「承久の変」って「承久の乱」の間違いじゃないの?そう思われた方は、きっと平成以降のお生まれなんだと思います。私のような昭和世代は「承久の変」と習った記憶があります。「乱」と「変」では、何が違うのか?「乱」は「反乱」のことで、支配者への反逆的な意味をもちます。対して「変」は広く事件全般を指します。後鳥羽上皇つまり「この国のトップが起こした戦いなのに、反乱を意味する“乱”はおかしい」というのが「承久の変」派の論理です。承久の変と承久の乱。その呼び名は、時代によって主流となる学説に従い変わってきました。承久の「乱」が主流となった現在でも「承久の乱(または承久の変)」と書かれることも多いようです。そこで、昭和ど真ん中の私としては、「承久の変」で本稿を進めてまいりますことをご了承ください。
承久の変とは
鎌倉時代初期の1221(承久3)年に起きた、朝廷と幕府との戦いを承久の変といいます。朝廷は後鳥羽上皇、幕府は執権・北条義時をトップとして戦いました。後鳥羽上皇は「日本という国は、天皇を中心に成り立っている。当然、政治も天皇を中心とした朝廷が行うべき」という考えを持っていました。上皇からすれば「鎌倉幕府なんて、武士どもが東国を不法占拠し実効支配しているだけの違法な存在」と写っていたのでしょう。だから、幕府から政権をとり戻すことを目的として起こしたのが承久の変というわけです。
たしかに平安時代までは、朝廷が日本の政治を仕切っていました。とはいっても、実権を握っていたのは関白である藤原氏など天皇家以外の人が多かったのですが、それでも朝廷が主体となっていたのは間違いありません。ところが源頼朝によって鎌倉幕府が開かれると、その実権も幕府に奪われます。そもそも、当時の天皇家や公家衆にとっての武士とは、自分たちよりも一段どころか二段も三段も下の野蛮な存在だと見なしていました。そんな武士たちに未開地とはいえ国の半分を仕切られるのは許されないことだと考えていました。それでも頼朝というカリスマがいるうちは容認せざるを得なかったのですが、その頼朝が亡くなり(暗殺という説も)、さらに二代将軍・頼家、三代・実朝も暗殺の憂き目にあうと、これをチャンスとばかりに挙兵したのが後鳥羽上皇でした。
そもそも矛盾していた戦いの構図
ところが、後鳥羽上皇はいきなりある問題に直面します。あたり前のことなんですが、幕府を武力で倒すには後鳥羽上皇、つまり朝廷方にも武力が必要です。ところが、朝廷には軍らしきものはありませんでした。平安時代の中期以降、軍事や警察を司ってきたのは武士でした。朝廷は軍や警察を武士に外注していたのです。つまり、後鳥羽上皇が幕府を攻撃するには、武士を集めなければなりません。ところで、幕府とは何でしょうか?いろいろな定義がありますが、ひと言でいえば「武士による政権」となります。ということはですよ、「武士のための政権をつぶすために、武士の力を頼らなければならない」ということになります。めっちゃ矛盾してますよね。自分たちの地位や生活を保証してくれている幕府を倒すということは、武士にとっては自殺行為になります。そりゃ、なかには勤皇な武士もいたでしょうが、そんなのはごく一部にすぎません。だから、そもそもこの戦いは、初っぱなからものすごい矛盾を抱えていたわけです。
