「今年は晴れるかなぁ。」
小さい頃、七夕の笹を家の前に飾りながらいつもそう思ったもんでした。笹にいろんな飾りを付けたり、家族でおそうめんを食べたり、そんなことだけで楽しかった、子ども時代の七夕の懐かしい思い出です。
七夕は、もともと中国の乞巧奠(きっこうてん)というお祭が日本に入ってきて行われるようになった行事です(注1)。糸や針のお供え物をして裁縫の上達を願った行事ですが、日本ではまず宮廷の行事として始まり、江戸時代には五節句の1つにもなりました。
日本人やったら、「年に一回、7月7日の夜だけ織姫と彦星が逢う」という伝説はまずご存じですね。そしてさらに「2人が鵲(かささぎ)の羽を並べた橋を渡って会いに行く」というところまで知ったはる方はなかなかなものです。これは、紀元前2世紀にはすでに中国の書物「淮南子」にあって、つまり2000年以上の長きにわたり伝わる歴史あるお話なんですよ。
さて、この七夕の日は雨やったら川があふれて2人は会えへんのでしたね。そやけど夜に天気で、お星さまが見えるとかそんなにないのと違いますか。罰とはいうても年に1回くらい会わせてあげたいです。
なんで七夕はこんな時期にあるのでしょう?まぁこれはおわかりの方も多いかと思いますが、もともとは七夕が今の8月ごろにあったものが、新暦の7月7日に移動したからです。旧暦の7月7日は今の8月のどこかにあるので、本来はよう晴れてる日のはずなんです。現在、地域によっては今も8月に行うこともありますが、さて京都ではどうなんでしょうか?
京都人度チェック① 七夕の時期
チェックとしてはこのようにお尋ねしましょう。
①京都の七夕は7月8月のどちらで行いますか?
この答えはまず、新暦と旧暦、2種類の七夕ができた明治時代のお話を先にしてからご説明したほうがよさそうです。
それまでの月の運行をもとにした太陰暦(旧暦)から太陽暦(新暦)になったのは、明治6年12月3日でした。今でも改元の時は年号の数え方とともにいろいろと変えることが多くて大変ですが、新暦になった時はもっと大変やった。12月3日が、次の年の1月1日になったんです。まぁこれは改元の時もわりとあることですね。しかし、そこから今までの間隔で月が替わっていくのではありません。つまり、毎月改元してるようなもんやったのです。これはつらい!いやぁ、明治の人はほんま苦労しやはったと思います。
新暦になったら、日にちが変わって季節もずれる。そのころは今よりもっと年中行事の重みが大きかったやろし、「今までの行事はいつすることにしたらええのか」と途方に暮れやはったはず。ようよう考えた結果、明治の人はそれぞれの行事を大体この3つに分けて決めることにしました(注2)。では、これを七夕にあてはめて考えてみましょか。
1つ目は、新暦の7月に引き継ぐ方法。
旧暦7月を新暦7月に移すということです。ということは、大体それまでやってた時期の1カ月ほど前になります。これが今の都市部で行われている新しい七夕。保育園・幼稚園や小学校では必ず「七夕は7月7日」と習うので、日付はなかなか変えづらいです。よって、この方法が1番合理的でわかりやすいですね。
2つ目は 日は7日のまま、旧暦7月をひと月遅れの新暦8月にする方法。
毎年8月7日で、時期的には本来行っていた日に近いものとなります。これが「月遅れの七夕」「旧暦の七夕」と言われているものです。月は遅れるけど日は変わらへんので覚えやすいですね。これは都市部より地方に多いと思われます。
3つ目は、7月7日が新暦のいつになるかを調べて、その日にする方法。
この方法は、間違いなく旧暦の時と同じ日に行うことができますが、毎年行事の日が変わるのでややこしいですね。「七夕はいつ?」っていう問いにすぐに答えられません。一般的な方法ではないですが、あとに出てくる冷泉家の乞巧奠は必ず旧暦の7月7日に行われるそうです。古式ゆかしい行事であればこそのこだわりですね。
さて、前置きが長かったですが、「京都の七夕は7月?8月?」
答えは…「どちらも」です!ずるかったですか?そやけどホンマなんですよ。
京都の人も他の地方の人とおんなじように頑張って考えました。重視するべきなのは「日にち」か「時期」か?そして3つの決め方の1つ目と2つ目を併用したのです。しかし新暦の7月7日にする方法は、ちょっと強制的な感じがするのは私だけでしょか?学校では「七夕は7月7日」て教えなあかんかったのでしょう。そして、全国一斉に「ささのは~さ~らさら~♪」て歌わなあかんのです。まぁ子どもには「ホンマは8月なんえ。」ていうてもわからへんし、悩ましいところやったと思います。
