空(くう)とは

「仏教は空である。」
これは以前、私が大学の講義で聞いたことでございます。この一言で説明がつくのかどうかは分かりませんが、空という考えはそれほど仏教の中では重要な思想なのだと思います。

さて、空とは何でしょうか。
私は漠然と空の意味を「何もない」と理解しておりました。今しがた調べてみると、空とは「実体がない」ということでした。とりあえず『岩波仏教辞典第二版』を開いて見てみました。そこには「固定的実体の無いこと。実体性を欠いていること。」って書いてあります。
「固定的」というのは「動かない」「変化しない」といったことで、崩して言えば「動かない、変化しない実体がない」というわけですね。そして「実体がない」ので、「それがそれだけで存在していない」ということになります。では、ここに在るのは一体何なのでしょうか。仏教では、それを縁起によって形作られたものと考えます。

一般的に縁起は、「縁起が良い」「縁起が悪い」みたいな感じで使用されます。しかし、これは仏教で使われる意味と全然違います。縁起とは「縁って起こる」ことで、何かによってある現象が起こっているということで、良いも悪いもないのです。
この世の現象には因(原因)があって、果(結果)がある、仏教における重要な考えです。

「縁起」の例を挙げるとすれば、「湯飲みはそのものに湯を淹れ飲んだ時、湯飲みになる。」というのを聞いたことあります。つまり、そのものを何かが何かにしているのです。また、人がその場面場面で触れる縁によって変化するといったことも言うそうで、「道を歩けば通行人となり、車を運転すれば運転手。学校へ行けば生徒となり、会社へ行けば社員となる。」みたいな感じです。縁起と一口に言ってもいくらか性質があって、ただいま提示したものは「無実体性」と言います。その都度、肩書が変わっているみたいですね。「実体がない」とはこういうことなのだと思います。

私は仏教学を専攻しているので、そのせいか「縁起良いね」など言わなくなったように思います。別に意識して言わないようにしているわけではないです。ただ仏教での「縁起」の認識が強まっているだけでしょう。

諸行無常なモーメント、そして世界

「諸行無常」という有名な言葉があります。ご存じの方もいるかもしれませんが、すべての現象は移ろい変わりゆくといった意味です。縁起についても言えることなのですが、私は「よくこんなことを説いたな~。」と思います。
これは反感ではなく感心しているのです。なぜなら、確かに!と納得するものが生活には多いと思うからです。身の回りを見渡せば分かりやすいと思います。
皿は割れて、本はやおら古くなり、衣服はほころび、季節は巡ります。

「形あるものはいつか壊れる」という言葉がありますよね。私も中学生のころ、学校内の鍵を壊してしまった際に先生に言われました。この言葉は実に諸行無常を言いえています。

では、その生活の体験者である人間に注目してみます。諸行には人間も含まれます。
であれば、やっぱ人間も無常なんですよね。身の回りと言わなくとも自身がそうでした。究極的には瞬く間に変化し続けており、1秒前と今の自分は違うそうです。
でも、10年前とかならまだしも1秒前って言われてもピンときません。

簡単に考えても、人って老いますよね。物が朽ちる、滅ぶのと同じように人もそうなのです。

ちょっとここで、「有為法」「無為法」という言葉を確認させていただきます。「縁起」や「諸行無常」に比べ、あまり聞きなじみのない言葉だと思います。
有為法とは、因果関係が働き存在するものことです。つまり縁って起こるすべてのもの(=諸行)のことです。この世界は有為の世界です。
「有為転変」という言葉はご存じの方もいるのではないでしょうか。この言葉は「諸行無常」と同じ意味をなしております。

一方で無為法とは、そのようなことは関わらず在るもののことです。
私は、神がいるのかいないのか知らないけど、無為の存在は神の境地のようなものだと思っています。この理解の仕方は不適当かもしれません。神って言うと仏教っぽくないし、確認のしようがないことですから。しかし、「確認のしようがないこと」だからこそイメージしやすいです。無為法と言っても、それを見たり聞いたりしたことある人いるでしょうか。非有為法なのだから、この諸行の世界にいる以上どうもこうもならない。
まあ無為は涅槃とも重ねられる場合があるみたいなので、つまるところ人智が及ばない境地なのでしょう。

空(そら)は空いている!

ところで、日頃、生活する中で空(くう)を感じることってあまりないですよね。あったらごめんなさい。しかし多くの人の場合、「あるものはある」と納得して過ごしているのではないでしょうか。または納得する余地もないほど、当たり前なことだと思っていると思います。当然です。
なんとか感じるとすれば、空(くう)や縁起の理屈を聞き、ぼんやりと「そういうものなのか。」と思う時くらいです。

少し話は飛びますが、空(くう)と空(そら)は読みこそ違いますがなにやら同じ漢字です。もちろん、は私たちのはるか上にある青々としたなんとも広大なもののことです。

この世界には確かに、空(そら)があります。いざ文字にしてみると不思議な感覚を抱きました。そもそも空(そら)というものを考えてもよくわからない感覚におちいります。
例えば、「はたしてどこから空(そら)なのか。ここまでは生活する空間だけど、地上何m以上は空(そら)。さらには、空(そら)と宇宙の境目は?」といった感じです。
おそらく学問的には決まっているのでしょうが、ここでは無視します。
空(空)は空いています。はたしてそこには何があるのでしょうか。
「鳥や太陽、雲がある。」
そんなことを持ち出し自問自答しましたが、仏教にならえば、はたしてそれらの実体は一体どこにあるのでしょうか。

外出中、空(そら)を見上げる時、もしかすると空(くう)を感じることがあるかもしれません。私はそう思えばなんとなくそう思えるくらいで、こじつけと言われればこじつけです。
空(そら)を見上げて、「あ…何もないところに文明が築かれている…」と思うのは超客観的で考えすぎかもしれません。しかし仏教は大体そのようなことを言うのだと思います。

少し視点を低くして、例えば、ある日常的空間のうち、一切の物体との接触がなされていない場所には何があるのでしょうか。
何もないとしか言いようがないですよね。強いて言うなら、無いがあるといった感じになります。どこか哲学的です。であれば、この世界には無いがある所があることとなります。
空(そら)はあまりにも広大です。どうして広大なのか。何もなさすぎるのです。

空(そら)と空(くう)とか無を関連させて考えると、なんだかこの世界が何もないものに囲まれているみたいです。いや、これは世界を主語にした思考ですね。
実は何もないところに、今ある現象が起こったに過ぎないと仏教は言うのだと思います。世界は無に始まり、そして諸行無常、いつか無に帰るのでしょうか。

仏教に多少は影響されていると思いますが、私としては「実体がない」という実感を抱けません。特に自分に対してです。
仏教がいくら「実体がない」と言っても、私は私に執着してしまいます。

仏教の教えを聞き、理屈としてはなんとなく分かっても、では常日頃からそう思っていられるかと言われると非常に難しいです。というかほとんど無理だと思います。
私はそこまで利口ではないし、僧侶になる予定もありません。
「あらゆるものは空である。」と言われても、「そうですか。」と返答するだけです。

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この記事を書いたKLKライター

龍大生ライター
日野稜太

平成15年、広島県生まれ
龍谷大学文学部仏教学科在籍

釈尊の教えにとどまらず、神道・キリスト教・スピリチュアルなどにも関心がある。
また、皇室ファンであり、日本の文化や伝統を重んじている。



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