西陣で作られる絣織物・西陣絣は、カラフルで多彩な模様が魅力です。ではどんな布や製品になって世に出ているでしょうか。最も多いのは、昔も今もやはり和装です。洋服やネクタイなどにも使われますが、ほとんどが着物や帯、雨ゴートになっています。数は少ないですが、能衣装や祇園祭の御神体が身につける神衣にも使われていますし、絣の技法で染めわけた糸を組んだ組紐もあります。
西陣絣で使われる糸の素材は、絹が中心です。けれど例外もあり、時には他産地の仕事を引き受けて麻糸を加工することもあるのだそう。洋服地として木綿糸を手がけることもありますが、木綿は絹に比べて糸が太く伸縮もしにくいので、絹糸ほど絣作業がスムーズにはいかないようです。久留米絣や弓浜絣など、他産地の絣織物は木綿が多いので意外な感じがしますね。糸を防染したり巻き取ったりする作業やそのための道具が、西陣絣の場合は絹糸ありきで進化してきたのだろうな、と思っています。
また、ひとくちに絹の絣といっても、実は色々な種類があります。紬や御召、夏物の紗などはその代表格。右撚りの緯糸を使って平織した明石という布もあります。現在明石といえば、十日町の明石ちぢみが知られています。江戸時代文政年間に西陣の織物職人である宮本茂十郎という人が、十日町の縮商人・松屋庄兵衛に頼まれて緯糸に強い撚りを掛けた透ける織物の技法を伝えた記録があり、これが明石ちぢみの前身になったそうです。その逸話を知ったとき、西陣の職人さんはその頃から他産地の仕事をしていたんだなあ、と感慨深くなりました。
上品な輝きをたたえる御召の着物
西陣絣にとって最も関わりが深い生地は、やはり御召でしょう。なぜなら、昭和30年代前半に西陣絣の職人がどっと増えたのは、当時の御召ブームと関連があると考えられるからです。前回徳永弘師匠の工房にある絣御召を紹介しましたが、それらがちょうどその時代のもの。日本経済が飛躍的に成長を遂げた高度経済成長期は1955年(昭和30)年の神武景気の頃から1973(昭和48)年に第一次石油危機が起きるまでの約19年間とされていますが、御召ブームはちょうどその前半の時期と重なっているのがわかります。
御召というのは細かなシボのある織物で、緯糸に御召緯(おめしぬき)と呼ばれる独特な強撚糸が使われています。この御召緯が御召の何よりもの特徴で、まず甘撚りした絹糸に糊付けをし、それをまた別の職人が糸を管に巻き取り、そのときに1mに2000〜3000回ほど強く撚りをかけるのです。甘撚りがだいたい300回程度ですから、いかに強く撚りをかけているかがわかるでしょう。そして、強撚に使われるのが、巨大な八丁撚糸機です。わたしが見学した撚糸屋さんは残念ながらもう廃業されてしまいましたが、普通の住宅の裏庭に工房があり、巨大な撚糸機がぐるぐるまわってたくさんの小さなボビンに一気に強撚糸を巻き取っていました。鰻の寝床の奥でこんな風にものづくりが行われているのは、いかにも京都らしい風景で圧巻でした。徳永師匠によれば最盛期には、絣屋さん同様に強撚糸屋さんも西陣にたくさんあったのだそうです。
八丁撚糸機でつくられる緯糸の強撚糸は右撚りと左撚りがあり、片方だけで織ると布が斜行してしまうので、右撚りと左撚りを交互に織り込むのだそう。そして織りあがった布をお湯のなかで揉み洗いすると、緯糸の糊が取れて強撚が解け、布地に細かなシボが生まれるのです。
ちなみに御召には、絣以外にも無地や縞、絵羽模様が織り込まれたものまで、さまざまな意匠があります。変わった名前は、徳川11代将軍家斉が好んだため「将軍さまのお召し物」と呼ばれるようになったことに由来するのだそう。以前「着物の格」について解説する本を読んでいたら、「御召は織りの着物のなかでは格が高い。紬など先染の織物は着てはいけないような場でも御召ならOK」とあり、(一体どうして御召だけが特別扱いなんだろう……? 将軍が着ていたから??)とモヤモヤしたものですが、実際の御召を見て納得がいきました。ちりめんのような細かなシボがとても品よく高級感があり、白生地に後から絵柄を染めたちりめん地の友禅染と遜色ありません。織りで絵羽模様をいれた訪問着にいたっては、柄行きの格も問題ないですし価格も相当に高級品です。絣の定番模様である矢絣も、御召ならば矢絣の色や大きさなどによっては大人の品ある着物になり、改まった席にも着用できます。
