明治、大正、昭和初期の時代は江戸時代生まれの方も多くおられ、封建的あるいは男尊女卑的な風潮もいささか残されている時代といえる。京都市歴史資料館(上京区寺町通丸太町上る)で保存されている郭巨山の古文書の中に「神事服忌令」という親族に不幸があったときの喪に服する(祭事参加を遠慮する)期間の定めたものがあった。
父母百日から養父母(家督を継ぐ養子縁組が多かった)、別離父母、祖父母、父方伯叔父・伯叔母、準戸主、母方伯叔父・伯叔母、曾祖父母、別離祖父母、夫など順に、最後に妾まで定められており、それは「右七月一日吉符入ノ日ヲ定標トス 郭巨山町神事係」と発令されている。
現在は当事者の心情を重んじ、最長で一年、百か日、忌明け(四十九日)が1つの区切りとされるが「鳥居をくぐらず八坂神社に入り、神職にお祓いを受ければ祭事参加を認める」という最短の方法も可とされている。
また、郭巨山の御神体である御人形2体が天明の大火で焼失後に新調されてから200年以上経過した平成18年(2006)の祭事終了後の点検で、御頭・両腕部の全体に亘り汚れや彩色部分のかすれ、剥離・剥落箇所が見られたため、文化財小修理事業で補修がなされた。このとき、郭巨殿の帽子着用時代の額に薄赤色の帽子紐の線跡も残っていた。
平成27年(2015)の山建て・会所飾りのときに御童子の持つ牡丹造花の破損が、巡行後掛の点検で郭巨殿の足甲と踵のひび割れが見つかり、翌年祭事までに補修された。
太平洋戦争による巡行中止
昭和16年(1941)12月8日の日米開戦により、昭和18年から終戦後、昭和21年(1946)まで山鉾建ては中止(昭和21年は八坂神社で祇園囃子奉納のみ)となり、昭和22年は長刀鉾、月鉾の2基が建ち。長刀鉾が四条寺町御旅所まで往復巡行。郭巨山は昭和24(1949)年に巡行に復帰、御旅所まで往復巡行した。戦前通りに復したのは後祭が昭和25年(1950)、前祭は昭和26年(1951)であった。
前祭の巡行路の変更
昭和31年(1956)「信仰か観光か」の大論議の末、前祭の巡行路が寺町通南行松原西行から寺町通北行御池通西行に変更となった。それまでの昼食休憩を挟んだ一日がかりの巡行は、市電敷設で拡幅された四条通、戦時疎開で広げられた御池通を通ることで辻回しの時間が大幅に短縮されたが御池通での全山鉾勢揃いでの昼食休憩は数年続いた。昭和36年(1961)には河原町通北行に変わり、それは後に舁き山の大きな変更に繋がった。
不勤料の徴収
室町中期に出現したとされる山鉾を出す町内は、通りに面した「両側町」で問屋から小売りまで概ね30~40軒の住民で構成されていた。町内の転出入まで管理していた「町」は祭事への参加は義務と権利であった。しかし近代化の中で、商種によっては祭事中に人員を出せない事情も生じることもできてしまった。祭事不出となるとその分、参加している者への時間的にも係割当にも負担が増えることになり、不勤料という金銭によってまかなうことが決められていた。
昭和27年(1952)の出勤表(祭事当番表)では毎日の提灯の上げ下ろしも含めて細かな不勤料が設定されている。17日巡行日を一日不勤は合計450円。当時の新聞購読料の月280円から換算すれば5~6千円となる。大正10年(1921)の不勤料の記録では山建1円50銭、その他も100分の1であるが、そのころの新聞月ぎめ購読料が1円とされるので大正のほうが割高といえる。
近年は「参加しないから払わない」という風潮もあるが地域文化への意識の希薄化が伝統行事の廃れる一因ではないだろうか。
阪急地下鉄工事のため巡行中止
昭和37年(1962)は阪急電車の河原町延伸工事のため、事前に月鉾の台車に重りを載せ実験も行ったが山鉾巡行は中止となった。
阪急の河原町延伸は、それまでの終点大宮駅から徒歩で烏丸、河原町方面へ向かう人出があり四条通の大宮~烏丸の商店街にとっては死活問題にもなった。このため反対運動が起こり四条西洞院に見張り小屋を作り工事作業員の姿を見ると鍋、ヤカンを叩いて皆に通報して工事阻止、抗議に集合したこともあった。
余談ではあるが前年の昭和36(1961)年は京都駅から西洞院通~四条通~堀川通~中立売通を通る市電北野線、いわゆるチンチン電車が廃止となった年でもある。チンチン電車は狭軌で四条通の西洞院~堀川間は標準軌の市電と片側レール共用で、往復6本のレールが敷設された珍しい場所であり郭巨山町西端の四条西洞院は停留所もあって多くの写真が残されている。
舁き山に車輪装着
昭和38年(1963)阪急延伸工事から再開された巡行に保昌山が車輪を着けて巡行した。
神事が続く四条通は広くても渋滞気味だが細い道の旧巡行路は鉾が辻回しに手間取り、1日がかりの巡行でそれなりの休憩があったが、河原町、御池巡行になり巡行の所要時間が半日に短縮され、休みなしに巡行が進むため舁き手が疲労困ぱいとなり、やむなく車輪を着けたのであるが、他の山も翌年から車輪を装着した。
郭巨山は「舁く」ことにこだわったが昭和40年(1965)に舁き手からの強い要望もあって昭和41年(1966)に御旅所まで舁いて巡行し、その後、全路車輪を装着することになった。それまで舁き手は近辺の農家の方々にお願いしていたが、舁く技術と体力が大幅に軽減されることになり、学生アルバイトを用いるようになっていった。現在はボランティア団体による曳き手、舁き手派遣が主流となり人員の安定供給とアルバイト料の負担減に役立っている。