神社も今や7月に行うところが多いですねぇ。そやけど2つ目の方法をとって、8月にするところも無いことはないですよ。天神さん(北野天満宮)も8月に七夕祭やらはります。今宮さん(今宮神社)の摂社・織姫社のお祭(織姫社七夕祭)(注3)も、斎行は「8月7日ごろ」となってます。探したらきっとまだまだ見つかるでしょう。
そして、最近は京都府・京都市や神社や地元地域の団体が行う「京の七夕」も8月にあります。複数の会場でそれぞれ催しが長い期間にわたるので、8月7日だけ、ていうわけではありませんが、月遅れであることは間違いないですね。
ということで、京都の七夕は7月~8月の2か月にわたって行われていることになります。いや~夏中ずっと七夕ですよ~!もともと七夕はお盆の準備も兼ねていたので、お盆直前まで行うのが七夕らしくてええのです。それに8月まであったほうが織姫さんと彦星さん、ほんまの季節の晴れた空で会えますがな。
ついでに言うとくと、京都で旧暦で行う年中行事は他にもたくさんあります。祇園祭、お盆、そして大文字の送り火。祇園祭は旧暦6月でした。新暦の6月にしたら、ずっと梅雨の雨の中でやらんとあきません。どう考えても無理ですね。祇園祭を7月にしたら、新暦のお盆(7月)では祇園祭に重なるので季節の流れが乱れてしまいます。
お盆が8月になったら、お盆の締めくくりになる大文字だけ7月にするわけにもいかんし…あの8月の半ば、京都人は大文字を見ながら夏が過ぎていく寂しさを感じるのです。これから夏が始まる時に見ることになったら気色悪い。暦が変わったとき、新暦にできる行事は変えてみたけど、それではどうしても上手いこと行かんことが多すぎた。季節に合わせた年中行事は、季節の流れに逆らうと成り立たんようになるのです。
そやしほんまは、京都人は七夕も旧暦のまま8月にやりたかったんやないでしょうか。それは時世の流れが許さへんかったのかわかりませんが、古い体内時計を持っている京都人は、旧暦に合わせて生きるほうが楽なんかもしれません。
京都人度チェック② 七夕で何をする?
さて「七夕をいつするか」も大事ですが、京都人としては中身もさらに大切です。
ということでチェックです。
②京都人は七夕に何をしますか?
えらいシンプルなチェックです。「京都人は」て言われたら「え、京都人てそんな変わった事するのかいな。」て思われるかもしれませんねぇ。まぁ一般的なことから言うてみますと、当たり前な話、まず笹飾りはしますね。このイラストのように、笹には紙で作ったスイカやら短冊、提灯、吹き流しなどを吊るすことが多いです。ごく普通です。普通なんですが、これからのお話にも出てくるので、ちょっと記憶にとどめといてくださいね。
さてそしたらまず、昔の京都人はどんな七夕行事をしたか、今と比べながら見ていきましょ。
初めのほうのお話で平安時代についてご紹介したのが、中国から伝わった乞巧奠というお祭についてでしたね。平安時代の書物にはお供え物の中身が紹介されています。
「瓜にお茄子、桃や梨。それにアワビと干鯛、大豆にささげ、そして前には5色の糸を通した針が楸(ひさぎ)という木の葉に刺してある。お琴が置かれその横にはお香が焚いてある。台に置かれた9つの灯明が周りを照らし、織姫と彦星を見ながら歌を歌われた…(注4)。」
お供え物の野菜や果物は、夏の盛りから終わりに穫れる野菜や果物ですね。たしかに8月らしいもので、お盆のお供えにも似ています。楽器を弾いたり漢詩を詠まはったことでしょう。そのようすを図にあらわしたものも残っています。そこには盃も見えますね。宮中の方々もお酒が進んだのでしょうか。
今でも京都にやはる藤原定家のご子孫、冷泉家の方々は乞巧奠を千年以上営々と受け継いだはります。この平安時代の乞巧奠に限りなく近いお供えをされ、裁縫や楽器、和歌の上達を願ったお祭となっているようです。京都らしく、時がゆっくりと流れていく優雅な行事です。
さてところで、この平安時代の七夕のお供えを見て、今の笹飾りになっているものが供えられてるのに気が付かはりましたか?まず「瓜」、これは今で言う「スイカ」ですね!そして針に通された糸が吹き流しです。冷泉家のお祭には5色の布も飾らはるので、それも吹き流しに入るんでしょうか。こうして見ていくと、今ある笹飾りも1つ、2つと歴史や意味があるものになっていきます。
