源氏物語ゆかりの鞍馬寺

鞍馬寺といえば牛若丸

京都には多くの寺社があり、私は幼い頃より強い親しみを感じてきました。その中でも特に小学生の頃にとても身近に感じていたのが鞍馬寺です。その頃、箏の稽古をしていたのですが、箏の先生が鞍馬寺にご縁のある方で、何度か鞍馬寺にて箏の奉納演奏をさせていただく機会がありました。鞍馬山の山道は清少納言が『枕草子』にて「近うて遠きもの」の例として鞍馬寺の九十九(つづら)折の山道と書いているほど大変な道ですが先生が着物姿で颯爽と鞍馬山の山道を歩かれ、時には大きな箏を持って運ばれていた姿は今も鮮明に覚えています。この頃、鞍馬寺に感じていた印象は、とても静かで落ち着いていて、そして何より、牛若丸が暮らし、剣の修行をした場所ですから、ロマンも感じていました。
私がなぜ、牛若丸を知っていたかというと、通園していた保育園が浄土宗のお寺で牛若丸と弁慶の絵本があったからです。また、法然上人の生涯を読み聞かせてもらっていたので、その中で登場する平家物語の人々の華やかで雅な姿に憧れていました。牛若丸は後に義経となり平家物語で活躍しますが、7歳で鞍馬寺に入山し16歳ごろまで過ごしたと言われています。京都、五条大橋を横笛を吹きながら歩く牛若丸に弁慶が荒々しく襲いかかると牛若丸はひらりと交わし欄干に飛び乗り、弁慶を打ち負かします。私の中で鞍馬山といえば今も義経ゆかりの地のイメージです。

芳年『月百姿 五条橋の月 (牛若丸)』秋山武右エ門 明治21

平安時代の人々も参詣

さて、源氏物語、第5帖「若紫」では紫の上の幼少時代、光源氏がまだ愛らしい少女である紫の上(若紫)を垣間見る場面が書かれています。2人の出会いの地は「北山のなにがし寺」と書かれており諸説あるようですが、鞍馬寺なのではと言われています。「若紫」のストーリーを簡単にご紹介しましょう。

病の加持祈祷のため、北山の寺を訪れた光源氏は、多くの僧房の中でも、目立って綺麗に小柴垣が廻らせられ庭の作りも凝った家を見つけ、そこで密かに思いを寄せている藤壺に似た少女を垣間見ます。この少女は藤壺の兄の娘で、祖母である北山の尼君のもとで育てられていましたがその後、尼君が亡くなり、身寄りをなくします。光源氏は少女を引き取り理想的な女性として育てます。物語の中で少女は聡明で美しく成長し、光源氏の妻となります。

源氏物語絵の「若紫」では、スズメが飛んでいく方を眺める少女、小柴垣から少女を眺める光源氏が描かれます。この場面を思いながら鞍馬山を参詣すると平安時代の王朝の世界を感じられます。

貝合わせ 若紫

紫式部も認めた赤染衞門とは

源氏物語は紫式部が創り出した物語ですが、実際に平安時代の鞍馬寺はすでに都の貴族たちが熱心に参詣するお寺でした。百人一首59番で知られる赤染衞門(あかぞめえもん)は

「ともすらむ 方だに見えず 鞍馬山 貴船の宮に 留まりしぬべし」
と、鞍馬山を歌に詠んでいる他、

『赤染衛門集』には
「二月にくらまにまうでしに、いはまの水のしろくわきかへりたるが雪のやうに見えしに」と誌しており、参詣の様子が伺えます。

さて、この赤染衞門について知ると百人一首が身近に感じられますので少しご紹介します。赤染衞門は平安時代中期の女流歌人で、藤原道長の妻の倫子に仕えていました。紫式部は倫子の娘の彰子に仕えていましたから職場の先輩とも言えます。日記の中で清少納言や、和泉式部には厳しい言葉を残している紫式部ですが、赤染衛門のことは褒めています。赤染衞門の夫は文章博士(帝の学問の教授)として活躍をした大江匡衡(まさひら)です。紫式部はこの夫婦の仲の良いことから赤染衞門を「匡衡衞門」と言っています。良妻賢母として知られている赤染衛門ですが、結婚当初は初恋の人で、夫の従兄弟である大江為基(ためもと)への想いがあり、結婚後も歌を贈りあう仲でしたので夫をハラハラさせていたようです。夫、匡衡は大柄でいかり肩、初恋の人、為基は痩せ型で眉が濃く、目が綺麗な男性だったそうです。為基と赤染衞門は正式に結婚はしませんでしたが、『赤染衛門集』には2人の46首の贈答歌が残っています。

