ターゲットを絞って勝機をつかめ!~有頂天天狗社長の七転び八起き~

3年にわたるコロナ禍で、京都の観光業は大変なダメージを受けました。ホテルや飲食店が次々と閉業する中、独自のWEB戦略により堅実に業績を上げる、個人経営の旅行会社があります。業界の危機を果敢に乗り切った旅行会社萬転/西河経営サポートの西河社長は、これまでどんな人生を歩んできたのでしょうか。

中高時代―勉強へのコンプレックス

KLK どんな子供時代でしたか。

西河社長 小、中学校の頃はずっと遊んでばかりで、家に帰ってからも、明日何して遊ぼうとかいうことばっかり考えていました。でも、多分他のみんなは帰ったら勉強してたんですよね。それで、気づかないうちにだんだん差ができていて。高校受験の段階で思う高校へ行けず、「自分はあほや、人と違うんや」っていうのをなんとなく感じてしまったんです。なので、とにかく努力して能力的にキャッチアップしなきゃと思って。
中学3年卒業して高校入るまでの間って、みんな遊んでるじゃないですか。僕一人勉強してたんですよ。もう悔しくて。高校入っても、カリカリ、カリカリ勉強してたんですよ。

KLK 高校卒業後は、システムエンジニアになられたんですね。

西河社長 高校受験での挫折感を取り戻すべく、人と違う何かを!と思いアメリカへ留学し2年制のカレッジを卒業しました。その後、日本に帰ってきてシステムエンジニアになります。
当時、次くるのはシステムエンジニアとかプログラマーやっていう風に言われていました。システムエンジニアを3年させてもらって。でもサラリーマンは3年でやめようと最初から思ってて、入社の時にも「お前は3年でやめるやろな」って言われたんですよ。でも頑張りますって言って入社させてもらいました。

事故車のパーツ販売で商売のコツを掴む

KLK 退職後はどんなお仕事を?

西河社長 次は自分で商売をしようということは決めていて。貿易の仕事とかしたかったんですよ、世界中飛び回ってね。ちょうどその時に義理の兄貴(姉の夫)がブローカーを始めて、その事業を手伝ってくれと言われまして。
「自分けっこうできる男やん!」ってちょっと天狗になってました。それで、今度は自分で何か事業やりたいって言ったら、兄貴に一緒にやらないかと言われて。車のこと何も知らないので、それも面白いかなと思って車屋をすることになったんです。

最初は普通の中古車販売だったんですね。色々失敗しながら勉強しました。
ある時、たまたまJAFの払い下げの「積載車」っていう、ウィーンって荷台が下がってきて車を積めるものを買ったんです。車の納車する時って、必ず2人で行かないといけないんですよ。車2台で行って、1台売れて置いて帰るんで、2台で行って1台で帰ってくるんです。
まあ効率悪いですよ。それが、積載車あったら荷台に車乗せて1人でどこでも行けるんですよね。積載車自体は持ってる車屋さんいっぱいあるんです。ただうちが買ったのはJAFの積載車だったんで、潰れた車も引き上げられるようになってるんですね。タイヤがもげて走らないとか全く動かないのでも、引っ張って積めたりとかいうのを本物の事故現場でやってるような車だったんで、そんなのができたんですよ。
何の意図もなく、たまたまそれを買ったら、知り合いの車屋から「お客さんが事故したから引っ張ってくれ」とか、「お前んとこの積載車、事故車積めるやろ、積んで八幡(京都市の南西に隣接する八幡市はポンコツ車やパーツ(部品)の処分場がたくさんある)持ってってくれ」とか言われるようになりましてね。
車屋さんからお金をもらう。車を持ってったら向こうでもパーツになる、で車屋さんにナンボか渡す。こっち側からお金もらって、こっち側からありがとう、ありがとう、言われて面白い商売やなぁと思って。普通の中古車販売が下手やったんで、だんだんそっちに傾倒していったんです。

会社はもともとアウトバーンって名前だったんですけども日本カーレスキューという名前に変えました。事故車買取専門っていうのに特化していったんですね。
潰れた車なんてタダよりもひどい、お金払って持って帰ってもらう粗大ゴミ以上のゴミだっていう認識だったんですが、それをあるところに持って行ったら5万円になるなとか。あるところに持って行ったら10万円になるなとか。この程度だったら直せるなとかいう感覚がだんだん身についてくるわけですよ。それがノウハウっていうものなんですけどね。

KLK この頃に良い出会いがあったとか?

