オハケの通説を疑う

なのにオハケは依代だと言われるのです。矛盾がありますよね。一方、オハケの御幣は神輿の神様が宿るのではなく、疫病を流行らせる疫神が宿る依代なのではという解釈もあります。疫神が御幣に集まり、疫病を鎮めてくれる神様が神輿に乗ってその御幣の前にお越しになることにより、疫神の力を押さえてくれるという解釈だそうです。
この解釈には神を依代に降ろす儀礼がなくとも、自然と依代に宿るという考えが前提にあります。ですが神職である私は、神職が立てる御幣なのに儀礼を伴わずに自ずと神が宿るという発想に違和感を覚えます。
そこで「通説」を疑ってみます。そのためにまずは歴史的史料を見てみましょう。

又旅社は民家の裏にあった?

又旅社の芝生と御幣はいつから確認できるか。祇園社(八坂神社の旧名)の神楽役人であった臼井定清によって書かれたと思われる天理図書館蔵「祇園社記」(請求記号:吉35-14)には延宝2年(1674)の記事として「神供(みこく)町。神泉苑の神供と云是也。北頬の家の裏に社あり。十三日より神輿を置奉るへき所には芝を置幣を立て十三日の夜御灯を備ふ」とあります。

私が知る限りで、又旅社の芝生と御幣に関する最も古い記録がこれです。この中で注目すべきは「北頬の家の裏に社あり」という所です。現在の又旅社は三条通に面していますが、かつては三条通に面した家の裏に鎮座していたのです。この点は他の史料からも分かります。貞享3年(1686) 黒川道祐によって書かれた『雍州府志』巻八古跡門上には

御供町 三条大宮の西に在り。古へ神泉苑の池斯の地に及び毎年六月十四日祇園会祭礼神輿遊行の日三基の神輿必ず斯の池辺に安置す供物を備ふ。(中略)近世其の処民家の後園に小社を構て祇園神を勧請す。祭礼の日斯の家の前別に壇を築て幣三本を建て祇園の神三座を表す。神輿を其の前に安すなり。(書き下し・下線筆者 以下同)

とあり、民家の後ろにある小さな社に祇園の神を祀ってあると記されています。ちなみに「勧請」とはある所に祀られている神様のご分霊を別の場所にお呼びすることです。私はよく子ども達に「神様は分身の術が使えんねんでー」と言いますが、そんな感じです。

そして家の前に御幣3本を立てて祇園の神を表しているとし、その前に神輿を奉安するそうです。同じ『雍州府志』の巻二神社門上には

祇園の社 三条大宮の西人家の後園に在り。六月十四日祇園会三社の神輿此の人家の前に舁居。此の処に預め壇を築き幣三本を建て祇園の神を壇上に勧請す。而して此の前に於て供物を三基の神輿に献す。故に此の処を御供町と謂ふ。(後略)

とあります。ここでは家の前に3本の御幣に神様を勧請して、その前で神輿に対しお供えをするとあります。つまり、これらの史料から分かるのは「元々又旅社は神輿が留まる三条通に面していなかった。よって神輿を迎えるにあたり、民家の前に芝生もしくは壇という聖なる空間を作り、祇園の神を勧請する御幣を立てた」ということです。
神輿を迎えるための儀礼空間を作るため、只単に注連縄を張るだけでなく、御幣に祇園の神を祀った。この祇園の神とは、三条通からは民家で見えない又旅社の神様のことでしょう。

「臨時の又旅社」とでも言えるような祭場を作り、その前に神輿が来る。これはお供えをする人間が神輿と又旅社の神様にはさまれるという今と同じ構図になっています。
ここから導かれる結論は、「オハケの御幣は元来神輿の神様の依代ではなく、民家に隠れている又旅社の神様を勧請する依代なのではないか」ということになります。

又旅社の神主は誰か?