また平安時代には、7月7日に宮中の織物を制作していた織部司で織女祭が行われました(注6)。のちにその技術を受け継いだ大舎人町の人ら(注7)が織姫社を作ったといわれているのも納得がいくところですね。のちに織姫社は、白雲・村雲の地から西陣の守り神となった今宮神社の境内に移されます(注8)。織姫社のご祭神はなんと織姫に機織りを教えたという「栲幡千千姫命(たくはたちぢひめのみこと)」で、高い技術で機を織る大舎人町の人たちと織姫とは強いつながりがありました。このお話はまた別の視点から祇園祭の回にすることにしましょう。
江戸時代の七夕行事との共通点
さて、次はかなり時代が下っていきます。
この図は、江戸時代の七夕を描いたものです。子どもらが飾りのついた笹持って、わ~言うて走ってますね。大人が見たら「これこれ、笹持って走らんときよし(走ったらだめ)!」て言いたなる情景です。よそ見してるし、そのうちこけまっせ。
さて、この笹をよう見ると、提灯と梶の葉を挟んだ紙が吊るしてあります。提灯おっきいですね。これ重たいですわ。そうそう、今の折り紙の飾りにも提灯がありました。また1つ、今の飾りとの共通点が見つかりました。
梶の葉を挟んだ紙には、歌や願い事が描かれていて、どうやら短冊代わりに使わはったようですねぇ。短冊もぶら下がってるけど紙が高いし併用してるのか、短冊へ変わっていく過渡期やったのか?どちらにしても今の短冊は梶の葉の代わりというてもええのかもしれません。また、この梶の葉には「二星」て書いた短冊も下げられています。これの意味はもちろん織姫と彦星のこと。今の笹飾りでいうたらキラキラお星さまです。なお、この笹は飾り終わったら鴨川に流しに行ったようで、これは今では絶対にできませんね。
冷泉家の乞巧奠でも梶の葉を用いるお供え物があります。五色の布にはそれぞれに梶の葉が飾られ、お星さまを映して見るために水を張ったたらいの中にも梶の葉が浮かべられています。形は変わっても、民間にも風習として伝わり、そして今の七夕へも受け継がれてきたんやな、ていうことがわかりますね。
梶の葉は、今はお茶のお稽古や料亭でお料理の下にひ(敷)いてあるのを見るくらいですが、私もこの笹飾りをちょっとやってみたなったので、探してみることにしました。
そしたらあった!
京都文化博物館(注9)で見つけました!
が、残念ながら葉っぱはほんまもんとちゃいました。しかし昔の絵にあったみたいに、こよりで吊り下げられるようになってます。文字は、挟んでいる紙ではなく葉っぱ自体に書いている絵を見たことがあるので、内緒のお願いごとは葉の裏に書いてみましょかね。
「七夕さん」とは?
そしてさらに時代は下り、幕末から明治中期の飾り物のお話です。着物の形をした「紙衣(かみこ)」という飾り。紙で作ったミニチュア着物「七夕さん」です。この時代の京都では、女の子が紙を使って小さい着物を縫うて、裁縫上達を願い笹の葉に吊るしたんやそうです。まるで、着物を虫干しするかのように。そして、飾りが済んだら「着物が増える」ていうて箪笥に仕舞いました。私は梶の葉に字を書いたことはないけれど、この古い「七夕さん」は見た記憶があります。「いつから生きてたんや?」とか言わんといてくださいね。そやけどこれ、皆さんも見覚えがあるのとちゃいますか?折り紙で作った着物の笹飾りを、提灯やスイカと一緒に見やはったことあると思いますよ。笹がどんどん歴史で重うなっていきます。
ところで、先ほどの梶の葉も売ってたことやし、これもあるのとちゃうやろか?と思って探してみましたよ。するとはい、おんなじお店でありました!自分で着物を作る用の紙と完成品の両方がありましたが、ちょっと自信がないのと、「だいぶ」めんどくさいのとで、出来上がった方を買うてしまいました。ほんまは自分で紙を裁って、自分で針持って縫わなあかんのですよ。これではお針の上達もせんし、着物も増えませんわねぇ。
昔に作られた「七夕さん」は、かなり本格的な「着物」でした。振袖もあれば羽織もある。男物の着物までありました。そして衿元や袖口には豪華な飾り房が付けられていました。千代紙というには豪華すぎる模様が刷られ、一枚一枚しっかりとした着物に仕上げられていました。なんというても京都は、最高級の織物が織られている「西陣」がある町です。着物に関してはどこにもひけをとらん、というプライドが「七夕さん」から見えるような気がしたのでした。
着物の袖に付ける水引の飾りはお店で販売されてたのですが、実はうちの仕事は組紐と飾り結び。これは自分で作らなあかんと思い、飾りを付けてみましたよ。袖の房頭は菊結びと几帳結び、その下には古式に則った5色の房を付けてみました。きっと昔の「七夕さん」も女の子が自分で工夫を凝らして、自分だけのきれいな紙衣を作ったのでしょう。
オホホ、縫い上がった紙衣を買うた引け目がちょこっと収まりましたわ。
京都人が七夕にすることは…?
