武士とは何か、どういう背景のもとに成立し発展したのかを説明していくシリーズ。全3回のうち、今回は桓武平氏を中心に語ります。
清和源氏に比べて先に始まり、関東地方を中心に根を張った桓武平氏。
どのようにして勢力を広げ、どのように生き抜こうとしたのでしょうか。
桓武平氏と清和源氏。
どちらも天皇の子孫です。
天皇家は皇位継承の安定化のためもあり、一夫多妻制を取っていました。
数多くの皇子が生まれ、そのうち一人、せいぜい兄弟のうち数人は皇位を継ぐこともありましたが、他は養われる身分、江戸時代の言葉を借りれば「部屋住み」の立場でした。
数が増え、養いきれなくなります。
「申し訳ないが、皇族の立場を離れて、一般人(臣民)として生計を立ててくれないか」という事で、皇族を出ていただく…体の良い追放が行われます。
臣籍降下(しんせきこうか)といいます。
皇族は姓がありません。
しかし、一般人として生きるためには名乗る必要があります。
これが、「平」であり「源」です。平城天皇の子孫たちが名乗った「在原」などもありますが、武士として勢力を広げたのは源氏と平氏でした。
桓武天皇から枝分かれして平氏を名乗り、臣籍降下した人たちが、桓武平氏。
同じく清和天皇から枝分かれして、源氏を名乗った人たちが、清和源氏。
他にも、嵯峨天皇から枝分かれした嵯峨源氏、村上天皇から枝分かれした村上源氏などもあります。
区別するために、ルーツとなった天皇の名を冠しているのです。
あるいは、「自分たちは皇族の末裔だ」という誇りも込められているでしょうか。
じっさい、血統が大変重視された平安時代には、この出自がものを言いました。
平高望という人物がいました。桓武天皇の孫(ひ孫説あり)で、臣籍降下した皇族です。
高望とその子供たちは都を離れて、関東・東北地方を中心に官位と土地を得て、領主となっていきました。
当時、高望が赴任した東国では反乱が起き、それを収めるためという狙いもありました。
しかし、武力行使だけで勢力を広げたわけではありません。
婚姻こそが最も有効だったという説があります。
『古代・中世では、就くべき仕事や能力など、人生の大方は誰の子かで決まる。(中略)
よそ者の京下りの王臣子孫Aは、現地有力者Bの娘と結婚すれば、姻族(姻戚関係で一族となった者)としてBの一族に取り込まれ、現地人待遇を得られる。
現地有力者Bは王臣子孫Aの義理の父として尊重される。まして娘が子を生めば、その子は生まれながらに貴姓の王臣子孫だ。このように、王臣子孫と現地有力者の通婚は、互いに自分にない素質を補い合う』
(桃崎有一郎「武士の起源を解きあかす ──混血する古代、創発される中世」 ちくま新書)
つまり、婿入りする側も、受け入れる側も得する相互受益、Win-Winの関係があったために、平高望の子孫たちは一挙に勢力を広げたというのです。
考えようによっては、婚姻によって体制側に取り込みつつ、平氏の勢力も広げられる。一挙両得です。
征夷戦争の後で最大の利益を得たのは、東日本で繁栄した桓武帝の子孫たちだったかもしれません。
東日本に種を撒くように根付いた桓武平氏。
彼らは皇族の血と、現地の有力者の血を受け継ぎながら、自分たちの土地を開発したり、領土争いによって奪い取ったりしながら力を蓄え、生き残るための軍事力を磨いていきました。
朝廷は、武士同士の領地争いを「私闘」、国家と無関係な争いとみなして、国が派遣した役人に危害が及ぶなどしない限り取り締まりませんでした。したがって、土地を守れるかどうかは自分の腕次第でした。
「一所懸命」という言葉を歴史の授業で習いましたね。
その子孫から、平将門や清盛などの高名な武士が生まれます。
のちのち、東日本が源氏、西日本は平氏というイメージが付きますが、それは後の話。
平氏の繁栄は関東から始まったのです。
なお、平清盛は伊勢国に移り住んだ一派で、正確には「伊勢平氏」といいます。
将門の乱を起こす平将門は、一族間の領地争いに巻き込まれ、なりゆきからとうとう国の役人である県知事(国司)を攻撃してしまい、反乱を起こしたと見なされてしまいます。
彼はいっそ自分の国を建てようとして「新皇」を名乗るわけですが、これはあくまで新しい天皇という意味です。
天皇制そのものを否定したわけではありません。
彼も、天皇の血を引いているからです。
将門は手紙の中で「私は桓武天皇五世の孫。世が世ならば…」と言い放っています。
万が一、彼の反乱が大成功し、関東から京の都まで攻め上ったとしても、彼は天皇になりこそすれ、天皇制を止めはしなかったでしょう。
しかしこのとき、京都の朝廷には征夷戦争時代の軍事力はありませんでした。農民を徴兵し正規軍を編成する制度は、桓武天皇の手で廃止されていました。
将門の乱に対して、朝廷は、別の武士を起用する、言い換えれば既存の軍事企業に討伐事業を下請けに出すことで、反乱を収めるのです。
このような朝廷では、領主同士の争いを裁定したとしても、それを本当に実効させる警察力が伴いません。
武士たちの領地争いを取り締まらなかったのは、ひとつには命令を貫徹する軍事と警察の力がなかったからです。
自分の身は自ら守るしかないので、武士たちの軍事力はますます先鋭化します。
しかし、ひとつ間違えば平将門のように朝敵にされてしまう恐れがありました。
武士たちは、なんとか領地を保証してくれる人はいないかと模索します。その受け皿になったのが藤原摂関家や平清盛などの中央の有力者と結びついて、口利きをしてもらうことでした。
それでも安心できなかった、たとえば平清盛と親しくなれず、領地保全に不安を感じた、家の相続で不利になった…、というような層が源頼朝の下に結集して、鎌倉幕府創立の原動力になります。
将門の約250年後、平氏が日本の権力を掌握した時代に、清和源氏の血を引く源頼朝が反乱を起こしました。
頼朝の挙兵は成功し、関東地方を支配する独立勢力となりましたが、彼は「あくまで平氏と敵対しているのであって、朝廷には従う」という姿勢を崩しませんでした。
朝廷も、これを否定しませんでした。
ひとつには、彼もまた天皇の血を引く人間であり、その貴種性を拠り所にしていたからです。
第2回目はここまでとし、次回は、平氏のあとを受け、ついに武家政権を開く清和源氏について説明していきたいと思います。