しかし、そこは後鳥羽上皇も策士でした。どんな組織でも不満分子というものがいます。この時の鎌倉幕府でいえば、北条氏の専制に不満をもっていた武士たちです。彼らにしてみれば「源頼朝の子孫が幕府のアタマを張るのはわかるが、なんで北条が勝手に仕切っているんだ。北条なんて、もともとは俺たちと同じ御家人にすぎないじゃないか」と。あ、御家人とは鎌倉幕府に仕える武士たちのことです。この不満分子たちに目をつけた後鳥羽上皇は「幕府を討て」とは言わずに「北条義時追討令」を出します。これは効果があり、ある程度の武士が集まり朝廷軍が結成されました。さあ、そうなると今度は幕府側の武士たちがあわて始めます。「た、たた、大変だ!恐れ多くも天皇の名のもとに集まった軍が、我われを攻めてくる!」と動揺するのです。武士とはいってもやはり天皇の権威は尊重していたんですね。その時、ひとりの女性が立ち上がりました。かの有名な尼将軍こと北条政子です。
本邦初の演説をした北条政子
源頼朝の妻であり北条義時の姉でもある北条政子は、御家人たちを前に次のような大演説を行います。
「みんな心をひとつにして、これが最期の言葉だと思って聴きなさい。頼朝公が幕府を創設して以来、官位や俸禄などその御恩は山よりも高く、海よりも深い。それでも朝廷側につきたいのであれば、今ここで申し出よ」
ざっくり要約するとこんな感じです。この言葉を前に、御家人たちは涙を流して打ち震え、朝廷と戦うことを決意したそうです。ちなみにこの時の政子の演説は、日本で最初の演説だともいわれています。さて、このとき政子が言った「頼朝公の御恩」とは何だったのか?ここをもう少し詳しく説明しないと、彼らが涙を流した理由がピンときません。教科書には何も書かれていないので、演説の重みが伝わらないのです。だから学校の歴史はつまんないのです
頼朝の御恩とはこうです。前述のとおり、平安時代の武士は卑しい身分とされ、貴族たちから軽蔑されていました。彼らは未開の土地を汗水たらして開墾したのに、身分が低いがゆえに土地を自分のものにすることができなかったのです。この時代に土地を自分名義のものにできたのは、貴族や有力寺社といった特権階級の人々だけでした。そんな武士たちの救世主として現れたのが源頼朝です。頼朝は源平合戦での勝利の勢いを駆って、後白河法皇や後鳥羽上皇と数度にわたる会談(&脅迫?)を経て、武士たちが土地を所有する権利を獲得します。ちなみに、歴史で習った「地頭」とは、土地の番人のことです。
ところで、みなさんは「イイクニ 作ろう鎌倉幕府」の語呂合わせで鎌倉幕府の始まりを1192年とならった世代でしょうか。残念ながら、この暗記では現在のテストで○をもらえません。最近の教科書には、「イイハコ作ろう」の1185年と載っているようです。では、この1185年に何があったのかというと、頼朝が地頭を任命する権利を獲得したのがこの年だったのです。このことをもって幕府の始まりというくらい、武士が自分の土地を所有するということは画期的なことだったわけです。だから「頼朝公の御恩は海より深い」のです。
さて、政子の演説に奮い立った御家人たちは、総勢なんと19万ともいわれています。関ヶ原の合戦でも、東西あわせて15~16万といわれていますから、それよりはるかに人口が少なかった鎌倉時代にあって、19万はさすがに盛りすぎだと思いますが、いずれにしても大軍が鎌倉から京都に向けて大挙したわけです。対する朝廷軍は1万。結果は火を見るより明らかで、幕府軍の圧勝に終わりました。
承久の変の結果、どうなった?
