
北陸新幹線の敦賀~新大阪までの建設をどうするのかがずっと議論になっています。その是非をここで論じることはしませんが、京都を愛するこのKLKの愛読者の皆さまの思いは同じでしょう。その中で建設残土のことも大きな問題になっています。そこで、京都に関する過去の鉄道工事でのトンネルの掘削残土をどうしたのか、私の知る範囲でお話しましょう。
東海道本線東山トンネル(国鉄→JR)
東海道線で大津に向かうのは、明治13(1880)年の開業時は稲荷~勧修寺(最初の山科駅)~大谷~旧逢坂山トンネル~馬場(現膳所)のルートだったことはこのKLKでもお話しましたが、勾配をさらに緩やかにするために大正10(1921)年に今の東山トンネルが掘られます。
その40年間の間にトンネルを掘る技術も進んだのですが、複線トンネルは断面が大きくなる(掘削残土が増える)のでまだまだ難しかったのです。そこで上り線と下り線の単線トンネルを2本掘りました。京都側の今熊野(大谷高校付近)は掘割になっていますからそこからも残土が発生しました。一部は京都駅の造成に使われましたが、大半はあの山科の大築堤の造成に使われたのです。電車に乗っていればあまり意識しませんが、東山トンネルを抜けてから山科駅の手前までは大築堤の上を走っています。そこには大津に抜ける新逢坂山トンネルの残土も使われ、高さ12mの大きな築堤が出来たのです。築堤の断面は台形になりますから、底辺は相当な幅を要しますが、土地があった昔はそれが可能でした。
そしてトンネルの前後に築堤を作るというのは、その掘削残土の処理からも鉄道(道路)建設の基本でした。ちなみにこの大築堤建設のため、京津電車の線路は御陵を出てから北寄りに移設しています。山科駅の手前で、今もSカーブでJRをくぐっているのはそのためです。

阪急(新京阪)西院~大宮間 地下化
昭和6(1931)年に関西初の地下鉄として、オープンカット工法で建設されます。道路を掘ってコンクリートのトンネルを作り、埋め戻す工法です。したがって掘り出した土の相当量はまた埋戻しに使いますから一時的な土の保管場所が必要になります。それでも最終的にはトンネル部分の残土が発生します。ここでは現在の西京極駅の北側付近の住宅地の造成に使われたようです。
昭和38年完成の大宮~河原町間の延伸の時も同じことがいえます。こちらは烏丸~河原町間の地下道の分もありますから残土はその分多かったでしょう。ちなみにこの時、四条通り周辺で民家の井戸が枯れてしまったことがありましたが、今回は地下水の話はやめておきましょう。

地下鉄烏丸線
昭和56(1981)年に京都駅~北大路が最初に開通しますが、烏丸通から当然、掘削残土が発生します。当時、京都市は主に伏見区の水垂地区と向島地区の造成のためにその残土を運んで活用しました。とりわけ向島地区には流通センターを作る予定でしたがその計画がとん挫したこともあって、次第に残土の行き場がなくなっていきました。途中から処理業者に任せたようですが、一部の悪徳処理業者が比叡平に不法投棄するという事件がおき、問題になりました。当時の広報誌には烏丸線全体で掘り出した土の量は約150万㎥に及び、仮に御所の敷地に平らに敷きつめると(実際にはありえませんが)約1.6mの高さになると記されています。
後に竹田まで、あるいは北山を経て国際会館まで延伸したときも残土は発生しています。
地下鉄東西線
平成9(1997)年にまず二条~醍醐間が開通します。特に市役所前にはゼスト御池や地下駐車場も同時に建設されたため、「市役所前工区」は断トツの27万㎥の掘削土が出ました。この東西線工事の残土はやはり水垂地区に運ばれるとともに桂坂の造成や洛南道路の建設にも使われました。その中で梅小路公園の造成に使われたのは特筆しておきます。あの位置はもともと大きな貨物駅でしたが、それが廃止になり都市公園にするために国鉄清算事業団から京都市が買った土地でした。ちょうど東西線の建設時期と重なり、その残土を使って公園を整備したのです。よく東西線の建設費が高くついたといわれますが、一番建設現場に近いあの梅小路公園の場所がなかったら、より遠方までダンプカーで掘削残土を運ばねばならず、もっと費用がかかったと思います。ちなみに御池通のけやきの木も、工事中、一部が梅小路公園に移植されました。工期がのびてしまい、戻せないくらい大きく成長してしまったというお話は以前にしたとおりです。
また平成16年に醍醐~六地蔵間延伸で発生した残土は、近くの京阪六地蔵駅南側の造成地のために使われました。こちらは近いので大変ラッキーでした。

これらの土は地下鉄東西線の掘削残土だと思われる。奥の森は最初に運び込まれた残土と木々。
JR嵯峨野線 嵯峨~馬堀間の新線工事
国鉄時代に着手した工事はあの区間を複線トンネルで直線状にぶち抜くという当時としては驚くべきものでした。当然相当な量の残土が発生しました。ご承知のように保津峡駅付近にはダンプカーなど大型車両が近づけませんね。そこで山の上から特殊なロープウエイを建設して資材を搬入し、残土を搬出したのです。また一番嵯峨嵐山に近い小倉山トンネルは野々宮神社があるなど閑静なところですから、そこからトンネル工事は出来ません。そこで山の上から立て坑を掘って、そこから左右に掘り進んだのです。その残土は下からでは見えませんが、山間に積まれて処理されました。もちろん手続を踏んでのことでしょうが、完成後は当時のJRの社員さんが植林活動にも取り組みました。

このほか京都だけでも新幹線の東山トンネルを掘った時の残土はどうしたのだろうとか、京阪電車の七条~三条~出町柳の地下工事の時はどうしたのだろうと疑問がわいてきます。仮に北陸新幹線が小浜から京都のルートで建設されたら、残土は上記の比ではないことはお察しの通りです。
〈参考文献〉
京都市高速鉄道烏丸線建設史
京都市高速鉄道東西線建設史
建設経済新聞