35歳の時に青年会議所に入らせてもらうきっかけがあって。青年会議所では、毎月の例会で講師の講演があって、いろんな人からいろんな話を聞いて刺激を受けるわけですね。
すごいなと思って。もう全然それまで僕が見てた世界と違うところの世界が見えてきて。
そこで自分を顧みると、僕ずっと2番手じゃないですか。兄貴が社長、僕が専務、それが一番居心地いいんですよね。なんかこう「ぬるま湯に漬かってるなぁ自分」っていうのを変に思いだして。これじゃあかんと。鶏口牛後やなと。人生一回きりやしやっぱり自分にしかできないことをやってみたいなと思いました。
英語も平均3だったけども留学行って卒業できたし、コンピューターのこと知らなかったけど3年でシステムアナリストまでさせてもらったし、車も全然知らんかったけど、今やもう従業員10人ぐらい抱えてて専務として一番いいくらいで。自分の中でこういいイメージしかなかったんです。
もう1回、一から自分で何かやりたいと思って「気持ちは分かるけど辞めんといてくれ」という兄貴を説得しました。ただ「何がやりたいの?」って言われたときに、「何かやりたい」しかなかったんですよ。

旅行会社を開業してはみたけれど・・・

西河社長 ある日、母親が旅行に行って帰ってきて、「あー、しんどいし、もう旅行はいいわ」って言ってたんですよ。景勝地で1時間ゆっくり見てくださいと言われても、トイレ行って自販機でジュースとか買ってたら、もうさっさとバスに戻らんと足が悪いから迷惑かかるし。みんなについていくのが大変だという話を聞いたんです。

その時に、それはあかんと思いました。旅行って楽しいはずなんですよ。楽しい旅行をおじいちゃんおばあちゃんに提案してあげて、一緒に連れ回してあげたら喜んでくれるんじゃないかなと。もう一回ありがとうって言ってもらえる仕事したいなっていうのが独立のきっかけでした。
「ありがとう」を集めたらまたお金に変わるかなと思って。ほんま甘々ですね、小学生みたいな考えで旅行会社したんですよね。けどコケます。

KLK 何が起きたんでしょうか?

ノウハウが何もないわけですよ。考えたら、留学して英語ができるようになったのも、システムエンジニアの会社に入って、コンピューターのことは知らなかったけど3年間でまあまあできるようになりましたっていうのも、それは組織があるからなんですよ。ちゃんとノウハウがあるわけですよ。先輩がいて、営業もいて仕事取ってきてくれて、見本があってできてたんですよね。車もそうです。だけども、当時はそんなこと気づかなかった。ただ「俺は何でもやったらできる」と思ってました。コンピューターも知らなかったけどシステムアナリストまでやった。車のこと全然知らなかったけど、車屋もできた。俺はやったらできるんやと。もう中学の頃の謙虚な自分はどこに行ったのかという感じです。

旅行業界はたまたま運よく同窓会で会った友達が旅行業の資格を持っていたので従業員として雇って、二人でやることになりまして。トントン拍子で話が進んでいくと同時に、申請書を書いたりとかその提出してるだけでやってる気分になってたんですよね。店舗の内装してるだけでやってる気分になってたんですよ。これがものすごく最悪で。自分らは前に向かって進んでるっていう風に勝手にイメージしてたんですよね。で、オープン当日に何しようっていう話になりました。

