東映太秦映画村や六地蔵巡りの源光寺がある地「太秦(うずまさ)」は、観光地として有名な嵯峨嵐山にほど近いエリアです。その名前にもあるとおり、かつて強大な力をもっていた氏族集団の秦氏(はたし)が本拠地としていました。京都府立嵯峨野高校に通学していたKLK編集部スタッフにとっては懐かしい場所です。
さて、この太秦にあるパワースポット「蛇塚古墳(へびづかこふん)」をご存じですか?実はものすごく興味深い場所なんです。2025年の干支参りではこの蛇塚古墳を要チェックということで、今回は京都市文化財保護課へインタビューを行い、また蛇塚古墳を取材してきました!
蛇塚古墳とは
蛇塚古墳は、京都市右京区面影町にある国指定史跡です。古墳時代後期の7世紀前葉につくられたとされている前方後円墳で、京都府下では最大の石室を持っています。7世紀前葉の太秦では秦氏が機織や農業を営んで栄え、強大な財力をもっていました。そのためこの蛇塚古墳はその秦氏一族の墓ではないかといわれていますが、正確なことは分かっていません。
もともと全長75mの前方後円墳でしたが墳丘(ふんきゅう)が失われ、今は石室だけが残っています。周囲には家が建てられて、民家の中に存在している状態です。蛇塚という名前は、かつて石室内に蛇が多くいたことからつけられました。
京都市文化財保護課へのインタビュー
京都市文化市民局 文化芸術都市推進室 文化財保護課 文化財保護技師の熊井亮介さんに、蛇塚古墳について教えていただきました。
本日は取材を受けていただき有難うございます。早速ですが、高校生の時に見た印象だと、蛇塚古墳はこじんまりしたイメージがありました。本当は全長75mあったということで、これは当時の感覚でも大きい古墳ということになるのでしょうか?
熊井「古墳時代は前期・中期・後期とそれぞれ100年ぐらいのスパンで区分されます。蛇塚古墳が作られたのは後期の終わりなんですが、その時期では比較的規模の大きなものです。今から1500年くらい前の古墳時代中期(約5世紀)に古墳は一番大きくなりまして、その時期に作られたのが仁徳天皇陵などです」
とても有名な大阪の古墳ですね!
熊井「仁徳天皇陵がだいたい520mくらいなので、それに比べると小さいんですけど、ただそれ以降、だんだん古墳自体の規模が小さくなってきますので、この時期にしたら比較的大きな規模になるのかなという印象です」
なるほど!さらに古墳について調べていたら、大正時代ぐらいまでは墳丘が残っていたけど宅地化されてしまったとあったんですが、何でそんなことになってしまったのでしょうか。
熊井「都市計画図や昔の航空写真を見ると、宅地化が始まる前までは周りに木が生えていて森のような状況だったらしいんです。それが、次第に周りに畑ができ始めたようなんですよね。実は古墳の土って粘質性が強くて畑に使いやすい土なんです。石自体は大きいのでおそらく動かせなかったのかと。ちなみに一番大きいのは30トン近くあると言われてるんですよね。それで上の土盛りから土を取っていって、畑の土にして、今のように石室が出てきた。その後まわりの畑の部分が売られて宅地になっていったんじゃないかなと思います」
ものすごく納得がいきました!畑をしていたなら、適した土が近くにあったら使いたくなりますね。住宅地図を見ると墳丘の輪郭がよくわかりますね。
熊井「桂川を渡った乙訓、今の西京区の方ではタケノコ栽培に古墳の土が良かったらしいんです。古墳の土を削ってタケノコ栽培に使うと、結果的にタケノコ林の中で古墳時代の古墳に副装されてた土器や金属製品が拾えるような状況になってしまっていました。多分、これもそういうような流れで削られていってしまったのかなとは思っています」
そんな古墳の一面を全く知らなかったので、すごく興味が出ました!ちなみに蛇塚古墳の石室内には蛇が生息していたんですよね?なんとなく怖~いイメージがありますが、どういう状況だったんでしょうか。
熊井「蛇塚という名称自体は全国各地にあるんです。石室の中って比較的暖かいんですよね。外に比べたら冬でも爬虫類とかが住みつきやすいという側面があります。今でも石室が残っている古墳とか見に行くと、石材と石材の間の隙間の部分に蛇が巣を作っていて出てくるってことがままあるんですよ。
確かに暖かそう!立派な家みたいなものですもんね。
熊井「現状、残ってる石室でもけっこう天井部分に蛇が這ってたりすることもあるんですよ」
え~!じゃあ古墳あるあるなんですね。私は蛇塚古墳を高校時代に見に行きまして、埋葬されているのはやっぱり秦氏なんだろうな~というふうに思ってたんですけども。今の研究では誰だとされているというのはあるんでしょうか。