で、結局、「京都人は七夕に何をしますか?」というチェックには、なかなか答えにくいところですが、ちょっとずつまとめてみましょう。まずはここまで京都の七夕の歴史をたどりながら、どこでも行う笹飾との共通点を見てきました。現代の笹飾りであるスイカ・提灯・短冊・吹き流しにお星さまは、昔の京都のお供えや笹飾りの瓜・提灯・梶の葉・糸や布・「二星」が形を変えた物でした。
しかしそれだけでは「京都人は何をする」の答えになっていません。そこで京都特有と言えばということで、短冊代わりの梶の葉と豪華な「紙衣」の「七夕さん」を紹介しました。この「梶の葉」と「七夕さん」の形は、昔とは少し変わったけれど今も吊るすことができる笹飾りです。どちらも大変京都らしいもなので、笹飾りで京都らしさを味わいたい方は是非やっていただきたいです。
そしてもう1つ、昔から変わっていない、とても京都らしいものを見つけました。それはお供えのお菓子、「索餅(さくべい)」。「索餅」は、中国から伝わった唐菓子を原型としたお菓子で、七夕の夜に宮中で供えられました。生地は米粉メインのういろで、2本のひも状のものを撚り合わせた形にしたものです。
索餅が七夕に供えられるようになったのは、実はあんまり織姫とは関係ありません。簡単に言うと、「昔の中国の神話に出てくる王様の子どもが7月7日に亡くなり、鬼になって病気をまきちらすので、大好きやった索餅をお供えしたら病気が収まった(注10)」ていう話から来ているということでした。また、七夕には付き物のお素麺の祖とも言われていますが、私には全くの別物に見えますね。お素麺は食事、索餅は美味しいお菓子やないですか。「しんこ」て知ったはりますか?上新粉で作ったお菓子で、関東でいうたら「すあま」に似ています。索餅はこのしんこの親戚みたいなもの。ほんのりとした甘さで、もちもちとした口当たりがクセになるのです。
実は、平安時代からお供えされていたこの索餅が、今も西陣の京菓子屋(注11)さんで予約販売されています。これを食べることやったら今でもできますね!是非是非平安時代の七夕祭を思いながら、真の京都の七夕を経験していただきたいです!
結局食べる話かいな、て思った人、正解です。京都の行事は京菓子がつきもんなので、これでええのですわ。由緒ある笹飾りをつけたらお菓子を食べる。七夕の食べ物はお素麺だけとちゃいますよ。京都以外の京都通の方は索餅を「そんなこと知らん!」て言う京都人に教えてあげてくださいね!
(1)日本にもともとあった「棚機津女」と中国の行事が混ざり合ってできたという説もありますが、ここでは乞巧奠のみをもとにしてお話しています。
(2)青木博彦「大文字古記録の研究」p.122参照。
(3)祭神は栲幡千千姫命(たくはたちぢひめのみこと)。織姫に機織りを教えた神ですが、今はものづくり全般の上達を叶えるといいます。なおこの織姫社七夕祭は、崇敬者だけのお祭で一般公開されていません。
(4)「江家次第」平安時代の宮廷の儀式を記述したもの。
(5)平安時代後期に描かれた儀式書(古事類苑歳時部p.1231)
(6)「延喜式(平安時代の儀式書)」より
(7)応仁の乱後、西陣に住み着き大舎人座を作り、西陣織を作り出した人たちです。
(8)「今宮神社由緒略記」には織姫社の昔の所在地は記されていませんが、「白雲村・村雲村があり、そこで絹などが織られていたころから織物の祖神として祀られて」の記述があります。
(9)京都文化博物館内店舗「楽紙館」にて販売
(10)「古事類苑歳時部」の「公事根源」・「年中行事秘抄」などに収録
(11)西陣の塩芳軒さんでは7月7日ごろ~旧暦の七夕の時期、3日前までに予約をすれば購入できます(写真の索餅は予約注文品とは違います)。他店では揚げた索餅が販売されているところもあります。
*後半部の歴史に関する解説は「季節を祝う京の五節句」中の石沢誠司著「七夕」を参考にいたしました。