平安時代から変わらない景色

風に揺れる満開の藤袴に蝶が訪れ、眺めているうちにまた季節は移り変わります。藤袴に集まってきていた蝶が去り、11月になると朝夕の冷え込みが一層強くなります。賀茂川沿いの桜の木々の葉は眩しいほどに鮮やかに色づいて、その紅葉した見事な赤色が降り積もるように地面に落ち始めて、秋の深まりを感じる頃、夫がツバメの話をしていました。夫は賀茂川で沢山のツバメが集まっているのを動画に撮影していて、それを私に見せてくれます。ツバメたちは越冬地へ移動していくそうです。賀茂川の近くで暮らしているとふとした川の景色がとても美しい時があり、買い物途中の自転車を降りて、川に映る青空や、なだらかな曲線で連なる山々をしばらく眺めています。この川も山々も、ツバメも平安京の都があった時からずっと変わらないものだと思うと今すぐにでも時空を超えていけそうな気がします。

学校法人国際文化学園 衣紋道東京道場にて装束体験

黒髪は美人の証

今年は五節句の日、3月3日、5月5日、7月7日、9月9日、1月7日に平安装束と貝合わせを楽しむイベントを企画しました。平安装束は「平安装束体験処あさぎ」さんのものです。平安装束の体験にお越しになる平安時代好きのお客様の中には髪を染めず、前髪も作らず、1mほどに長く伸ばしておられる方が割合に多いです。いわゆるワンレンですが、髪の毛先は真っ直ぐに切り揃えておられます。私の髪は1mもありませんが、一応、ワンレンにして毛先を切りそろえています。癖毛なのでうねる髪に苦労します。お客様の中には見惚れるほど長く美しい黒髪の方がおられて本当に素晴らしいと思います。そのような方が装束をお召しになると装束が生き生きしているようです。平安時代の装束は美しい黒髪があってこそ引き立つものなのです。

長い黒髪は平安時代の女性の美の証として知られていますが、ただ長ければ良いわけでなく、艶があり毛先までふっくらと、そして扇を広げたようにたっぷりとしている髪が美しいとされていました。源氏物語の登場人物では、末摘花が髪が美しいことで知られており、その抜け毛をカツラにした時に9尺(2m70cm)、浮舟は6尺(1m80cm)だったそうです。以前、私も装束体験をした際に2mくらいの長さのカツラをつけたことがあります。実際に体験をしてみて、より分かったのですが日常の暮らしに支障が出るような、すごい量の髪の長さでした。

源氏物語 貝合わせ「若紫」

源氏物語 貝合わせ「若紫」

平安時代の少女たち

平安時代、子供は3歳ごろから髪を伸ばし始めますが、それまでは髪を剃っていました。その方が、のちに髪が長く伸びると信じられていたのです。額の髪が目にかかるようになると「目指し」と呼びました。9歳ごろまでに男女ともに毛先を切り揃える「髪削ぎ」という儀式をします。清少納言は『枕草子』の中で、肩で切り揃えた髪型で額の前髪が目にかかる「目指し」の姿を「うつくしきもの」とあげています。

10歳ごろになると長く真っ直ぐに伸ばす「垂髪」にします。『蜻蛉日記』(下巻)に出てくる12歳くらいの少女は身長が4尺(1m20cm)、髪が背丈より4寸(12cm)ほど短く物足りない、さらにその少女の髪の毛先が削ぎ落としたよう、と書かれています。それをふまえて貝合わせに描かれています源氏物語絵の10歳くらいの若紫を見ますとずいぶん長めに描かれていることがわかります。実は、源氏物語絵の体験をされるお客様に中に、このことに気づく方が時々おられて、「この絵の若紫の髪は長すぎないですか?」と尋ねられます。

平安女性の絵巻などでの髪の長さは、身長との兼ね合いもありますが、髪を長めに言ったり、長く多めに描いたりするのは、痩せている方が良いように思われる現代で体重を軽めに言ったりするのと同じように、当時は長い髪が美人の証ですから今で言うところの「盛ってる」ような意味で、量を多く言って良く見せているのではないでしょうか?