ですが、この主張を通すためには「神輿の神様を御幣に遷したのではないか」という反論の可能性を打ち破る必要があります。そのために「祭に奉仕していた人間」という切り口からアプローチしてみます。

現在の又旅社は八坂神社の境外末社として八坂神社が管理する神社ですが、元々は別の神社でした。江戸時代の又旅社には大橋という名字の神主がいたことが分かっております。そうしますと、オハケの御幣を立てていたのは大橋氏ということになります。ですが、祇園社の社人(今で言う職員)の中にその神主の名はありません。また、この大橋氏は白川家という家柄から神職の免状を得ていたことが『白川家門人帳』という史料に載っており、祇園社の人々とは違う系統の神主であったと私は考えております。

又旅の神事を行うのが大橋氏ならば、御幣に神輿の神様を遷霊するのも大橋氏ということになりますが、神様にご移動を乞う重要儀礼を別の神社の神職が行えたとは考えられません。
一方で、「祇園社の社人が又旅社で遷霊していたのでは」という可能性も残っていますが、神輿に対してお供えをするという形で十分な儀礼が行えるのに、わざわざ御幣に遷霊しないといけないのかという疑問が生じます。

まとめ

又旅社が神輿の通る三条通に面していない頃、民家の前に芝生と注連縄を設けてそこに又旅社の神様を勧請した御幣を立て、神輿を迎える祭場を設けていた。オハケの御幣は元来、又旅社に祀られる神々が宿る依代だったのではないかというのが私の結論です。

時代が流れ、どこかのタイミングで又旅社は三条通に面するようになります。そうしますと、わざわざ御幣に又旅社の神様を勧請しなくても神輿の神様と又旅社の神様が向き合う形になるのですが、芝生・注連縄・御幣という3点セットは変わらず継承され、「オハケの御幣は依代である」という説明だけが生き続けるようになったのではないでしょうか。

ですが最後に、祇園社とは別の神社がなぜ祇園祭に関係するのかという疑問が残ります。これはもっと深く考えないといけない部分です。久世の駒形稚児を出す綾戸国中神社も祇園社とは別の神社ですし、四条の御旅所を管理していた家柄も元来は祇園社とは別組織の人々ですので、昔の祇園祭は今の祇園祭とは仕組みがかなり違うのでしょうね
今回の投稿では字数の関係と読みやすさの観点から又旅社に関する説で言及していない事柄が多々あります。この点については本多健一先生が論文にされてますのでそちらをご覧ください。

参考文献
本多健一「祇園祭と神泉苑-その実態と言説の変遷-」『藝能史研究第207号』平成26年
折口信夫「髯籠の話」「盆踊りと祭屋台と」『折口信夫全集第2巻』昭和40年 中央公論社
植木行宣・福原敏男『山・鉾・屋台行事-祭りを飾る民俗造形』平成28年 岩田書院

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この記事を書いたKLKライター

八坂神社 権禰宜
仲林 亨

昭和54年生まれ。愛知県豊田市出身(非社家)。
龍谷大学哲学科に入学するため京都へ。哲学を学ぶはずが寺社に興味を持ち宗教研究を志す。
関西大学大学院比較宗教学専修に進み、三条小鍛治宗近の伝説を題材とした「刀鍛冶の信仰」を修士論文として提出。その後、山科区にて塾講師となるも色々あって神職になるため三重県伊勢市の皇學館大学神道学専攻科に入学。平成20年より八坂神社に奉職。現在は学術分野を担当し、各種講演や参拝者への講話を行なうと共に、国宝である御本殿を始めとした文化財保護に携わる。令和6年京都芸術大学の通信教育課程にて学芸員資格を取得。
『祇園祭 温故知新』(令和二年、淡交社発行)に講演録「戦中・戦後の祇園祭」が収録されている。

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昭和54年生まれ。愛知県豊田市出身(非社家)。
龍谷大学哲学科に入学するため京都へ。哲学を学ぶはずが寺社に興味を持ち宗教研究を志す。
関西大学大学院比較宗教学専修に進み、三条小鍛治宗近の伝説を題材とした「刀鍛冶の信仰」を修士論文として提出。その後、山科区にて塾講師となるも色々あって神職になるため三重県伊勢市の皇學館大学神道学専攻科に入学。平成20年より八坂神社に奉職。現在は学術分野を担当し、各種講演や参拝者への講話を行なうと共に、国宝である御本殿を始めとした文化財保護に携わる。令和6年京都芸術大学の通信教育課程にて学芸員資格を取得。
『祇園祭 温故知新』(令和二年、淡交社発行)に講演録「戦中・戦後の祇園祭」が収録されている。
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