今日7月31日の疫神社夏越祭で今年の祇園祭は終わったが、あらためて信仰とは何かを考えさせられた年であった。コロナ禍でしきりに言われていた祇園祭の本義という言葉の正体は一体何であったのか。

インバウンド・オーバーツーリズムの弊害がでた八坂神社の鈴の緒事件(※1 )。
プレミアム観覧席に対しての宮司さんの山鉾はショーではないとの言。
粽不足は深刻だが、粽を求める人はその意味を正しく知っているのだろうか。

いずれもコロナ禍で問われた祇園祭の本義を、喉元過ぎて忘れぬようもう一度よく考える契機になったと思う。神輿舁きで言うなら神輿を肩に乗せて立ち上がった後の「腰切れ!」(※2)の瞬間である。

拍子抜けかもしれないがこの話に登場するのは三若(※3)の地元界隈のありふれた景色である。私自身にとっての今年の祇園祭の随想なので、もしこの先を読んでいただけるなら、そのひとり言から何かを思い考えていただければありがたい。

さて三若神輿会(三條臺若中)の会所は三条大宮西入あたりにある。

よく祇園とも鉾町とも離れたところに、なぜこの三若という氏子組織があるのかと尋ねられる。祇園祭発祥の地である神泉苑は平安京の禁苑であった。この神泉苑に律令制に基づく当時の国の数の66本の矛を立て祇園社から神輿を送り、厄災を鎮め国の平安を祈ったのが祇園御霊会の始まりと言われている。
その祇園祭発祥の地である神泉苑、そしてその当時の神泉苑の南端に位置するとされる八坂神社の境外末社の御供社(又旅社)の近くは「三條臺村」と呼ばれた。今ある二条城の南側にあたる地域である。

今の三若役員の先祖である界隈の地主や商人の旦那衆が、祇園社や神泉苑へ奉仕をする「講」として元禄期に設立したのが三條臺若中だと考えられている。江戸時代はこの界隈に人家はまばらであったと思われるが、さらに歴史を遡れば平安京のメインストリート、朱雀大路のすぐそばでもある。

あまり知られていないが江戸時代にはこのあたりに天文台があって陰陽師が暦を作ったり吉凶を占ったりしたことが記録に残っている。そして三条新地牢屋敷、通称「六角獄舎」とその「首洗いの井」は三若の会所の目と鼻の先だ。祇園社があった鴨川より東は冥界とされた時代に、陰陽道の聖地や、罪人が冥界へ送られた刑場の傍に三若があったのは偶然とはいえ不思議な気がする。

昨今においては7月に京都で一番熱くなる商店街といわれる三条会商店街のエリアといった方がわかりよいかもしれない。7月初旬に開催される七夕夜市では山鉾の宵山さながらの人出に湧き、また還幸祭の神輿渡御では輿丁とそれを迎える人々が鈴なりになる。ずいぶん前置きが長くなったが、ここからのお話の主人公はこの「鈴なりになる人々」である。

三条会商店街(三条通)とそれに交差する大宮通は神輿の渡御路にあたるいわば「神の道」である。界隈の三条通は商店街だが大宮通は普通の住宅街である。四条大宮近くになると飲食店など商店が目立つが、概ね御池通から錦小路あたりまでの大宮通はところどころにお店が点在する住宅街である。新しお家やマンションもずいぶん増えたが、まだまだ路地も残っており下町風情のあるマチナカの景色である。

大宮通り三条下ルから四条大宮方面を望む

大宮通り三条下ルから四条大宮方面を望む

私の祖父はこの地に生まれ三若にご奉仕をしていたが、父も私も祖父がこの地を離れてから生を受けたのでこの地に住まっていたことはない。しかし6月7月は週に何度もこの界隈を歩き廻るのでまるで生まれ育った故郷に帰ってきたような気持ちになる。

この大宮通を八坂神社中御座、通称三若神輿が通るのは7月24日還幸祭の夕刻だ。待ちわびたとばかりに手拍子で迎えてくれるご家族や、お店から出てきて手を振ってくれる人がいる。きっと担ぎ手の中に親しい人がいるのだろう。四条界隈で神輿を送ってくれる人たちはみなよそ行きの格好だが、この界隈の人はみな普段着だ。甚平さんを着たおじちゃん、ムームーを着たおばちゃんが夕涼みがてら神輿を迎えてくれる。小さなお子さんが「ホイト、ホイト」と神輿の掛け声を真似て体を揺らしている。古いお宅の前で車いすに乗ったおばあちゃんが神輿に向かって手を合わせてくれる姿は尊くさえ思えてこちらの頭が下がる思いがする。神幸祭で四条寺町の御旅所に渡った神輿が、還幸祭では氏子地区を練ってご本社へ還ると言われるが、ここ三若の地元では氏子さんの熱い歓迎をうけてさながら凱旋のような渡御となる。