角盥 佐藤潤 画

角盥 佐藤潤 画

髪は長ければ長いほど

さて、髪は長ければ長いほど良かった平安時代ですが、平安時代後期に成立した歴史物語『大鏡』には平安時代中期の村上天皇の女御、藤原芳子の驚きの髪の長さについて書かれています。なんと、本人が建物から牛車に乗り込んでなお、髪の裾が母屋の柱にあったとか。5mよりもっと長かったでしょうか。ラプンツェルにも負けない信じられない長さです。

また、長い髪のお手入れについては整髪具が伝わっています。主なものは、角盤(つのたらい)、半挿(はんぞう)、泔坏(ゆするつき)などがあり、これらは雛道具の中にも見かけられます。整髪が現代と違って面白いのでご紹介します。

まず、髪を洗うのは暦の良い日にします。また、1人で洗うことはできませんので、侍女たちに手伝われます。髪を米のとぎ汁(ゆする)で洗うことで長く伸ばせると思われていました。源氏物語第50帖「東屋」では匂宮が妻である中の君を訪れた時に洗髪のため不在でした。洗髪は現代とは違い、好きな日に洗えませんし、髪の量も多いですから、大仕事でした。洗った髪を乾かすのも1日がかりで、火桶を使ったり、天日にさらしたりしました。髪を洗わない日は侍女たちがこまめに櫛で溶かしていたようです。

私は平安時代の整髪具の中で特にお気に入りなものがあります。角盥と半挿のセットです。角盥は出家の時の剃髪の際などにも使用され、古い絵巻でも度々見かける洗面具です。盥から4本の角が出ている珍しい形で、現代にはない魅力を感じています。洗面器として以外にも七夕の際にはこの角盥に梶の葉を浮かべ、星を映したりして使いました。今では全く使いませんが、角盥は当時の人々の日常に欠かせないものだったのです。

花紅葉の箱

花紅葉の箱

働く童女たち

洗髪以外にも高貴な身分の女性は生活のありとあらゆる面で大勢の女性スタッフに支えられていたのですが、特に10歳くらいの童女(どうじょ)たちは侍女見習いとして宮中の姫たちの暮らしを支える存在でした。先ほどの通り、10歳くらいと言いますと髪は垂髪に伸ばしています。そして服装は脇が空いている汗衫(かざみ)、その下に衵(あこめ)を着ます。この童女の汗衫には「晴(ハレ)」と「褻(ケ)」の2種があり、「晴」はハレの日に、「褻」はケの日に着ます。ケの日とは日常の日のことです。貝合わせの源氏物語絵では童女の姿を見ることができます。源氏物語第28帖『野分』では台風の後、六条院の庭の草花が倒れた庭に虫籠を持った童女たちが降りて、虫に露を与えています。源氏物語第21帖『少女』では秋好中宮のところの童女が紫の上のところへ、秋のいろいろな花や紅葉を箱の蓋に入れて持っていく様子が描かれます。

源氏物語 貝合わせ 少女

源氏物語 貝合わせ 少女

この童女たちは中流貴族の娘たちで普段は見習いのような形で姫君に仕えていますが、11月の新嘗祭の豊明節会では見られる立場になりました。豊明節会で舞を舞う五節舞姫に付き従う童女たちは、煌びやかな童女装束を身に纏い着飾り、扇で顔を隠し、貴族の息子たちに伴われて連れられ、天皇や貴族の男性、高貴な女性たちの前へ一列に並び、蝋燭で照らされる中、扇を取り、隠していた顔を見せました。これは「童女御覧」という御遊で、当時、宮中の女性は人に顔を見られてはならなかった、顔を隠すことが嗜みでしたので、顔をわざわざ見るということに特別な意味合いが合ったのでしょう。

