今年の夏の連日の酷暑に体力・気力を奪われた方々、お見舞い申し上げます。
外出したり、旅に出たりするのには過酷な暑さ。また、熱中症対策のために毎日使用するエアコンの電気代も値上がりし、大変なことでしたよね。そんな日々の過ごし方に、私は紀行文を読むことを提案いたします。

本日紹介するのは、日置風水(ひおきふうすい)という人の書いた、『おきのすさび』という紀行文です。宝永乙酉(1705年)の夏に、風水が隠岐のあちこちを訪ね、地元の方や流人の方と触れ合い、いろいろな話を聞いて書き残しています。風水は早くから和歌や俳句に親しんだ人だったので、隠岐の人々からいろんな世間話を聞いたり古い言い伝えを聞いたり珍しいものを見たりしたエピソードの合間に、それらの出来事をもとにした歌や句を添えています。およそ320年前の隠岐の様子が生き生きと描かれています。

「日置風水、夏のさなかの隠岐へ向けて出航」

風水が隠岐に向けて旅立ったのは、陰暦6月末。陰暦6月は新暦(現在の暦)でいえば、6月下旬から8月上旬ころにあたり、風水が隠岐を訪れたのは二十四節気でいうところの「大暑」(一年でもっとも暑さが厳しく感じられる)の頃だったことになります。なぜそんな暑い時期に…と言いたくなりますが、当時は今よりもずっと涼しかったんでしょうね。

宝永乙酉の夏、水無月末 遠祖廟参のため隠州におもむくの日、
首途(かどで)の盃取て北海をこえろよふす。
亀田山のはやまより舟乗出して潟の中、唐人堀のあたり 涼しきけしき。

現在、本土の人たちが隠岐諸島へ向かう船に乗って旅立つ港は七類港(島根県)と境港(鳥取県)の2か所からになります。
風水がまず船に乗り込んだ場所は、「亀田山のはやま」。亀田山は現在国宝に指定されている、松江城のある場所。この近くには江戸時代中ごろから後期にかけて「唐人屋敷」がおかれていたとのことです。

「風水が隠岐を目指した理由」

風水はふだん、日御碕神社の神官の仕事をしています。風水がお仕えしているのは、日御碕神社の検校(けんぎょう)小野家。
実は、風水が今回、隠岐を目指すのには理由があり、一つ目の理由が、かつて隠岐に配流されたのちに亡くなった日御碕神社の検校・小野尊俊の廟(墓)に詣でること。
二つ目は、自分の師であった神道家の橘三喜(たちばなみつよし)が訪れた由良姫神社(西ノ島町)を参拝することでした。風水の師・三喜は京都に上り吉田神道の伝授を受けたのち、江戸浅草に出て、橘神道を開いた人物で、諸国をめぐり『一宮巡詣記』を著しました。
橘三喜(たちばなみつよし)が訪れた場所では、行く先々で神道の講義や歌会がひらかれたようで、風水もその中に混じっていたようです。
三喜の著した『一宮巡詣記』は、全国の一の宮を足掛け23年間かけてお参りした紀行文。時々、隠岐にも「一の宮巡りをしています」という方が訪れるのですが、三喜は全国一の宮巡りの嚆矢となった人と言えるでしょう。

「風水、後鳥羽院行在所跡へ」

飛鳥井少将雅賢の墓

飛鳥井少将雅賢の墓

さて、隠岐に到着した風水は、源福寺に泊まることになりました。源福寺は、かつて後鳥羽院の行在所となったお寺です。

現在、源福寺跡近くに、小さな祠があります。少し前までは、観光客の方があまり訪れない場所でしたがこのところ少しずつ、活気を取り戻しつつあります。
この祠に祀られている主は、飛鳥井少将雅賢(あすかいのしょうしょう まさかた)という、京都出身の公家です。今からおよそ四百年前の、江戸時代初期にこの隠岐・海士の地に流されてきました。

この隠岐の地は聖武天皇の即位した神亀元年(724年)に「遠流の地」と定められて以来、都からのさまざまな流人を受け入れてきており、日本の中心地を追われこの場所に来ることになった理由はさまざまです。

「飛鳥井少将雅賢と後鳥羽院のつながり」

飛鳥井雅賢のイメージ

飛鳥井雅賢のイメージ

雅賢は、蹴鞠の名門の家系の生まれでした。かつての京では蹴鞠の二大流派として「難波家」「飛鳥井家」があった時代がありました。雅賢の実家である「飛鳥井家」は、後鳥羽院にもゆかりの深い家柄でした。飛鳥井家の祖である飛鳥井雅経(あすかい まさつね)は、鎌倉時代初期に活躍した歌人で、後鳥羽院が編纂を命じた勅撰和歌集『新古今和歌集』の選者の一人としても知られています。また、小倉百人一首では、「参議雅経」の名で歌が採られています。

みよし野の山の秋風小夜ふけて
ふるさと寒く衣うつなり
(参議雅経   百人一首 94番/『新古今和歌集』秋・483)

雅賢が、先祖の雅経ゆかりの後鳥羽院と同じ、この島に流されるきっかけとなったのは、慶長14年(1609年)に起きた、「猪熊事件(いのくまじけん)」でした。この事件は、公家の猪熊教利(いのくまのりとし)が公家の仲間たちと起こした、宮廷の女官との密通事件です。この事件は当時の天皇、後陽成天皇の逆鱗にふれ、「関係者はみな死罪とせよ」と大変なお怒りでした。ただ、幕府によりこの密通事件の実態の調査がすすむにつれ、この事件に関わった人数が予想以上に多く、全員死罪にということは到底むずかしいということになりました。
その結果、事件に関わった中で首謀者の猪熊教利(いのくまのりとし)が死罪、そのほかの公家8人、女官5人、地下(じげ)1人は流罪となりました。雅賢はこの時処罰された公家の一人です。ほかの公家の配流場所は、松前(北海道)、硫黄島(いおうがしま)、甑島などでした。

