下京区の梅小路公園には元京都市電の電車が8両展示されています。今回は大宮通りから入って。順に1両ずつお話していきましょう。
市電の総合案内所
東の大宮通りの入口から入ったところに置かれているのは900型935号車です。大宮総合案内所として活用されています。昭和32(1957)年製で900型35両の最終車です。800型とよく似ていますが窓が1つ分多いのでその分車長も長く、定員86名は京都市電の中でも大型に属します。当初から蛍光灯が採用され、前面の方向幕も大きくなりました。
900型のうちでも916~931の16両はワンマン改造されて1900型になりました。これらの大半は市電全廃まで走り、その後、広島電鉄に15両が譲渡されました。一方この935号はワンマン化されることなく昭49(1974)年までツーマンカーとして運行され、その後、保存されていた車両です。
市電のカフェ
市電ひろばでカフェとして活用されている500型505号車は大正13年に製造された初めてのボギー電車(2軸の台車が前後に付けられているのをボギー車という)です。定員は80名と当時としては大型車でした。したがってブレーキはそれまで手でハンドルを回して止める手ブレーキから圧縮空気でシリンダーを動かす空気ブレーキになりました。半鋼車といって外板は鉄ですが、内装は木という電車で、前面の窓の下にヘッドライトが付いているのがかわいいです。。
昭和45(1970)年、伏見線が廃線になったとき時にこの500型も廃車になったのですが、この1両だけ車庫で保存されていました。
市電のショップ
昭和33(1958)年に登場した市電初の軽量電車です。スマートなイメージを出すために現役の頃は車体上部が薄い緑色でした。(現在は他車と同じベージュになっている)少しでも軽くするために車体が従来車よりも26cm低いのですが、定員は86名でたくさん乗れました、烏丸線等乗客が多い路線で運用されることが多かったと記憶しています。。
他の型式にはない4枚折戸の出入口扉が特徴で、開口部が広いので乗降もスムーズになりました。そうすることで他車のような引き戸と違って戸袋が不要になり、その分台車を前に出すことができ、乗り心地が大幅に改善されました。一方、軽量車体のためにワンマンカーに改造できなかったので、烏丸線を廃止にした昭和49(1974)年に全車が廃車になり、この703号だけが保存されていました。
市電の休憩所
市電開業時から増備が繰り返されていた1型を置き換えるために昭和12(1937)年から600型が製造されました。この電車は前面がやや傾斜していてヘッドライトもおでこの上に埋め込まれ、、雨どいが四隅に流れるように付けてあるあるなど、当時としてはモダンなデザインでした。この1600型は先述の600型を昭和41(1966)年以降ワンマンカーに改造された車両です。そのワンマン化の時により明るく前方を照らそうとヘッドライトが左右2個になりました。前面に「ワンマンカー」の表記やバックミラーも取り付けられました。また窓の下に朱色の帯(前面は2本)が入っているのがワンマンカーのしるしです。
この電車は台車が内側に寄っているためにオーバーハング(台車から車端までの距離)が長く、よく揺れました。晩年、線路の保守が行き届かい箇所では左右の揺れが大きく、脱線するのではないかと思うときもありました。また他のワンマンカーよりも小ぶりだったのと、前扉から乗って、後ろ扉から降りるしくみのために車内を通り抜けなければならず、混雑時は大変でした。小ぶりなので比較的乗客の少ない今出川線や丸太町線で運行されていたことが多かったです。
昭和31(1956)年製で、800型90両の最終車。他の800型とは違って最後の10両(881~890)は前面の窓の真ん中(運転手が立つ位置)が900型同様、大きかったのが特徴です。当初から蛍光灯が採用され、台車も新型式を導入して乗り心地もよかった電車でした。
800型は大半がワンマン改造されて1800型になりましたがが、この最終グループは全く改造されず、最後まで車掌さんが乗っているツーマンカーとして活躍し、地味な存在でした。この最終グループは新製から廃車までがわずか17年だったことが残念です。
今も走りつづける市電
明治43(1910)~44年頃に製造された市電の前身である京都電気鉄道(京電)からの車両です。狭軌(レールの幅が1067mm)の小さな2軸の電車で定員は43名でした。ブレーキは右手でハンドルを回す手動ブレーキでした。大正7(1908)年に京電は市電に買収されましたが、その後も北野線だけは狭軌で残り、この電車も北野線で昭和36(1961)年まで走っていました。廃線後は一時期、旧北野車庫前(後のエンゼルハウス)で展示の型で保存されていました。
平成6年(1994)に平安遷都1200年を記念してオープンデッキ、1本ポールという当初の姿で「動態保存車」として復元され、写真のように山陰線高架の西側から公園の西端までの区間を走っていました。その後、京都鉄道博物館建設に伴い、その走路を奪われて一時期、運転を取りやめてました。その間にリチウムイオン電池によるバッテリーカーに改造され、平成26(2014)年に現在の公園東側の線路で運転を再開しました。架線からポール(長い棒)での集電でなくなったので、昔の姿ではないのが残念ですが、明治生まれの電車が走っているのはやはりスゴイことです。
保存される市電
京都市電として明治45(1912)年に製造された車両です。市電の線路幅は1435mmでしたので、先の狭軌1型より一回り大きく、全長8.7m 幅2.3m、定員は48名でした。前面は窓がないオープンデッキ(後にガラスがはめられる)の2軸電車で、ブレーキは手動のみでした。合計171両製造され、戦中、戦後の車両不足もあって中には電気部品を取り外し、先の600型に連結されて「親子電車」の「子」となった車両もありました。もっとも頑張った電車は昭和25(1950)年まで走り続けました。したがって廃車になってから約4分の3世紀保管され、ようやく市民の前に現れたのです。出入り台の上には京都市交通局章をあしらった金具も取り付けてあります。
なお市電展示室は土日祝に公開され、この明治の車両をまじかに見ることができます。
市電を楽しもう
昭和39(1964)年に登場した京都市電の最終新造車です。当初からワンマンカー仕様で、同時にラッシュ時間は2両連結で走るように作られました。そこで連結車とわかるように、当初は車体の下半分がブルーに塗られていました。現在、中扉付近に塗膜が剥げているところがあり、そこから、昔のブルー塗装を垣間見ることができます。ほじくらずに見るだけにしておいてくださいね。
6両製造されましたが、いろいろな機器が載っているために保守に手間取り、市電全廃の前年の昭和52(1977)年に廃車になりました。2002~2006の5両が松山の伊予鉄道市内線に譲渡され、今もオレンジ色の塗装で元気に走っています。多機能の電車で窓の桟も細くてスマートだったのですが、製造から13年で廃車になったのは本当に残念でした。
これらの車両は各車庫の隅で保管されていて、一時期、旧烏丸車庫の跡に建てられた地下鉄整備場の片隅に全車並べられていました。ここで市電保存館が出来るのかと期待していたのですが、ショッピングセンター建設に伴い追われることになり、その後長らく七条通南側の国鉄山陰連絡線の高架下にビニルシートで包まれて保管されていたのです。それがまず27号車が取り出されて復元され、その後、残りの車両も「日の目を見る」ようになったのです。私個人としては、これだけの市電車両が残されていたのですから、全車両が収容できる保存館を建設して展示保存してほしかったのですが、残っているだけでもありがたいのかもしれません。もっとも935号や2001号のように屋根がないところでの保存は車体の腐食が早いので、心配です。梅小路公園で市電ウオッチングを楽しんでください。