さあ、次何しよう、自分がやりたいのはご老人を集めて旅行企画しようと思ったら、頼りにしてた友達が「旅行の企画とかしたことない」なんて言いだすんです。
それなら君は何ができるの言って、実際にどうやって集客するとかどうやって仕事するとかいう話行き着いてなかったんですよね。で、全部オープンしてからですよ。
「アンケート見たら北陸温泉行きたいとか書いてあるけども北陸温泉とかどうやって取るの」「知らん」「お客さん温泉行きたいってきはったらどうしよう」「ちょっと待ってよく考えたら申し込み書とかないな」みたいな話を、オープンしてからワタワタとしたわけです。

その頃は旅行業で独立する人っていうのは、元々旅行会社にいて、営業ノウハウもあって、顧客もいて、それでごそっと顧客取って抜けるとかいう方がもう99%でした。今は全然異業種から参入も多いんですけど。

仕方ないので同業者に聞いて回りました。「バス会社はどこ使うことあります?」とかね「営業ってどうしてはるんですか?」とか、そんなもう会社の根幹じゃないですか。みんな近所の旅行会社でライバルなんですね。ライバルなんやけども私たちがあんまりにもアホすぎてみんな教えてくれるんですよ。
でも同じことしたら競合するだけでしょ、その先輩の仕事邪魔することになっちゃうからせっかく教えてもらったけどそれは失礼でできないじゃないですか。
だから僕は元々近所のご老人に行ってもらいたいと思ったから、国内ツアーを作れる旅行業2種の免許を取ったんですよ。ツアーを作って売ろうと思っていろいろやってみたんですけども、全然売れなかったです。

そのときはシニア旅行企画萬転(まんてん)ってやってたんですよ。青年会議所でもいっぱい名刺交換させてもらって「シニア旅行か、頑張りや」って、みんなが言ってくれるけども注文こなかったんです。全く仕事ないのは半年くらい続きました。

この辺は西陣エリアなんで出張手配があって、飛行機とかJRの手配やりたいとか、近所のおばあちゃんが孫の顔見に行くのに東京行きたいとか言ってJR便の手配とかするんですけども、有難かったんですが、儲けにはならなかったんです。でも仕事してる感があるんですよ。売上は立つじゃないですか、利益はないんですけど。売上だけ立つからやってる感が出るんですよね。これがまたひどい話でね、勘違いしちゃうんですよね。

客が来る秘訣は綾小路きみまろにあった!

何も仕事なかった時にぼーっとテレビ見てたら綾小路きみまろが出てたんですよ。面白いなと思って、彼のドキュメンタリー番組をボーッと見てたんですけども。最初全然受けなかったらしいんです。「おじいちゃんおばあちゃんは腰がガクガクおしっこちょろちょろ」と言ってたら全然全く受けなくて逆に罵声を浴びさせられたのに、「中高年の皆様~!」と言ってから、同じことを言ったら受けたらしいんですね。でもお客さんはみんな年寄りなんですよ。だから、お年寄りにお年寄りと言ったらいけないっていうのを綾小路きみまろが言ってたんです。

「ほんで来いへんのか!」と閃きました。それでシニア顔してるようなおじいちゃんでも杖ついてるようなおばあちゃんでも誰もうち入ってこないのかと。みんな90歳でも中高年なんですよね。っていうのに気づいて、翌日に看板を書き変えましたね。

KLK その看板はどう変えられたんですか?

西河社長 その看板からは「シニア」をとって旅行企画萬転としました。名刺も変えて。そうしたらお客さんが来るじゃないですか!普通の旅行もやってるんですね、シニア旅行だけじゃないんですね。みたいな感じでちょこちょこ仕事入ってくるようになりました。


旅行業を開業するきっかけでもあったシニアのお客さんの心をようやく掴みだした萬転さん。果たしてこのあとは順調に事業が進んでいくのでしょうか?後編をご期待ください。

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この記事を書いたライター

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