現存する日本一高い木造建築は東寺の五重塔で、その高さは54.8メートルあります。
弘法大師空海が826年、建築に着手した五重塔ですが、何度も災難に見舞われています。これまでに4度の落雷や不審火による火災で焼失し、今の五重塔は徳川家光の寄進によって1644年に再建された5代目となります。
私は常々「五重塔のてっぺんからの眺めは最高だろうなぁ」と思っていましたが、あるとき五重塔の上には展望ができるような場所はないと知りました。あれは墓のような建物なので、展望のための塔ではないと知ったのです。塔が高い理由が「誰もが遠くからでも拝めるように」だと聞いて納得しました。

東寺の五重塔より高い七重塔

昔、この東寺の五重塔よりも高い塔が京都にあったことをご存知でしょうか?
東寺の五重塔の倍近くの、高さ約109メートルの七重塔があったのです。
この七重塔は、1399年足利3代将軍の義満が相国寺東南の地に建立しました。義光と言えば金閣寺を建立し、北山文を花咲かせた人物です。
義満は自分が大厄の年であり、かつ父親の義詮の33回忌にあたる年でもあったので、この塔を建てたようです。しかし、塔は幾度も火災に見舞われ、ついに3度目の火災で焼失してしまい再建されることはありませんでした。
因みに、この七重塔よりは低いのですが、白河天皇が建立した法勝寺(現在の京都市動物園)に、1083年完成した八角九重塔は高さが約81メートルありました。残念ながら1342年に、こちらも焼失し、現在は法勝寺とともに実在していません。

私は、相国寺の七重塔のことを知ったとき、同時に西郷隆盛の京屋敷跡が同じく相国寺と同志社大学の辺りにあるということも聞き、確認のために現地に出かけることにしました。相国寺の東門から歩いて探し始めたのですが、何処にあるのかさっぱり分からず、諦めて帰ろうとしたときに偶然、湯川秀樹一家寓居跡の石碑が目に飛び込んできました。探していたものは見つからず、代わりに湯川博士の石碑を見つけることができたのです。近づいてその石碑をよく見ると側面に西郷隆盛邸跡の文字が、またその裏面には相国寺七重塔跡と書いてあるではないですか。こんなことがあるのかと目を疑いました。この3跡がその昔同じ場所に存在していたということを知ったのです。
石碑の横には説明書きもありました。

龍馬もやってきた、薩摩藩二本松邸

薩摩藩の二本松邸が現在の同志社大学の辺りにあったので、西郷の京屋敷もその隣に設けられたと思われます。
二本松邸というと、坂本龍馬が薩摩藩に薩長同盟の話をした場所です。また薩長の仲介後、初めて西郷と長州の桂小五郎(木戸孝允)が顔を合わせた場所とも言われています。
公武合体派の薩摩と尊王攘夷派の長州は1864年、禁門の変(蛤御門の変)で武力衝突をします。
御所に突入しようとする長州と御所を守る薩摩・会津藩(幕府側)とが戦い、長州は敗れて朝敵となりました。長州は、この戦いで松下村塾の四天王の一人・久坂玄瑞を含め、かなりの死者を出しました。それ以降、長州は下駄の裏に薩賊会奸と書いて歩くほどに薩摩と会津を恨み続けました。しかし、龍馬は新しい日本を作るために薩長が手を結ぶよう仲介したのです。
本来なら、西郷の京屋敷で薩長同盟について締結に至る話し合いが行われるはずでした。ところが両人がけん制し合い、どちらからも同盟の話しを切り出さなかったのです。
桂は、自分から同盟の話をすれば天敵であった薩摩に助けを求めることになり、藩の面目が丸潰れになるので、自分からはどうしても話を切り出すことができなかったのです。
一方、西郷も薩長同盟の条件を有利に進めるため、長州の方から同盟の話を切り出させようという思惑があったのでした。
話し合いがうまくいかなかったことを龍馬は10日程経ってから知り、驚いて桂の所へ心の内を聞きに行きます。そしてその後、西郷のいる薩摩藩二本松邸へ向かうのでした。
龍馬は「長州の身になって考えればおまんも分かるがじゃ。これまで薩摩を憎み、薩賊と呼んでいた長州が、どうやって頭を下げられるがじゃ。長州からお願いは出来んぜよ。おまんは、まだ分からんかえ。おまんは、そんな人の気持ちが分からん人間だったかえ」と西郷を説得したのではないかと言われています。
こうして再度、薩長の話し合いが薩摩藩家老の小松帯刀の京屋敷である呼称「御花畑」で行われ、同盟が成立します。この「御花畑」跡地は、現在の鞍馬口通室町角にあります。

二本松邸が同志社大学に

なお、相国寺から譲り受けた薩摩藩二本松邸は、その後に山本覚馬(京都府顧問)が譲り受けます。
彼は新島襄(同志社の創立者)の妻になる八重の実兄です。彼はその後、新島襄が同志社英学校を開校する際に屋敷を譲渡します。これが縁で八重は新島襄と結婚するのでした。
なお、新島襄と八重の邸宅は現在も寺町丸太町を北へ上がったところにあります。

日本人初のノーベル賞

最後に、湯川博士についてお話します。博士は2歳から約2年間、先述した場所に住んでいました。博士の父親も京都大学の教授でした。博士は元々東京生まれですが、父親の京都大学の教授就任とともに京都へ来ることになり、京極小学校、京都第一中学校(現在の洛北高校)を卒業します。そして、京都大学(京都三高)に入学し、後に日本人初のノーベル賞を受賞しました。
同じノーベル物理学賞を受賞した朝永振一郎博士も第一中学校出身で、父親は京都大学の教授でした。年齢は一つ上ですが、湯川博士が飛び級をしたので卒業が同時期になり、京都大学への入学および卒業も同じでした。
卒業後も二人は大学に残り、同じ研究室で机を並べます。湯川博士は考えごとに夢中になると近くに人がいることも忘れ、部屋の中をぐるぐると歩き回ったそうです。そんなとき朝永博士は、イライラする気持ちを落ち着かせるために度々、図書館へ逃げ込んだということです。
このころの湯川博士は、既に自分の進む道を見出して迷うことなく勉学に励んでいました。しかし朝永博士は幼少のころから身体が弱かったこともあり、論文や受験勉強などで耐え難い疲労感に心身ともに疲れ果てていました。そのため、野心もなく劣等感に取りつかれ、もっと優しい分野での仕事をしようと思っていました。
しかしその後、揃ってノーベル賞を受賞されたわけですから、きっと中学時代からの二人の関係が、お互いをライバルとして競い合わせ、切磋琢磨させたのでしょう。
ところで湯川博士の苗字ですが、父親は小川姓で小川秀樹として生まれています。結婚して婿養子に入り、湯川姓となりました。

参考文献
七重塔・西郷・湯川邸跡説明書【特定非営利活動法人京都歴史地理同考会理事長中村武生】
(公財)京都市埋蔵文化財研究所・京都市考古資料館(考古アラカルト)
京都の地名由来辞典(源城政好著・東京堂出版)
京都の歴史がわかる事典(五島邦治著・日本実業出版社)
室町政権の首府構想と京都(桃﨑有一郎著・文理閣)
相国寺(小学館)
薩長同盟論(町田明広著・人文書院)

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この記事を書いたKLKライター

KBS京都 常勤監査役
今川 博明


京都市左京区出身。
歴史に興味をもち、関西大学文学部史学科を卒業。
KBS京都(京都放送)に入社、現在は常勤監査役。
京都の史跡を多くの方に伝えたくて、京都史跡ガイドボランティア協会員として活動中。

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