神社のおまつりは地域の発展や氏子さん達のご安泰などを神様に守っていただくためにするものですが、勅祭は日本の全国民の安泰や幸せ、国の発展を祈ります。天下泰平、五穀豊穣、農業も漁業もみんなが豊作で幸せになるということをお祈りする、大変に大きなおまつりです。

普通のおまつりはその神社に務めている宮司と神職と職員だけでするものですが、勅祭は天皇陛下に代わって勅使(ちょくし)を中心に行います。陛下の代理でその願いを伝える役割が勅使です。勅祭を行う神社の中でも独特な祭祀をするのは、賀茂社と石清水八幡宮と奈良の春日大社です。賀茂社は上賀茂神社と下鴨神社を合わせて1つという考え方ですね。
明治時代に国が神社を全部管理することになり、おまつりはこうしなさいという1つの形が決まりました。その中で明治天皇様が『賀茂社と石清水社と春日大社の3社は、勅祭として昔の形のおまつりをしなさい。』といわれ、今に至ります。」

葵祭は3部作!

KLK 私どもは『伝えたい京都、知りたい京都。』の情報を皆様にお届けしておりますので、一般の方があまり知らないような賀茂祭のお話を是非聞かせていただきたいと思っております。

田中宮司「賀茂祭は路頭の儀が話題になりますが、実は3部作なんです。
行列は天皇陛下のお供えを持ってくるためのもの。明治までは御所に天皇陛下がいらっしゃったので、まず第1部は御所で行われます。行列が出発するときに、天皇陛下の前で侍従(じじゅう)の方が陛下からのお供えをしますよという形をとって『幣帛(へいはく)』を唐櫃(からびつ)の中に入れます。それを陛下はご覧になり、お供え物を確かに渡したよということになります。これを宮中の儀と呼ばれました。

第2部はその唐櫃を中心にして路頭の儀が進みます。これが多くの人が思う『葵祭』ですね。行列は陛下のお供えを大事に担いで、神社にお供えに来るんです。まず下鴨神社に向かいますが、陛下のお供えは下鴨神社と上賀茂神社の両方へ持っていきます。

第3部はそれを神社にお供えして、勅使が国民の幸せと国の繁栄に祈りを捧げられるおまつりである「社頭の儀」です。勅使は御祭文(ごさいもん)という祝詞(のりと)を奏上します。賀茂社では赤い紙に書かれた御祭文を読まれます。

勅祭での宮司の役割は、神様と天皇陛下の代理である勅使との間の仲執り持ちをすることです。宮司はお供え物と御祭文を勅使から預かってご本殿にお供えに行きます。それを神様にお供えして帰ってきて、勅使に『返祝詞(かえしのりと)』という祝詞を奏上します。普通、祝詞は神様に奏上するものなんですけどね。

返祝詞とは『今日、天皇陛下の御名代として、宮内庁から誰々様がお祈りに来られました。賀茂別雷(かもわけいかづち)の神様はその陛下のお祈りを確かにお受けになりましたよ。』という内容のものです。神様からのお返し(ご神意)として、当神社では勅使に二葉葵(ふたばあおい)を差し上げます。
そして宮司が勅使に向かって1回拍手をします。そうすると勅使が拍手を返してくれますので、もう1回宮司が拍手をし、さらに勅使が拍手を返してくれます。これを『打交四声(うちまぜよんせい)』といいます。

ちなみに返祝詞をあげるのは岩上という場所で、賀茂別雷の神様が降りてきた山をかたどった、人が入れない岩の上なんです。苔だらけの岩の上に蹲踞(そんきょ)して勅使に返祝詞を上げるのは本当に大変なんですよ。

明治までの場合は、勅使はすぐに御所に帰って天皇陛下に報告し、おまつりが終わりました。今は陛下が東京におられますので、勅使はその日京都で泊まられます。翌朝の新幹線で宮中に帰り、侍従の方を通して『たしかに賀茂祭を奉仕してきまして、神様からの御返事をいただいてきました。』という報告をし、そこで賀茂祭が終わります。
ちなみに明治以降、東京におられる陛下は行列が出発するときにお供え物を唐櫃に入れるところを見られませんが、勅使は『お供えはこれを持っていきます。』と侍従の方を通してお伝えしてから、東京を出発してくるわけです。」

KLK えーっ!私たちが見ていたのは葵祭の2部だけだったんですね。天皇陛下に報告してはじめて賀茂祭が終わるというのは、さすが勅祭です。

御所を出たあと先に下鴨神社に向かうのはなぜ?