そして、個人的には西陣絣がもっとも別嬪さんな着物になるのも、やはり御召だと思っています。例えカジュアルな柄行きで普段着として着るような絣の模様でも、細かなシボが光を絶妙に乱反射するため、なんとも言えない品のある美しい輝きが布に宿ります。
私が持っている一番お気に入りの絣御召はアンティークの赤と黒のアーガイルチェック(鳥襷)ですが、一番始めに袖を通したときの感動はちょっと忘れがたいものがあります。シルクの織物はどれも身に添わすと布の内側から光沢が立ち現れて布が命を帯びたようになるのですが、御召の場合はその輝きがなんだか複雑で、ポップで元気な柄行きなのに布の輝きに隠しきれない上品さが漂うのです。地味派手というか大人可愛いというか、二面性を持つ生地にすっかり心を掴まれてしまいました。
また、御召緯の色は白と黒が基本なので、絣御召の生地がカラフルなのはすべて経糸の色柄が反映されています。それだけ御召は経糸が細く本数も多く、経糸の密度が濃いということ。そして、御召の絣加工は経糸の仕事が基本となるわけです。強撚糸を使わない布の場合は緯糸にも絣加工ができるので、経緯絣(たてよこがすり)もつくられています。
ちなみに最近では、「将軍さまが愛用した高級織物」という部分に着目し、御召緯を使っていなくても西陣で織られた先染めの高級着尺を「西陣御召」を呼ぶことがあるのだそうです。その場合は、昔ながらのシボがあるものは「本しぼ御召」と呼ばれているようです。
大流行した絣のウール着物
そしてもうひとつ、西陣絣を語る上で外せない生地に「ウール」があると思います。自宅で洗えるウール着物は価格も手軽で、昭和40年代に一大ブームが起きました。徳永師匠も「『世間の奥さんのタンスの引き出しにはもれなくウールの着物が3反は入ってる』と言われたもんやで」とそのヒットぶりを語っておられます。師匠は御召専門でウールは手がけていなかったのだそう。極細の糸で2400〜2700本も経糸を使う御召に比べウールは糸が太く960〜1000本程度なので、職人さんにとっては手早く仕事できる生地だったそう。それゆえ御召絣を手がける師匠はウール絣の職人さんに「いつまで御召のような効率悪い仕事をしてるんや」と言われたこともあったそうです。けれど、ウールはあっという間にブームが去ってしまい、現在ウールを手がけている絣職人さんはいません。何が売れて何が残るかはずっと後にならないと分かりませんが、結果的に効率が悪い御召のほうが、ウールより息長く仕事ができたことになります。
わたしが母から受け継いだ初めての着物も実はウールの絣で、紺地に井桁模様が散ったものでした。あのとき母は「これはウールだけど絣なのよ」とちょっぴり誇らしげに着物を手渡してくれたのですが、当時のわたしはその意味が全くわからずにいました。織物と染物の区別さえついていませんでしたので、絣が事前に糸を染めわけて模様を作り出した織物であることも知らず、単に民芸調の井桁模様のことを絣と呼ぶのだと思っていました。今のわたしならその価値がわかっているので、しっかりと喜ぶと思います。今さらですが、母にちゃんと「わたしも絣大好き。素敵な着物をありがとう!」と伝えなくてはいけませんね。おそらく母のウール絣も西陣で織られたものではないでしょうか。そして、そんなウールの西陣絣は、当時の母のような慎ましい市井の若奥さんたちのおしゃれ心を、十分に満たしてくれたに違いないのです。
先日スカートを縫おうと思って、ウールの西陣絣のデッドストック反物を買いました。西陣毛織工業組合という札がついているのですが、この組合は1973(昭和48)年に西陣織物工業組合・西陣着尺織物工業組合と合併して西陣織工業組合になっていますので、少なくとも50年以上昔の反物であることがわかります。大きく堂々と「ておりウール絣」というシールが反物に貼ってあるのですが、師匠に見せると「ウールを手織りなんかせえへんよ」と笑っておっしゃいました。よくよく見てみるとオレンジ系の経絣にときどき不思議な黒い緯絣が入っており、この黒い緯絣の部分だけが手織りされているようです。「機械の織機で経絣を織り進めて、この部分だけ機械を止めて手で絣の緯糸を通している」というのが師匠の見立てでした。リーズナブルが売りのウールなのにわざわざ手をかけているあたり、かなりのこだわりの品と見ました。織屋のおじさんの誇らしげな顔まで想像がつく感じ。こんな風に布を分析していると作り手の顔が見えて来るのも、絣織物のチャーミングなところだと思っています。