百人一首

平安時代ならではの「妹背」

私は為基と赤染衞門のことを考える時「妹背(いもせ)」という言葉を思い出します。「妹背」とは「いもうとせうと」夫婦、兄妹を指す平安時代の言葉です。男女が事情があって結婚できなかったり、別れてしまった後、「義兄妹」として「妹背」の関係になることがあるそうです。今で言うところの「元カレ」「元旦那」のことですが、さすが恋多き平安時代の貴族、言い方に風情があると思います。為基と赤染衞門が周囲から「妹背」とまで思われていたかはわかりませんが、二人の贈答歌を読むと、胸に迫るような分かち難いものを感じます。赤染衞門の歌には百人一首に選ばれている歌もそうですが、恋文の代作(代わりに歌を作る)が多いのですが、彼女は当事者の立場や気持ちになって歌を詠むことに優れていました。それにはきっと自分自身の恋の経験も生かされていた事でしょう。
しかしながら、夫、大江匡衡も赤染衞門にとっては大変魅力的な人物でした。匡衡は7歳で論語を読み、9歳で詩を詠んだと言われる秀才であり博学、真面目で、人となりも大変優れていたようです。赤染衞門は次第に匡衡の良い妻として、さらには二人の子供の良き母となり、匡衡が地方官として尾張守になった際にはともに下り夫を支えました。長い時を経て夫婦の間には深い愛情が生まれてゆきます。 
百人一首では赤染衞門が59番、赤染衛門の実の父ではないか、とされる平兼盛は40番、その曽孫の大江匡房(まさふさ)は73番とまさに名門の一族です。また、交流があった紫式部は57番、清少納言は62番で、和泉式部は56番です。夫が亡くなった後は出家し、85歳を超えるまで生きました。鞍馬寺への参詣は出家後のことです。

阿吽の虎

鞍馬寺のご本尊は秘仏

鞍馬寺では本尊の毘沙門天が出現されたのが「寅の月」「寅の日」「寅の刻」であったことから本殿金堂の前に「阿吽の虎」の狛虎を見ることが出来ます。また愛らしい魔除けの阿吽の虎が毎年1月に授与されます。
また、ご本尊は秘仏で60年に一度しかご開帳されません。前回のご開帳は昭和61年の4月でした。実は私はこの時の4月13日のご開帳式で献饌を努めさせていただきました。ご開帳式は「虎の刻」真夜中の午前3時に行われたのですが、本殿の内陣に人がいっぱいおられたのを覚えています。装束を着て、飾りをつけて自分の姿を鏡で見た時、気持ちが高まって胸が一杯になったことは忘れられません。とても心に残る日で、このままずっと鞍馬寺で暮らしたいと思ったほどです。このような貴重な経験が出来たことは、京都人ならではのことで大変ありがたいことだと思います。

竹伐り会式

さて、6月の鞍馬寺といえば「竹伐り会式」です。平安時代、峯延上人(ぶえんしょうにん)が修行中に現れた大蛇を法力で倒したという伝説が起源となっており、僧兵姿をした鞍馬法師が,大蛇に見立てた青竹を伐ります。稚児が導師に挨拶をする「七度半の御使」のあと,双方の竹の条件を同じにする「竹ならし」が行われ、修法の後、勝負伐りが行われます。江戸中期頃から「近江座」と「丹波座」に分かれ,伐る速さを競い,その年の農作物の吉凶を占うようになりました。竹を山刀で叩き伐る姿は荒々しく大蛇を退治する様子を想起します。舞楽などもありますのでこの時期に京都にお越しの方には是非見に行っていただきたい伝統行事です。

参考文献
『鞍馬山小史』 鞍馬寺教務部/編鞍馬弘教総本山鞍馬寺出版部
『くらま』鞍馬弘教総本山鞍馬寺出版部/編刊第630~631号
『鞍馬寺の名宝』 鞍馬寺出版部
王朝の秀歌人 赤染衞門 上村悦子著 新典社
赤染衞門とその周辺 斉藤照子著 笹間書院
総本山 鞍馬寺
眠れないほど面白い『枕草子』岡本梨奈 三笠書房

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この記事を書いたライター

京都市中京区の呉服店の長女として生まれ、生粋の京都人である祖母や祖母の叔母の影響をうけながら育つ。通園していた保育園が浄土宗系のお寺であったことから幼少期に法然上人の生涯を絵本などで学び始め、平安時代後期の歴史、文化に強い関心を抱くようになる。その後、浄土宗系の女子中学高等学校へ進学。2003年に画家の佐藤潤と結婚。動植物の保護、日本文化の発信を共に行なってきた。和の伝統文化にも親しみ長唄の稽古を続けており、歌舞伎などの観劇、寺社への参拝、院政期の歴史考察などを趣味にしていたが、2017年、日向産の蛤の貝殻と出会い、貝合わせと貝覆いの魅力を伝える活動を始める。国産蛤の?殻の仕?れ、洗浄、蛤の?殻を使?した?芸品の企画販売、蛤の?殻の卸、?売、?合わせ(?覆い)遊びの普及を?なっている。

|とも藤 代表|貝合わせ/貝覆い/京文化