「思」と「考」が未来の京都を創りだす ~書くのがラクになる文章のトリセツ 終章~

文章は「思考」のアウトプット

ここまで10回にわたって連載してまいりました「文章のトリセツ」を読まれていかがでしたか?「なるほどな~」「それ、今度書くときにやってみよう」と思われた方もいれば、「なんか違う気がする…」「言ってることはわかるけど、実際に書くとなるとなあ…」と思われた方、もしかすると「推敲が大事って書いときながら、自分が間違ってるやん!」という発見をされた方もいるかもしれません。ゴメンナサイ!です。いろんな感想を持たれたと思いますが、シリーズのまとめとしてポイントを抽出してみました。

・ほんの少しの心配りで文章の印象がよくなる。
・「誰に、何を、どのように、伝えたいのか?」を書く前に整理する。
・「読む→理解→共感→行動」のハードルをクリアする。
・「読み手ファースト」つまり「おもてなしの心」がハードルの高さを下げてくれる。
・ググった言葉ではなく、自分の頭と心から出てきた言葉が価値を生み出す。
・推敲は読み手への礼儀。推敲により文章は磨かれ伝わりやすくなる。
・AI化が進む社会では、考えるチカラは大きな武器となる。
・「考える」とは、書いたものを見て自問自答すること。
・文章力はマーケティングに活かせる。
・文章とは自分そのもの。

このように、文章の書き方そのものよりも「心がまえ」や「考えること」に多くのページを割いたのは、「思考をアウトプットしたものが文章」と考えているからです。そこで最終章である本稿では「思考」について私がお伝えしたかったことを綴ってまいります。ここでいう思考とは、vol.8「書くことでしか、考えられない」で記した感情や意思などココロの作用である「思」と、アタマを働かせる「考」の両方を意味します。

文章に「思」いを込める

東京2020オリンピック・パラリンピック開催の決め手となったキーワードが「お・も・て・な・し」でしたよね。日本人の心、思いを象徴するものとして、流行語大賞にも選ばれました。本書でも何度も登場した「おもてなし」は文章を書くうえで大きな役割を果たします。そこであらためて、おもてなしの意味を考えてみようと色いろ調べたところ、私なりの解釈では次の2点に集約されました。

・大切な人への心配り
・表裏のない心で人に接すること=誠意

1つ目の「心配り」は、一般的なイメージと同じですよね。文章に当てはめると、読み手に心を配ることによって「読みやすく理解しやすい文章」とすることができます。もう1つの「表裏のない心」は少し説明が必要かと思います。一説によると、おもてなしの語源は「表なし」にあるそうです。表も裏もない誠実な心がおもてなしにつながるという解釈です。茶道の第一人者である千利休は「どの茶会も一生に一度のものとして誠意を尽くすべき」と説きました。その精神は「一期一会」という言葉とともにおもてなしの原点として現代に伝えられています。

「文章には相手ファーストの視点が必要」と述べましたが、だからといって読み手に迎合するのは真のおもてなしとはいえません。自分が本当に大切だと思うことであれば、たとえ相手にとって不都合な話、耳の痛い話であったとしても、伝えるべきです。それがおもてなしのもう一つの意味である「誠意」ある態度だと思います。文章に託された言葉は、あなたの心そのもの。そこにあるべきは、偽りや虚栄心ではなく誠意です。この誠意こそが文章を書く時の、とてつもなく大切な心だと思います。おもてなしの文章とは「相手にとって本当に良いと思うこと」を、精一杯の心配りをもって書き記すこと。私はそう考えます。

「考」えることの本質は、努力と学びの姿勢

考えることの意味、大切さはvol.8で述べた通りです。ここでは、『大辞泉』に掲載された「考える」の3つめの意味「工夫する」について考えてみましょう。

工夫とは「今より良い状態にしようと、あれこれ考えること」です。「考える」という言葉の意味は複数ありますが、その中でも「工夫する」という意味が一番本質をついていると思います。そこには「努力する姿」が見えてくるからです。人間は努力によって成長し、人類はその積み重ねで今日の社会を創り出してきました。