熊井「かなり難しい話ですね。考古学の分野の人間が、古墳に埋葬されている人を誰か考えるためには『墓誌(ぼし)などの個人を特定できる文字資料』が必要なんです。
例えば太安万侶(おおのやすまろ)の墓とかであると、ここに太安万侶が葬られていますよ、どんな功績があった人ですよということが書かれた金属製の板が入っているんです。そういったものがあれば、この古墳に葬られたのはこの人だというのがわかるんですけども、日本の場合、墓誌などを副葬する習慣はほとんどなく、埋葬された人物を特定できるような物が見つかることもほとんどないんです。なのでかなり断定が難しく、考古学的には現状不可能に近いです。
特に蛇塚古墳は昔から周りが開発されて削られていって、石室も古くから開いてたという話なので、副葬品もほとんど見つかってないんですよ。今は石室だけ残っているだけなので、そういった誰かを特定することが非常に難しいです」
本当ですね、ヒントがなさすぎます……
熊井「ただ、この古墳が作られているのが7世紀の第1四半期ぐらいですね。『日本書紀』によると、推古天皇11年(603)に、秦河勝が蜂岡寺を作っていたという記述があります。この地域には「太秦(うずまさ)」という名前がついてるんですけども、この「太」には、氏族の中の一番偉い人という意味があるんです。秦氏の首長が住んでいたので太秦という名称がついたのではないかということが地名から言われてまして、秦氏との関係が語られています。文献から見る河勝の生存時期と古墳の時期といったものから結びつけられて被葬者は河勝という風に考える方が比較的多いという状況ですね」
考古学的な根拠があるわけではないけど、そう考えられているということですね。蛇塚古墳は見学可能で、地域の保存会の方に鍵をお借りして入るというふうに聞いているのですが、管理や保全などどのようにされているのかお聞きしたいです。
熊井「週2、3回の史跡パトロールと草刈りは(公財)京都市埋蔵文化研究所に委託しています。あとは文化財保護課に古墳の見学がしたいという方がおられましたら、地元の保存会の方にご連絡させてもらいまして、そこで入口の鍵の貸し借りとかをお願いしているという状況ですね。清掃などもしてくださっています」
なるほど。 京都の人がお地蔵さんを大事にしているような感じで、近くにあって、昔から伝えられているものを大事にされて見守っておられるという感じでしょうか。
熊井「そうですね」
わたしは蛇塚古墳の中に入れるとは今まで知らなかったんです。調べていたら蛇塚古墳のホームページや申し込みフォームがあって、こんな便利なものがあるんだと思って驚きました!
蛇塚古墳のページ https://www.city.kyoto.lg.jp/bunshi/page/0000307257.html
熊井「今までは電話対応のみだったんですけど、最近ホームページで申し込んでいただけるようになったんです。団体で来られる方も含めてですが、年間約1200人の方が見学に来てくださっています」
1200人!!結構な件数ですね、これは保存会の方も大変ですね。
熊井「実は蛇塚って全国的に著名な古墳なんです。そういったこともあって、京都に来られる方でちょっと蛇塚も見ていこうかという方が結構おられます。古墳好きの方の隠れスポットかもしれませんね」
色んな方が注目してくださっていて嬉しいですね。蛇塚古墳を見学する時にここは見ておくといいよという場所はありますでしょうか。
熊井「1番は古墳のスケール、大きさです!日本全国の古墳は全時期を通して16万基ぐらいあると言われているんです。その中で前方後円墳は、だいたい4700基ぐらい。全地域で16万人の中の、さらにトップの4700人くらいが前方後円墳を作っています。あくまでもピラミッド型の階層の上位の人間だけが古墳を作れるということになるんですね。そして、蛇塚古墳の玄室の床面積は全国で第4位なんです。
全国で第4位!すごいですね。
熊井「もちろん、今まで見つかっているものの中ということではあるんですが。床面積でいくと若干、奈良の石舞台古墳の方がちょっと大きいかなというくらいです。でも規模としてはほぼ肉薄しています。そう考えるとかなり有力者のお墓だということがわかっていただけると思います。実際に行ってみたら30トンくらいの石が積まれているので、そのスケール感が一番見どころですね。ぜひその大きさを体感してください!」
蛇塚古墳を見学してみた
2024年11月、わたしはホームページから予約して、蛇塚古墳にむかいました。JR太秦駅や京福電鉄の撮影所前駅をこえてどんどん南に歩いていきます。あたりは民家ばかり、こんな場所に古墳があるのでしょうか?
