九相図~ああ、無常!!の響き~

九相図とは何か

「無常」は仏教の根本的な考えで、仏教の代名詞とも言えます。字の如く「常が無い」ということで、すべてのものは生滅したり、移ろい変わったりすることです。

かくて諸行は無常、この世は無常とは言いますけれども、当然人間というのも無常でございます。皆必ずいつか死にますからね。死んだらどうなるんだっていうのはよく分かりませんけど、死者の肉体はこの世界に残され、目にすることができます。もっとも目にしたいものか否かは個人差がありますが、その様子を詳らかに見せる絵があるのです。

それを九相図(または九想図)と言います。それは人間の肉体の滅びゆくさまが描かれた仏教絵画です。
九相図には死体が腐っていくプロセスを以下の九つの段階(各相の名称に一定はない)に分けて描かれております。

亡くなってまもなくのまだ美しい死体
出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/kyuhaku/A70?locale=ja)

1 脹相・・・死体が腐敗したことによって起こったガスによる膨張の様子

出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/kyuhaku/A70?locale=ja)

2 壊相・・・皮膚の崩壊の様子
3 血塗相・・・体液などが滲み出る様子
4 膿爛相・・・死体が溶解する様子
5 青唹相・・・青ざめ黒ずむ様子
6 噉相・・・虫がわき、動物に食べられる様子
7 散相・・・1~6の過程を経て死体が散らばる様子

動物に食べられてしまった死体
出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/kyuhaku/A70?locale=ja)

8 骨相・・・骨のみの様子

出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/kyuhaku/A70?locale=ja)

9 焼相・・・焼かれ灰になる様子(古墳相もある)


「綺麗な死に顔…」と思わず呟いてしまうような段階から白骨体までを描かれているのでなんともリアル、生々しいです。
九相図には、月・日・流水・桜・紅葉・枯葉などが無常を比喩的に表現するものとして死体とともに描かれています。

さて九相図は京都のお寺にも所蔵されております。

京でみる九相図―西福寺の檀林皇后九相図―

いくつかあるのですが、ここでは京都市東山区にある桂光山西福寺に現存する九相図を取り上げたいと思います。

西福寺は京都市東山区轆轤町に位置する浄土宗のお寺です。付近には六道の辻があります。六道は衆生がカルマによって輪廻転生する6つの迷いの世界のことです。またこの世とあの世の境界が、六道の辻との云われがございます。そのような場所に九相図があるということが何か意味を持ちそうです。

この西福寺に現存する九相図は『檀林皇后九相図』です。
檀林皇后(786―850)は本名を橘嘉智子といい、嵯峨天皇(786―842)の皇后です。この方は誠に仏教信仰に篤い方だったようです。ちなみに檀林というのは、橘嘉智子が禅僧義空を招いた際、嵯峨に建立した檀林寺(後に廃絶)に因ります。
西福寺では毎年八月の六道参りの際に、『檀林皇后九相図』のほか『観心十界図』・『那智参詣曼荼羅』・『十王図』が公開されております。

前述したとおり、檀林皇后は仏教を深く信仰しておりました。そのため諸行無常を人々に感じてほしく思い、「私の遺体を道に捨てなさい」との遺言を残しました。遺体が置かれた場所は現在の帷子ノ辻だそうです。

言われた人たちは皇后という身分の遺体をそうすることに気が引けたのではないでしょうか。しかし皇后の遺言だからこそ、そうせざるを得なかったと察します。
遺体が捨てられてからは九相の通り腐りゆき、動物たちが寄り集り、白骨化していきました。49日後には拳だけが草むらに残っており、それを葬ったという話もあります。
その様子を見た人々は無常をひしひしと強く感じたといいます。

思えば、ジャータカ(釈尊の前世の話)にも自分自身を布施する話がありますね。檀林皇后の行動も布施と重ねることができそうです。

いずれ皆死ぬ

先ほど紹介した檀林皇后はとても美人だったそうです。その美貌には修行僧までもがやられてしまうほどだといいます。修行僧は檀林皇后の遺体の変相を見て、無常を思い僧侶として煩悩・執着心を払ったそうですが。自身の遺体を捨てさせ、人々の煩悩を断ち切ろうとする行動、ひいては仏道へすすめようとする、さすがは篤き仏教信仰者です。

以上のように、僧侶の煩悩を絶つ修行のために九相図はあるとされます。その煩悩の対象は恋心思わせる美女なのです。ただそんな簡単に煩悩を捨てられるとは思えませんが。
ほかにも世界三大美女の一人、小野小町を描いた『小野小町九相図』があります。
また『大経五悪図会』の九相図に描かれるのは美人の様子です。

大経五悪図会
出典:国書データベース(https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100260542/10?ln=ja)

誰でも彼でも、どんなにイケメンでも美人でもいつかは死にますし遺体を放っておけば九相図のとおりでしょう。僧侶の修行としては、「だから欲を払い修行に勤しむ」となるのでしょう。一方で、「だから貪り楽しむ」ということも言えると思います。

九相図には死後の肉体がリアルに描かれております。死が注目されるのは当然です。
しかし私は思うのです。九相図に描かれるのは死だけではないだろうと。「死に際」や「腐敗してゆく様子」が描かれるのであればそれをもって「生」を思うことも可能だと思います。つまり九相図において表に死があれば、裏に生があるのです。直接的表現ではないにせよ、それは確かにあるのです。生と死の移ろいは無常のほかありません。
そのような見方もできるのではないでしょうか。

九相図によって人間や世の中の無常性が伝わると思います。無常の響きが聞こえてきませんか。以前思ったことは、無常で儚いから大切・偉大なのだということです。
例えば「今」は今しかありません。今の連続で若さが老いになります。今がたくさん重なって来るものが、死です。だから今を丁寧に大切にと考えます。
しかしながら、無常だから良いとか悪い云々とかそういう次元の話ではないような気もしています。

諸行は無常、それ以上でも以下でもなく。そういうものなのだなあ、と。

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この記事を書いたライター

平成15年、広島県生まれ
龍谷大学文学部仏教学科在籍

釈尊の教えにとどまらず、神道・キリスト教・スピリチュアルなどにも関心がある。
また、皇室ファンであり、日本の文化や伝統を重んじている。



|龍大生ライター|仏教/神道/日本文化