さて御池通の神泉苑での神事が終わって千本三条から東へ三条会商店街をいよいよ神輿が練ってゆく(※4)。「三若」と染め抜いた紫紺の旗が右に左に大きくたなびく。この界隈を出身母体とする輿丁のグループが神輿の前で中心的に担ぐ。自分を見に来てくれている知人にいいところを見せようとみんな張り切るからだ。ホイト!ホイト!の担ぎ手の声と鳴鐶(※5)がアーケードや、この日ばかりは早くに閉められたシャッターに木霊してオーケストラのように重層的な音で響く。ここではあえて観客と呼ぶ地域の氏子さんと輿丁が一体となり興奮の坩堝となる。堀川通まで東西に長い三条会商店街が劇場と化する夜だ。

撮影 森田玲氏

撮影 森田玲氏

撮影 三宅徹氏

また三条会商店街では地域の小学生が法被を着て「お迎え提灯」を持って並んでくれている。子どもたちにとってのこの祇園祭は日本三大祭でも京都三大祭でもなく、私たちの町のお祭りなのだ。聞けば朱雀第一小学校では三若や四若にちなんで「朱若(すわか)」「一若(いちわか)」という模擬神輿を作って担いでいるのだという。男の子の中には青年となって三若の神輿を担ぎに来てくれている人もいる。本当に嬉しくありがたいことだ。

撮影 森田玲氏

さて一夜明けて神輿の興奮も覚めやらぬ中、我々三若役員は渡御で使った備品などの後片付けと、渡御路にあたる各家、事業所への「御神酒集め」に奔走する。神輿渡御には大きなお金が必要になる、その経費の一部を沿道のお宅や事業所から浄財としていただくことを御神酒集めと呼んでいる。

「昨日はお疲れさまでした」と自転車で通り過ぎるのおじさんが声をかけてくれる。その人とはお互いに顔も名前も知らない。それでも三若神輿会の者だとわかるのは返礼品としてのお供物と「へぎ」と呼ぶ折敷を入れたカゴを持って「御神酒」と書かれた札を貼ってくれている家を探して歩いているからだ。

訪問したお宅では
「いいお天気でよかったですね」
「暑かったやろ、ご苦労さん」
「お世話さんです」
「去年より元気な神輿やったな」
「商売が厳しいし今年は(御神酒を)やめようと思ってたけどもう1年続けるわ!」
そんな声をおかけいただく。
昨日の渡御の疲れも今日の御神酒集めの暑さも吹き飛ぶ瞬間だ。

この方たちは昨日この前を通った神輿が八坂神社の神輿で、それが祇園祭だということは知っていても、牛頭天王だとか、素戔嗚尊だとか、一連の山鉾巡行と神輿渡御の意味の違いのようなもことはあまり考えておられないかもしれない。三若の地元にとってお神輿はおみこっさんなのだ。「おみこっさんが家の前まで来てくれはるなんてなんてありがたい」と口々に言われる。たしかに山鉾巡行路に人家は少ないから、そもそも氏子であっても自分の家の前を山鉾が通るというのはかなり稀なことだろう。神事としての山鉾巡行を見に行っても、両手を合わせての信仰の対象はおみこっさんということなのかもしれない。

4年振りに氏子地域を神輿が練った昨年(令和5年)の祇園祭の終わりに「やっぱり地域にとっては神輿が大事」という京都新聞の特集記事が載り、コロナ禍で途絶えていた神輿渡御を待ち望んでくれていた氏子のみなさんの声が紹介されていた。

令和5年8月1日京都新聞朝刊7面

令和5年8月1日京都新聞朝刊7面

山鉾を中心とした祇園祭はおそらく日本で最大の祭りだろう。そしてコロナ禍の記憶も新しい今、疫病退散祈願はたしかに祇園信仰の本義だ。しかしその原点となるのは氏子の信仰であり、祭りを支えるそれぞれの町の絆だ。疫病封じを願いながら、五穀豊穣を祈りお稲を載せた神輿が渡る。その稲穂の米で炊かれた神輿弁当が配られる。幼い頃から家の前を通る神輿に手を合わせ、二階から神輿を見降ろしてはいけないと教えられて育った子どもたち。ここからまた未来の神輿舁きが生まれてくれるかと思うと頼もしくワクワクする。ここ三若の地元での祇園信仰は、「祇園さん」というあまりに有名な産土神を仰ぎながらも、より本源的で原始的な信仰の形であるような気がしてならない。また来年この地に神輿がお渡りになる。(終)

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この記事を書いたKLKライター

三若神輿会幹事長
吉川 忠男

 
三若神輿会幹事長として、八坂神社中御座の神輿の指揮を執る。
神様も、観る人も、担ぐ人も楽しめる神輿を理想とする。
知られざる京都を広く発信すべく「伝えたい京都、知りたい京都 kyotolove.kyoto」を主宰。編集長。
サンケイデザイン代表取締役。

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