寛政の復興

左:見送「林指峰寿叙文」寛政4年(1792)寄贈 右:見送「都の春」平成6年(1994)新調

左:見送「林指峰寿叙文」寛政4年(1792)寄贈 右:見送「都の春」平成6年(1994)新調

天明8年(1788)の天明の大火での罹災後、山鉾町はただちに復興にとりかかったが、世は近世最大の飢饉「天明の大飢饉(天明2年~8年)の後、老中松平定信の「寛政の改革(1787~1793)」の最中であった。自家の再建と並行しての山鉾再建に、町内役員会は、会議は食事後に行い、長引いた場合はいったん帰宅して食事を摂るか、もしくは町内が用意してもおにぎり2個とタクアン数切のみとして倹約に努めた。

寛政元年(1789)からの復興では、まず郭巨殿、御童子の御首(御頭)が新調され、郭巨殿御胴は寛政4年、御童子御胴は寛政3年に人形師金勝亭九右衛門利恭と助っ人大工幸介によって完成、錦小路新町西入亀龍院にて開眼した。
大火罹災3年前に新調された胴掛4枚は難を逃れたが見送は焼失。寛政4年(1792)に東福寺より「林指峰寿叙文」見送の寄進を受けた。「林指峰寿叙文」見送は明国嘉靖辛亥(1551年)の銘文があり、大きな掛軸の形態で林指峰翁の長寿を祝う文が金泥文字で書かれ、現在は京都国立博物館にて保管されている。

郭巨町「奇進帳」寛政3年(1791)4年(1792)

郭巨町「奇進帳」寛政3年(1791)4年(1792)

林指峰寿叙文見送寄進 寄進帳 覚書

林指峰寿叙文見送寄進 寄進帳 覚書

文化文政期の郭巨山

寛政5年(1793)には見送掛を新調し郭巨山は巡行に復帰し、徐々に懸装品の錺金物の充実を図り、文化10年(1813)には金幣を新調、概ねの懸装品が復興した。

見送の新調

見送「唐山水仙人図」文化13年(1816)新調

見送「唐山水仙人図」文化13年(1816)新調

東福寺より寄進を受けた林指峰寿叙文見送は大型の掛軸で風に舞うため、文化13年(1816)円山応挙の孫、応震の下絵による上部に日輪鳳凰、中央から下部に蝦蟇(がま)、鉄拐(てっかい)、呂洞賓(りょどうひん)などを描いた「唐山水仙人図」見送を新調した。

応震は円山家の家法を守り、人物山水花鳥に長じ、この見送下絵を描いたのは28~29才の壮年の頃と思われる。応挙の師匠、石田幽汀(郭巨山の左右胴掛の下絵を描いた)の墓は中京区錦小路大宮西入の休務寺にある。
応震の墓は太秦映画村南隣の悟眞寺(右京区太秦東蜂岡町5-1)にあり、同地は応挙の生誕地でもあり、応挙の墓の右隣に応震の墓もある。ちなみに同寺は郭巨山町ともご縁があり、お地蔵様を安置し、8月の地蔵盆にはお勤めをいただき、町内会役員が参詣している。

石田幽汀墓所 休務寺(錦小路通大宮西)

石田幽汀墓所 休務寺(錦小路通大宮西)

左:円山応震墓 右:円山応挙墓 悟眞寺(右京区太秦東蜂岡町5-1)

左:円山応震墓 右:円山応挙墓 悟眞寺(右京区太秦東蜂岡町5-1)

掛軸御神号

郭巨山町御寄進帳 文政9年(1826)

郭巨山町御寄進帳 文政9年(1826)

文政9年(1826)御掛軸「祇園牛頭天王」の寄進を受けた。揮毫は弘法大師流の大家、花山院前右大臣藤原愛徳公による。

禁門の変

元治元年(1864)7月19日、長州藩と会津・薩摩・幕府連合軍が京都御所蛤御門、堺町御門附近で戦った禁門の変は蛤御門の変ともいうが、その戦火は「鉄砲焼け」ともいわれ、手の施しようもなく、みるみる間にどんどん燃え広がったことから「どんどん焼け」ともいわれる。

山鉾町の被害も甚大で翌年は巡行中止、翌々年の慶応2年(1866)から徐々に復興したが菊水鉾、蟷螂山、綾傘鉾、四条傘鉾、大船鉾などは昭和・平成まで長い年月を要した。郭巨山は会所、蔵、御山胴組などを焼失したが御神体御人形、胴掛類など主な懸装品はいち早く持ち出され難を逃れた。
慶応2年(1866)には御山胴組一式を新調。復興した山鉾巡行では郭巨山、霰天神山、伯牙山の3基以外は唐櫃で巡行、郭巨山は堂々の1番くじであった。

吉符入り式 祭壇

吉符入り式 祭壇

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公益財団法人 郭巨山保存会

祇園祭の山鉾のひとつである「郭巨山(かっきょやま)」を守り、受け継いでいくための組織です。

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