戦後の処理はすべて勝者である幕府によって決められました。まず後鳥羽上皇をはじめ3人の上皇が島流しとなります。さらに皇位継承に幕府が関与するなど、朝廷は幕府の管理下に置かれることになりました。このとき朝廷を監視するために京都に設置されたのが「六波羅探題」です。六波羅とは、五条通から七条通の鴨川東岸の一帯で、かつては隆盛を誇った平氏の邸宅が並んでいました。そのことから平清盛は「六波羅殿」とも呼ばれていたそうです。
教科書的にはこれらのことがトピックスとして取りあげられていますが、それよりも大きな意味をもつのが「幕府の支配が全国に及んだ」ことだと思います。実は、鎌倉時代の初期は、幕府といってもその領土は、東国が中心で、日本の中心であった近畿より西はまだまだ朝廷の勢力下にありました。それが、承久の変後は西国一帯までもが幕府の管轄となりました。これにて鎌倉幕府が全国政権となったわけです。政治の実権が関東に移ったのは江戸時代からと思われがちですが、この鎌倉時代も京都の政治的影響力が弱まった時期といえます。
京都がターゲットとなった唯一の戦い
承久の変には2つの特異性があると私は考えます。ひとつは「日本初の倒幕運動」であることです。倒幕というと、ほとんどの人が明治維新に至る江戸時代の幕末をイメージされますが、日本には、鎌倉・室町・江戸の3つの幕府があったからには、倒幕も3回あったことになります。鎌倉時代が実際に滅亡したのは承久の変のおよそ100年後でしたが、この時も後醍醐天皇が北条氏に不満を持つ武士たちを利用します。今度は幕府自体の力が衰えていたため、倒幕は成功しました。ただ、実際に戦った武士たちは「鎌倉」幕府を倒したかっただけで、幕府そのものは否定していませんでした。だから、天皇親政が復活した「建武の新政」は、わずか数年で破綻したわけです。次の室町幕府を倒したのは織田信長ですが、当時すでに幕府は有名無実化していたので倒幕なんて意識は誰も持っていなかったと思います。最後の江戸幕府は倒幕運動こそ盛んでありましたが、大政奉還という「天皇から委任されていた政権をお返しします」という論理のもと、血を流さずに政権交代が実現しました。戊辰戦争は、いわば幕府の悪あがきのようなもので、大勢に影響を及ぼすものではなかったと思います。こうしてみたとき、本格的に朝廷と幕府が戦ったのは、この承久の変が最初にして唯一ともいえるわけです。
もうひとつの特徴、それは「京都が狙われた唯一の戦争」であることです。応仁の乱をはじめ、京都は数々の戦乱に見舞われました。しかし、それは「戦場が京都であった」だけのことで、拠点としての京都を攻め落とすための戦争ではありませんでした。対して、承久の変では、朝廷の本拠である京都を攻め落とすべく鎌倉から大軍がやってきたわけです。戦闘自体は瀬田や宇治川での戦いで大勢が決したため、洛中での大きな戦いにまでは至りませんでしたが、「京都がターゲット」であったことはまぎれもない事実です。京都の歴史を眺めるうえで、重要な視点だと私は考えます。
異才の人、後鳥羽上皇
さて、後鳥羽上皇は無謀な戦いに臨んだ暗君だったのか?といえば、決してそうではないと思います。北条義時にターゲットを絞った戦略は悪くなかったと思います。天皇家、朝廷は長らく軍事から遠ざかっていて、ノウハウも経験もありませんでした。そんな状況にあっても自らの理念の下、挙兵した後鳥羽上皇の勇気はむしろ称賛に値するともいえます。北条政子の演説がなければ、動揺する幕府に対して天皇の御旗を立てた官軍である朝廷軍が膨らみ、あるいは…という可能性もあったかもしれません。勝てないまでも、なんらかの交渉の余地を残すことはできたと思います。
そんな無念を胸に抱きながら、京都から遠く離れた隠岐に流された後鳥羽上皇の心中はいかばかりだったのでしょうか。後鳥羽上皇は戦を仕掛けただけのことはあって、狩猟を好む異色の天皇だったそうですが、いっぽうで優れた和歌を詠む文人でもありました。日本の文学史に燦然と輝く『新古今和歌集』は、後鳥羽上皇の下命によって編まれたものです。最後に、配流先の隠岐島で京への望郷の念を詠まれた和歌を紹介して本稿の締めくくりといたします。
いたづらに 都へだつる 月日とや 尚秋風の 音ぞ身にしむ
〔訳〕
都を隔ててむなしく過ぎてゆく月日であるというのか、
変ることなく秋風の音が身にしみて感ぜられる。
もういちど読む 山川日本史/山川出版社
30の戦いからよむ日本史/小和田哲男
世界一おもしろい日本史の授業/伊藤賀一
新・井沢式 日本史集中講座「鎌倉幕府の崩壊」編/井沢元彦
日本史を疑え/本郷和人
いっきにわかる!日本史のミカタ/河合敦
人物相関図で読み解く日本史の真相/後藤寿一
歴史人「承久の乱とその後の鎌倉幕府」
歴史事象の呼称について-「承久の乱」「承久の変」を中心に- /安田元久