田中宮司「御所から出たあと、最初に下鴨神社へ行くのはなんでだと思いますか?」

KLK 御所と下鴨神社が近いから上賀茂神社より先に行くということかなと思っていました。

田中宮司「実は、道中の都合がよいからということが理由ではないんです。下鴨神社は上賀茂神社の神様のお母さんである玉依比売命(たまよりひめのみこと)と、おじいさんである賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)をお祀りされています。賀茂社ではこの神様を一番大切にしています。まずお母さんのところでおまつりをして、それから息子のところへ来るんです。

上賀茂神社の境内にも玉依比売命をお祀りしている片山御子神社(片岡社)があります。そこで、別の神職が『これから本殿でこういうおまつりをします。』という報告をします。報告が終るまでは宮司が本殿で祝詞を読むことはできないんです。
神職はおまつりに行く前には必ずお母さんが祀られている片岡社に1回お辞儀して、それから御殿に上がることになっています。正式におまつりする時は必ず片岡社に先にお参りしてからというのは当神社の特色ですね。

紫式部と縁結びの神様

KLK 片山御子神社(片岡社)は縁結びの絵馬がたくさん奉納されているところですね。とても華やかな印象でした。

田中宮司「『源氏物語』を書いた紫式部もここに何度かお参りに来られています。『源氏物語』の中でも賀茂祭のことが『まつり』として出ています。当時はまつりというと賀茂祭のことでした。
玉依比売命が流れてきた丹塗の矢を拾ったら、賀茂別雷の神様という立派な神を宿されたという当神社の神話を教えてもらったんでしょうか。紫式部はこのような和歌をよみました。

『ほととぎす 声まつほどは 片岡の もりのしずくに たちやぬれまし』
お参りした時に片岡の社というところに来たら不思議な感じを受けた、という前文が書いてあって、ホトトギスが鳴くまで片岡社の裏の片岡の森から落ちてくる朝の雫に濡れながら待っていましょう、という内容です。ホトトギスは5月に来る渡り鳥ですよね。つまりここにいると玉依比売命のご神意を受けて大切な人が来てくれるかな、ということですね。素敵ないい歌です。
紫式部が『源氏物語』を書いたのは1000年も前ですが、その時も今と同じようなこの神社の佇まいがあり、片岡社も同じ場所にありました。私たちもいま同じ場所で思いを馳せることができます。」

KLK 悠久の時を経て、1000年前と同じ場所に立つことができるなんてとてもロマンチックですね。

賀茂社と斎王

ならの小川
KLK 上賀茂神社と斎王の関係についてお聞かせください。

田中宮司「嵯峨天皇が天皇陛下になった頃に争いがありました。それで自分が天皇になったのは大神様のおかげだということで、有智子内親王という未婚の皇女を賀茂社の斎王にされました。伊勢神宮ですでにそういう制度があったので、賀茂社でもはじめることになったんです。
未婚の内親王が斎王になり、400年間で35人の皇女様が勤められました。天皇陛下が代わると次の天皇陛下の皇女に代わったわけですが、皇女がいない場合は前の斎王がそのまま引き継ぐこともありました。」

歌人の斎王 式子内親王

田中宮司「斎王の中には式子(しょくし)内親王もおられました。6歳ぐらいから10年間お勤めされて、お体があまり丈夫じゃなかったので辞められたんです。式子内親王は歌がすごく上手な方で、上賀茂神社に関係したこれらの歌を詠まれました。