その努力と成長に欠かせないのが「学び」といえます。学びというと学校での勉強や読書、資格取得などを思い浮かべる方が多いと思いますが、決してそれだけではありません。学びの対象はさまざまで、私たちが毎日接しているインターネットやSNSから入ってくる情報はその筆頭格です。インターネット黎明期であった1996年からの10年間で、人が接する情報量は約530倍になったそうです(総務省調べ)。この膨大な情報をただ漫然と眺めるか、気づきを得ようという姿勢で見るかが、そのまま成長の差になるように思います。

また、私たちは「人間」からも多くのことを学べます。成果を挙げている人の言動には得るものがあり、そうでない人からは「なぜ、そうなのか?そうならないためには、どうあるべきか?」といった反面教師としての学びがあるはずです。そう考えると「さあ、勉強しよう!」と机に向かわなくても、学習の機会は身近にたくさんあるということがお分かりいただけると思います。

このように、「考えること」の本質は「努力と学びの姿勢」にあるといえます。「リスキリング」という言葉が話題を呼んでいますが、その概念は決して新しいものではないと思います。「時代の大きな変化に適応するために、必要なスキルを獲得すること」がリスキリングであるならば、人類はその誕生から今までずっと『リスキリング』を続けてきたといえるのではないでしょうか。

学びと京都

vol.6「文章の質は推敲の数に比例する」で述べたように、京都は「学生のまち」として知られています。それを法的に位置づけたものが、徳川家康が天皇や公家に対して定めた「禁中並びに公家諸法度」であったと私は考えています。第一条に書かれた「天子諸芸能之事、第一御学問也」は「天皇として行うべき学問・芸術のなかで、第一は御学問である」を意味しています。当時の天皇は京都にいましたので「京都は学問に専念せよ」とも解釈できます。もちろん、そこには「政治のことは江戸の幕府に任せなさい」というホンネが隠されているのですが、戦後憲法の制定より300年以上も昔に、象徴天皇のあるべき姿を示していたともいえるのが禁中並びに公家諸法度でした。

ところで、この法度を定めた家康という人物は、織田信長のような天才でもなければ、豊臣秀吉のような天性の人たらし術を持ちあわせているわけでもなく、2人に比べると凡庸な武将というイメージがあります。では、なぜ徳川家康が戦国最後の覇者になれたのか?家康にあって信長や秀吉になかったもの、それは「学びの姿勢」だったと思います。家康が読書家であったことは有名ですが、それ以上に信長や秀吉、武田信玄などの先達、特に自分を苦しめた人たちから、その成功も失敗も含めて色いろなものを学びとったことが、260年続く江戸幕府の礎を築いた。私はそう考えています。詳しくは、拙著『戦国時代がわかれば京都がわかる』をお読みいただければ幸いです。

「千年の都」京都には古くから多くの人・モノ・情報が集まり、学びの材料にあふれています。また、京都市市民憲章の実践目標に『旅行者との心の触れ合いを大切にし、京都ならではの「おもてなし」を実践しましょう。』と掲げられているように、「おもてなしのココロ」は、千利休の昔から今に至るまで京都に息づく精神です。

少子高齢化社会に突入した日本は、これからますます厳しい時代に向かおうとしています。その大変な社会にあって「相手を慮るおもてなしのココロ」と「考えるチカラ」、すなわち「思考」は私たちの大きな武器になると確信しています。思考は文章化によって研ぎ澄まされます。書くことを通じて、京都そして私たちの社会が新たな時代を切り拓くことを願って、「文章のトリセツ」シリーズの締めくくりといたします。最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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この記事を書いたライター

祇園祭と西陣の街をこよなく愛する生粋の京都人。

日本語検定一級、漢検(日本漢字能力検定)準一級を
取得した目的は、難解な都市・京都を
わかりやすく伝えるためだとか。

地元広告代理店での勤務経験を活かし、
JR東海ツアーの観光ガイドや同志社大学イベント講座、
企業向けの広告講座や「ひみつの京都案内」
などのゲスト講師に招かれることも。

得意ジャンルは歴史(特に戦国時代)と西陣エリア。
自称・元敏腕宅配ドライバーとして、
上京区の大路小路を知り尽くす。
夏になると祇園祭に想いを馳せるとともに、
祭の深奥さに迷宮をさまようのが恒例。

著書
「西陣がわかれば日本がわかる」
「戦国時代がわかれば京都がわかる」

サンケイデザイン㈱専務取締役

|八坂神社中御座 三若神輿会 幹事 / (一社)日本ペンクラブ会員|戦国/西陣/祇園祭/紅葉/パン/スタバ