飛鳥井少将雅賢は、天正13年(1585年)生まれですから、配流された時はまだ25歳の若さです。後鳥羽院とおなじく、突然孤島の貴公子となってしまい、さぞ不自由されただろうと思いきや、この島の有力者である村上家の当主の手厚い庇護を受け、慶長18(1613)年の4月25日には、村上家第三十六代当主秀親九右衛門に蹴鞠の免許状と、現在も続く「助九郎」の名を授けるなど、親交を深めていました。
飛鳥井家の蹴鞠装束免状が、一般の庶民に授与されるようになったのは16世紀からで、
雅賢が村上助九郎に与えた免状は、飛鳥井家から庶民に宛てられたなかで早い例にあたるとのことです。この免状は、現在、海士町の村上家資料館に展示されています。

「風水、飛鳥井少将ゆかりの嫗に出会う」

勝田山二王門の内に飛鳥井屋敷とて、苔にふりたる茅屋あり。
故 飛鳥井殿に召しつかはれし老嫗の、古来稀なる年ごろ過て名さへ似つかぬ
童病(わらわやみ)にかゝり 我尊俊廟社へ酴醿など打そゝぎ、祈りまうすさま
見えぬ。
前田の風の夕詠するついで立寄侍り、いかにくるしきやといへば、
おもはずとはれまいらする事のうれしさはなどいひて打過しが、一日題のみ
書たる短冊を袖にしてやまひ癒ぬるよろこびとて予にあたふ。かの御家は題者の
御事なれば、こゝにしても折ふしのすさびには題を遊ばし捨たるおほしとぞ。
それが中に秋初風とあるは、このごろのものなれば文字の数をばあはせにたれ
とはばかりおもひて硯をならすとはあらず。

 松にふき萩に声して我袖の
  つゆにもなるゝ秋の夕かぜ


「尊俊廟社」というのは、風水の旅の目的地の一つであった小野尊俊のお墓です。風水が滞在していた源福寺から、さほど離れていない場所にあり、風水が初めて参った際には、島民の供えた初穂などがあり、里人の崇敬を集めていたので、風水の心は和んだのでした。
また、源福寺の敷地内に、飛鳥井屋敷と呼ばれる古い屋敷がありました。ここは、飛鳥井雅賢が住んでいた屋敷で、雅賢の死後、孫の藤若の代になって罪が許され赦免となったため、今ではかつて飛鳥井屋敷に仕えていた老嫗が暮らしていました。老嫗は、本来ならこどもがかかる病気「童病(わらわやみ)=おこり」にかかったため、小野尊俊のお墓に「酴醿」(麦酒)を注いで回復をお祈りしていたのでした。
風水が老嫗の体調を見舞うと、老嫗は「はれまいらする」(=病が治った)と喜んで、風水に「一日題のみ書たる短冊」(和歌の題だけが書かれた短冊)をくれました。
風水は、飛鳥井家は歌会で和歌の題を出す家でもあるから、島に来てもいろいろな題の歌を折にふれて心のおもむくままにお詠みになっていたのだろう、と思い、老嫗にもらった中から、ちょうど時節に合った「初秋風」の題をえらび、歌を詠みました。

 松の梢を吹きぬけ、萩をゆらし音をたて、
  私の袖の露(涙)にもなじむ秋の夕風よ

雅賢がこの地で42歳で没してから79年が経過していました。
風水は、隠岐でこのほかにもいろいろなところへ出かけていきますが、そのエピソードは次回の記事に。

短歌(有泉 作)
あああれは夢だったのか秋風の忘れ形見の袖の白露

参考文献
・熊倉功夫『後水尾天皇』中央公論新社〈中公文庫〉2010年
・黒田 日出男『洛中洛外図・舟木本を読む』 角川選書 Kindle版 2015年
・田邑 二枝『隠岐の飛鳥井少将』発行者:海士町 1974年(昭和49年)
・「おきのすさび」西ノ島町古文書教室/(元)宍道町教育委員会 松本美和子※講師
『隠岐の文化財』第24号所収 2007年(平成19年)
編集・発行/隠岐の島町教育委員会・海士町教育委員会・西ノ島町教育委員会・知夫村教育委員会
・山崎 隆司『出雲の俳人原石鼎 日置風水』山陰中央新報社 2016年
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歌人ライター
榊原 有紀

島根県歌人連盟 会員
短歌結社『湖笛』所属。
島根県在住のエッジの効いた歌人の参加するネットプリント『うたしまね』に参加させていただいています。
島根県の離島・隠岐島在住の歌人です。
和歌も俳句も詠みますが、どれも中途半端です。
和歌・俳句・短歌大会の事務局に関わらせていただいています。
ご興味のある方はぜひご覧ください。
twitter:隠岐後鳥羽院大賞@welcomegotoba

第18回島根県民文化祭 金賞
令和3年 宮中歌会始 歌題「窓」佳作
『短歌往来』2021年9月号 今月の新人に新作5首『流』掲載(筆名:有泉)
第13回 角川全国短歌大賞 馬場あき子 選 特選(筆名:有泉)

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