『わすれめや あふひを草に ひきむすび かりねののべの 露の曙』
『ほととぎす そのかみやまの旅枕 ほのかたらひし そらぞ忘れぬ』
神様が降りてこられた神山(こうやま)と神社の間に神館(こうだて)があり、賀茂祭が終わったら斎王はそこにひと晩泊まられました。賀茂別雷は男の神様です。その方がいらっしゃって泊まるわけですから、斎王は神様に心も身をも捧げるということになります。

これは、その時に神館で神様と過ごしたことが忘れられないという歌なんです。色っぽいですね。『そのかみやま』とは、『その昔』とも『神山』とも取れます。神様は実際来てくれるわけではありませんが、神様と2人であの森のあの館の中で話し合ったのは忘れられない思いだったな、ということですね。
式子内親王は昔、藤原定家と恋仲だったという説もあります。その想いを混ぜて歌っているのではないかとも感じられますね。和歌にはものすごい意味が込められています。作る人は自分の想いのすべてをその歌に込めて歌っていたのでしょう。

『枕草子』にも『祭のかへさ』がすごく素晴らしいことだと書かれています。神館でひと晩泊まられた斎王様が帰ってくるのを迎えることが都ではすごい行事だったんですよ。なぜかというと、賀茂別雷の神様を宿して帰ってこられるからです。」

KLK ひと晩を神様と一緒に過ごして帰ってくるから、生き神様のような状態になっておられるということですね。

田中宮司「普通の人たちはそんな体験はできないわけで、その女性をお迎えするわけですからね。天皇陛下の皇女さんでどういう方がいるということは知っていても、斎王として賀茂の神様に仕えて帰ってくるのを実際にお迎えできるというのは、都人にとって最高の楽しみだったでしょうね。」

昭和に生まれた斎王代

KLK 現代の斎王代は、斎王とは異なるものなのでしょうか?

田中宮司「賀茂祭は非常に深い色々な意味が込められた祭りです。単なる賑やかな華やかなおまつりではなくて、本当にこの国のために陛下がお祈りし、まさに国全体を挙げての日本のおまつりです。それが本来の賀茂祭なんですね。過去の斎王様や色んな方のお心も積み重なっていっているように思います。
これが1000年前のことで、鎌倉時代に斎王の制度がなくなってしまいました。昭和31年に昔の如くやろうとなった時に、いまさら天皇陛下の皇女様に斎王としてお勤めいただくわけにはいかないので、それじゃあ京都で生まれ育った娘さんになっていただこうと誰かが考えたんでしょうね。
斎王に代わるということで『代』がついて、『斎王代』にお勤めいただいています。勿論いまは昔みたいに神館に泊まるわけじゃなく、おまつりが終わったらすぐ帰られます。

KLK 『斎王代』は斎王の代わりとして勤められていたのですね。知らなかったエピソードもたくさんお聞きできてとても興味深かったです。 百人一首の『玉の緒よ 絶えねば絶えね ながらえば 忍ぶることの よわりもぞする』で有名な式子内親王が、賀茂社の斎王でおられたというのも驚きでした!一般人なので難しいですが、1部や3部も見てみたいものですね。田中宮司、貴重なお話をいただき誠に有難うございました。

賀茂祭と上皇后陛下

今年(2023年5月現在)は、上皇上皇后両陛下が賀茂祭に来られることになりました。
先ほどの話でいうと第1部ですが、今年の賀茂祭は、御所で上皇上皇后両陛下が明治以前と同じ状態で御出発を御覧になられますので、本当に昔のスタイルでできることになります。御所で行列が出てくるところをずっと御覧になるんです。上皇后陛下はとても御覧になりたかったそうだとお聞きしております。
神社にはご名代として勅使が来られるので、陛下は来られないのですけどね。しかし東京ではなく、すぐそばの御所にいらっしゃる。これは素晴らしいことです。
今年は4年ぶりの路頭の儀がございますので、皆さん楽しみにしていてください。私も楽しみですが、誰よりも楽しみにされているのは上皇后陛下かもしれませんね。

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この記事を書いたライター

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