あっ!民家の奥になにか小さな山が見えます!!
えっ!?住宅地の真ん中がぽっかり空いて、そこに古墳がある??
戸惑いながらも、申し込み時に教えてもらった方法で保存会さんに鍵を開けてもらいました。
ひ~!!石がでかい!!!
ここが入口なんですが、この下に入って大丈夫なのでしょうか……
背を屈めながら、こわごわ石の下をくぐります。
おお~!石室だ!!
すごい!
巨石に囲まれているというドキドキ感と神秘性に胸をうたれます。これが、太秦の住宅街にあっていいの??「遺跡」という感じの壮大さです。実際に入ってみるとかなり興奮します。
この大きさを感じていただくために動画もご覧ください。
蛇塚古墳の内部①
蛇塚古墳の内部②
蛇塚古墳の内側は、不思議と落ち着き、神聖さを感じる場所でした。本来は、まわりに墳丘があって70mを超える大きさだったというのが偲ばれます。これは是非、蛇年である2025年に皆様に体感していただきたいです。ちなみに私が見学した際は蛇はいませんでしたのでご安心ください。
京都と古墳
京都と古墳の関係について、文化財保護技師 熊井亮介さんに教えていただいた内容をまとめました。
京都ならではの古墳の悲劇
京都市内には現在、約800基以上の古墳があります。古墳の分布は西高東低という形で表現され、京都盆地の西側に多くなっています。特に嵯峨野や乙訓は古墳時代の中心地で、800基のうちの半数以上がその場所にあります。
京都市ではかつて平安京が遷都され、乙訓では長岡京も作られています。それ以外にも伏見城や、鳥羽離宮、六勝寺など平安京あるいは中世京都を中心として寺院や邸宅や別荘地がたくさん作られました。建物を作るときは凸凹をなくすために、土を削ったり盛ったりします。つまり開発工事によって古墳が削られてしまうことが多いんです。そのため、平安京があった範囲の下で見つかっている古墳は10基にも満たず、京都市内の古墳時代の様相は掴みづらくなっています。
たとえば、昭和30年代まで岡崎にあった「鵺塚(ぬえづか)」は、実は古墳時代の古墳だったというのが岡崎グラウンドの調査でわかっています。また六波羅蜜寺の本堂の前にある「阿古屋塚」は古墳時代の石棺の部材を転用したものです。
おすすめの古墳
「天塚(あまつか)古墳」は蛇塚より1世紀くらい前のお墓です。事前申し込みは必要ですが、石室の中を見ることができ、古墳の墳丘自体も残っています。かつて近くにあった清水山古墳は削られてしまいました。天塚古墳はとても貴重な古墳で、国の史跡です。また蛇塚古墳に行かれた方は、石の積み方や規模が非常に近い、奈良の「石舞台古墳」に行って見比べてみるのもオススメです。
京都考古資料館で勉強したり、資料館で配布されている「京都歴史散策マップ」を見てお気に入りの古墳を探すのも楽しそうですよ。
京都考古資料館ホームページ https://www.kyoto-arc.or.jp/museum
京都歴史散策マップ 太秦 双ヶ岡https://www.city.kyoto.lg.jp/bunshi/cmsfiles/contents/0000120/120267/03.pdf
古墳と陵(みささぎ)の関係
京都では「○○陵」などの「陵(みささぎ)」がたくさんありますが、これは古墳とは違うものでしょうか?陵は狭い意味で言うと、天皇や皇后、皇族のお墓のことなので、一般的な古墳に関しては陵という表現を使わないことが多いんです。
古墳時代はだいたい350年ぐらいあります。3世紀後半から7世紀初頭ぐらいまでに作られたものが古墳というふうに呼ばれ、それ以降に作られているものに関しては基本的には古墳ではないという認識です。古墳時代の研究者の中でもいろんな考え方があり、例えば天皇陵は、8世紀くらいまで八角墳という八角形の古墳を作り続けるんです。これを果たして古墳と呼ぶのかどうかという議論もあります。
基本的には、古墳時代が終わっても天皇のお墓を作るときはそれを○○陵とか氏名をつけて呼びますが、「古墳」というと大王や皇族だけではなく、いろんな有力者のものだったりします。なので、古墳時代の皇族の方のお墓であれば、陵であって古墳であるということも起こり得ます。
参考文献
都市史解説シート01 秦氏https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/nenpyou/htmlsheet/toshi01.html