「京都で伝活!~私たち伝統産業を愛する活動はじめました~」ぐるり一周するとやきものが生れるまち 山科 清水焼の郷・清水焼団地 前編 

東山連峰に面した、山科区西端の丘にある、清水焼団地。近年は「清水焼の郷」と愛称で呼ばれています。ここは地名からもわかるように、京都の伝統工芸品のひとつ、京焼・清水焼の産地の一つです。

やきもののまち清水焼団地

清水焼の郷・清水焼団地

やきものに関わる会社が集まって出来たこのまち。現在、清水焼団地には事業所がおよそ60件あり、日々陶磁器の製造・流通が行われています。
エリア内には、陶磁器の原料である陶土や磁土を扱う企業、それを形にする作家・陶芸家、焼成時に掛ける釉薬を扱う店、窯の燃料であるガス会社、完成した陶磁器を入れる木箱屋、陶磁器を販売する卸売業があり、かつては全国へ発送する運送業、陶器の製造工程を見学・体験出来る観光施設もあったという、まさに陶磁器のために造られたまちなのです。

実は私も子どもの頃に、この観光施設に訪れ、湯呑みに絵付け体験をした記憶があります。見本を見ながら筆で描き、我ながら良く描けたと思いきや、1ヶ月ほどして出来上がってきたのは、拙く描かれたスズランの花と、自身の指紋があちこちについた染付の湯呑み。絵付けの難しさを子どもながらに感じました。そんな思い出のある場所ですが、まさか将来、この清水焼団地にご縁が出来るとは思いも寄りませんでした。

清水焼団地の位置

夫の生まれ育ったまちでもあり、私もテーブルコーディネーターとして起業して以来、陶器まつりなどのイベントや展示会などで関わらせていただくことになった清水焼団地。
やきものを中心にしたまちはどうして出来たのか。まず、成り立ちを深堀していきましょう。

清水焼団地ができるまで

江戸時代には盛んになっていた京都のやきものづくりは、粟田焼、八坂焼、音羽焼、清水焼、修学院焼、御室焼など各地で作られていました。しかし、昭和初期には五条坂から清水坂近辺で作られていた、清水焼が残っていきます。
清水焼は明治から大正時代にかけて、五条坂から同じ東山区の今熊野日吉エリア、泉涌寺エリアなどへと広がり、山の傾斜を利用し薪を使って焼く登窯や、石炭窯を使って作られていました。しかし、戦後、高度経済成長期を向かえる1960年代には人口の増加で都市化が拡大し、こうした陶磁器の生産地の近くまで住宅地が広がってくると、窯を焚く煙で空気が悪い、洗濯物にススが付く・・・など煤煙(ばいえん)問題が発生してきます。1968年に大気汚染防止法と1970年には京都府公害防止条例が施行され、京都市内では煙を出す焼成が出来なくなりました。

また、当時右肩上がりの業績を上げていた京焼・清水焼。業界全体の生産効率をさらに上げたいという思いからも、広い作業スペースの確保や関連する企業を一カ所にまとめて共同化、効率化の目標をかかげ、1963年に当時まだ東山区であった山科の地に清水焼団地の造成がスタートしました。

現在、京都のやきものは「伝統的工芸品産業の振興に関する法律(伝産法)」で「京焼・清水焼」と認定されています。清水寺付近で造られていた清水焼だけでなく、京都のその他の地域を含める意味で、京都のやきものの総称「京焼」を近年は併記されています。
1977年の法律施行前は単に清水焼と呼ばれていることが多く、まちの名前も「清水焼団地」と付けられています。

造成開始時の清水焼団地の様子(1962年)
(写真提供:清水焼団地協同組合)

まちづくりは建築家・住宅学者として大変有名な京都大学名誉教授、西山夘三(うぞう)氏の研究室が中心となり調査・計画されました。当初は、生産団地として、工房や工場、事業所のみで構成する予定でしたが、陶芸という性質上、窯を焚くときは温度管理を一晩中行うので、次第に職住一体型のまちづくりに変化していきます。

1965年頃から順に京焼・清水焼に関わる事業者へ、区画された土地の購入希望者を募り、事業所の移転・住人の移住がはじまりました。協同組合の機能も整い、清水焼団地内の事業者が共同で使える施設や倉庫などが完成。清水焼団地内で働く人向けにマンションの建設、住人らに向けた飲食店や日用品店、美容室、医院、娯楽施設、通勤のために五条京阪からのバスの運行など福利厚生の面も整えられました。

1969年頃の清水焼団地
(写真提供:清水焼団地協同組合)

また、移転前に発生していた陶磁器製造による煤煙問題を解決するため、電気窯や当時開発されたばかりの最新のガス窯のみ設置されました。このため、このエリアのガスは都市ガスではなく、窯業に適した高カロリーのLPガスの管がまちの地下全体に張り巡らされているという徹底ぶり。

住居及び福利厚生施設の完成(1972年)
(写真提供:清水焼団地協同組合)

それまでは薪や石炭を使った窯で焼いていたのが、電気窯、ガス窯に変わり、また、共同で使っていた登り窯から各々の工房に窯を持つことが必要となったために、そのスペースが必要になる…それまでの京都のやきものの歴史の中で大きく近代化した事例だったと考えられます。

こうした計画に基づき造られた工業団地は、当時全国でも非常に珍しく、各地の行政関係者や都市計画に関わる方が頻繁に見学に来られ、さらにはオランダの首相や東ドイツ(当時)国家元首も来訪、1978年には皇太子殿下(現:上皇陛下)ご夫妻もご行啓され、多くの人々がお出迎えをしたと、当時小学生だった主人が記憶しています。

そうそう。清水焼団地という名前はエリアを表すだけでなく、エリアの大部分を占める町名も「清水焼団地町」なのです。
団地という名から、“2LDKの集合住宅”のようなイメージされる方もいらっしゃったのか、出来た当時、住所に「清水焼アパート」と書かれた手紙が来たなんていうエピソードも聞かせていただきました。

町内の掲示板
参考文献
清水焼団地協同組合. (2011). 清水焼団地五十年の歩み

記事の内容について清水焼団地協同組合の多大なるご協力を賜りました。

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この記事を書いたライター

京都生まれ。祖父の代まで染屋を営み、親戚一同“糸へん”の仕事にたずさわる環境で育ち、学生時代はファッションを学び、ウェディング業界へ就職。そこで出会ったテーブルコーディネートに感銘を受け、後に食空間コーディネーターとして起業。京都の伝統産業の産地支援や、五節句や年中行事など生活文化を次世代に伝える活動を行っています。京焼・清水焼の卸売をする夫と夫婦ユニット「おきにのうつわ」を結成して、京焼・清水焼の魅力の発信や講演、展示会プロデュース、また陶磁器以外の伝統産業品のPRや観光業とのコラボなども手がけています。近年スタートさせた「伝活」では実際に京都の伝統産業品を愛でたり、使っている様子をSNSで紹介。
特非)五節句文化アカデミア 理事

|おきにのうつわ
食空間コーディネーター 工芸品ディレクター|うつわ/清水焼/伝統産業