童女の汗衫 平安装束体験処あさぎ

童女の汗衫 平安装束体験処あさぎ

堤中納言物語「貝合」に登場する童女

堤中納言物語は平安時代後期以降に成立した短編物語集です。その中の『貝合』に登場する童女の姿はとても生き生きとしています。

物語は随身(従者)を1人連れてお忍びで出かけた蔵人の少将が良い雰囲気の家から聞こえてくる箏の音に誘われて、その屋敷の周りを回っているところから始まります。好奇心でいっぱいですが、中に入ることもできないので随身に和歌を吟じさせますが返答もなく、残念に思いながらしばらく歩くと、可愛らしい童女や下男が5人ばかり出入りする家があります。何事かと思い、こっそりその家に入ると、ススキの生えた庭があり、とても綺麗な少女が貝の入った壺を手に走ってきます。蔵人の少将は少女を呼び止めますが、少女は「今は忙しくて」と早口で答えます。事情を聞くと、少女がお仕えする姫君様が貝合わせをしようと言うことになったが、良い貝が思うように集まらない、相手方には頼る人がいるので、すでに沢山集めておられるが、うちの姫君には弟君1人しか頼れる人がないので、途方に暮れている、と言います。

この頃の貝合わせの遊びは、蛤の貝殻を合わせる遊びのほかに、珍しい貝殻を様々に持ち寄って洲浜というジオラマを作り、和歌を添え、そのジオラマと和歌の良し悪しで勝敗を決めるという遊び方がありました。この物語では自分の仕えている姫君を貝合わせで勝たせたいという童女の気持ちが書かれており、当時の童女の様子がよくわかります。この後、蔵人の少将は自分が貝を用意して、姫君を勝たせてあげるから、その代わりこの家の姫たちを垣間見せてくれないか、と頼みます。なんとまだ子供である童女に手引きを頼むのです。

当時は今よりも寿命がずっと若く、40歳くらいだったと言われています。少女は13歳くらいになると結婚します。現代の感覚ではかなり若いですが、この頃の10歳くらいの童女は髪も伸ばし、宮中で見習いとして働き、時には恋の手助けもする、今の子供達に比べるとずいぶんとしっかりしていたようです。

清少納言は『枕草子』の中で、それ相応の家の娘は宮仕をして内侍(ないしのかみ)のすけ(ないしのすけ 典侍のこと、内侍の次官)などに就かせたいものだと言っています。

平安時代の女性たちは現代の私たちとは異なる価値観の中で生きていました。しかし、京都の季節の移り変わりの中で、今に伝わる当時の生活の様子を知ると少しだけ時空を超えて身近に感じることが出来ます。落ち葉の頃にはまた昔の人々に思いを馳せて落ち葉を楽しむ、平安京の人々のように、京都暮らしを続けてゆきたいです。

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この記事を書いたKLKライター

とも藤 代表
佐藤 朋子

京都市中京区の呉服店の長女として生まれ、生粋の京都人である祖母や祖母の叔母の影響をうけながら育つ。通園していた保育園が浄土宗系のお寺であったことから幼少期に法然上人の生涯を絵本などで学び始め、平安時代後期の歴史、文化に強い関心を抱くようになる。その後、浄土宗系の女子中学高等学校へ進学。2003年に画家の佐藤潤と結婚。動植物の保護、日本文化の発信を共に行なってきた。和の伝統文化にも親しみ長唄の稽古を続けており、歌舞伎などの観劇、寺社への参拝、院政期の歴史考察などを趣味にしていたが、2017年、日向産の蛤の貝殻と出会い、貝合わせと貝覆いの魅力を伝える活動を始める。国産蛤の⾙殻の仕⼊れ、洗浄、蛤の⾙殻を使⽤した⼯芸品の企画販売、蛤の⾙殻の卸、⼩売、⾙合わせ(⾙覆い)遊びの普及を⾏なっている。

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|とも藤 代表|貝合わせ/貝覆い/京文化

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