梅雨が明けて  京のくらしと京ことば

初夏から梅雨ごろに最盛期を迎える「蓴菜(じゅんさい)」という食物が、かつて洛北深泥池で採れたことをご存知だろうか。かつてと記したのは、1927(昭和2)年に植物群落が「深泥池水生植物群」として国の天然記念物に、そして、1988(昭和63)年に生物群集全体に広がる中、1990年代後半くらいまで、一部地元の人のみが採取できたが、水質の悪化により、その後は採れなくなったのである。上賀茂の社家の出である北大路魯山人は、この地元深泥池産の蓴菜を「飛切り」と褒めている。
 ちょっと話は横道にそれるが、「深泥池」の読み方である。一般的には「みどろがいけ」であるように思うが、地元では「みぞろがいけ」と呼ぶ人も多く、魯山人も「みぞろがいけ」と言っている。ちなみに、京都市情報館の㏋を見てみると、「みぞろがいけ」となっていた。京都府の㏋では、「みどろがいけ」と「みぞろがいけ」の両方の表記が、そして文化庁のものは、「みどろがいけ」であった。

じゅんさいな

 さて、この蓴菜、「じゅんさいな」という京ことばを生んだ。それは、この食物の特徴と関係している。あまり普段食べることのないものだが、京都では、懐石料理の吸物や酢の物に入っていることが多い。その食感は、ぬるっとしたもので、箸でつかもうとしても、なかなかつかめないことから、第一義としては、「つかみどころがない」という意味である。そして、この意味から派生して、「どっちつかずの」、「いいかげんな」「優柔不断」といった意味合いとなった。あまり褒められたことばではないことはわかるだろう。

 このことば、次のように使われる。二者の間の会話で、第三者の〇〇さんに対して、「『〇〇さんは、「じゅんさいな」やつやから、気つけや』」などと交わされる。この場合、単純にいいかげんな奴という批判的な見方から、同じいいかげんでも、その場その場で、相手の顔を伺いながら調子を合わせるといったお調子者といった皮肉な意味合いも含むものであり、その場の様子からとらえなければならない。
 また、こうした他人に対して、批判的、皮肉的な意味合いを表すのに対して、自分自身に対しても使うことがある。例えば、自分の言い方や行為が軽率であったときなどは、「『えらい『「じゅんさいな」』こと言いまして、すんまへん』」、「『えらい『「じゅんさい」』なことしまして、すんまへん』」などと謝る。
 このように相手への批判や皮肉めいたことのみならず、自分自身の言動に対しても使うことばともなり、なかなか幅のあることばである。私などは、今までの人生を振り返って、「じゅんさいな」人生であったなと思い返している。
 これらの意味合いとは別に、京都市内では聞いたことはないが、真逆の誉めことばとしての「じゅんさいな」を使う地域もある。それは、「純粋な」とか「従順な」という意味合いで使うのである。

雨があかる

 さて、この梅雨、7月に入ると本格的に雨が降り続き、梅雨本番の嫌な季節になる。そして、犬の散歩のことを考えると、さらにになる。しかも最近の雨は、降れば恐ろしいほどの量が降る。地球温暖化防止待ったなしである。そんな雨の合間を縫って、散歩に出かける。私の住んでいるところは比叡山の麓で、まだ地道が残っている。長靴を履いた男の子が水たまりの中をジャブジャブと進んでいく。孫の手を引いたお婆さんは、「『そんな『「しるい」』とこ入らんかて』」と声をかけている。子どもは水たまりをかきまぜるように長靴で歩き回った。するとお婆さんは、「『そんなことしたら『「しるうしるう」』なるやろ。どうすんの、「じるう」なったら』」と言っていた。
 「しるい」「じるい」は、道がぬかるんでいる状態を指すことばであるが、そこに溜まった水の状態が違うのである。「しるい」は、比較的あっさりした水であるのに対して、「じるい」は、泥の多い水たまりの状態である。お婆さんは、比較的あっさりとした水たまりゆえ、「しるい」といったのに対して、その水たまりをかき混ぜた結果、ドロドロになった水たまりとなったので、「じるい」と使い分けるのである。人によっては、「じゅるい」という人もいる。ちなみに妻は、「しるい」ではなく「しゅるい」と言っている。すると「じゅるい」もあるなら「しゅるい」もあるように思えてきた。
 ちょっと話はそれるが、ここでは「しるい」がウ音便となり、「しるうしるう」と使っているが、京ことばには形容詞を畳語にして強調するという特徴がある。例えば、石が重いなら、「この石重いわ」と言うところを、「この石おもいおもいわ」となり、服の汚れがきれいに落ちたなら、「この服きれいきれいになったな」などと言う。怪我をして痛いときは「いたいいたい」、暑いなら「あついあつい」、寒いなら「さむいさむい」などと使う。ちなみに我が家では、犬に餌をやるとき、おいしいを畳語にして、「おいちぃおいちぃ食べるか」などと言いながらやっている。

 さて、そんなぬかるみをつくった雨も止むことになる。京ことばでは、「『雨が『「あかる」』』」と言うが、一般的には、「雨が上がる」と言う。「上がる」には、いろいろな意味があるが、この場合は、「物事がおわりとなる」の意、つまり降雨が終わることを表しているに対して、「あかる」は、漢字で表すと「明かる」で、明るくなるという意で、空が明るくなるということを通して、雨があかるとなるのである。現代では、ほぼ「上がる」が多く使われていて、「あかる」は「上がる」に飲み込まれている状態である。清音と濁音とのわずかの違いだが、意図的に「あかる」を使わなければ、死語になっていくだろう。雨の止む様子を見ながら、適切に使い分けて、京ことばの豊かさを味わって欲しい。

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この記事を書いたライター

 
京ことば研究家
故井之口有一・堀井令以知両氏の「京ことば研究会」で、京ことばとことばの採集方法を学ぶ。京ことばの持つ微妙なニュアンスの面白さを追い続けている。

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