「日本の都は京都」「天皇さんは東京に行幸したはるだけ」という主張を聞いたことはないだろうか。行幸とは天皇陛下が外出されること、つまり先の主張は「天皇陛下は東京にお出かけしているだけで自宅は京都にある、よって日本の都は京都だ」というものである。
筆者はSNS上でそのような発言をしたことがあるが、その中で「京都人は厚かましすぎではないか。本気でそう思っているのか?」などとご質問をいただいた。確かに京都から遠い場所に住む方からすれば、本気かジョークか分からない方もおられるかも知れないので、はっきり言っておこう。ぶっちゃけジョークとして言っている。行政、司法、国会等の機関をはじめとした首都機能が東京にあることぐらい知っている。少なくとも私の知る限り、私の周りでこれを本気で言っている人は誰一人としていない。
なぜこのようなジョークが生まれたかというと、実は私の祖父母のそのまた祖父母くらいまで遡ればもしかすると本気で言っていたような人がいたようなのだ。そして面白いことに、じつは日本の首都事情はかなりややこしいので、このジョークがジョークで済まなくなる一面があり、まんざら嘘というわけでもなくなるので面白がって言っている節もある。なんと令和5年12月現在、「日本の首都が東京である」と定めた法律はないのだ!
細かい話をすると、昭和31年に廃止された首都建設法には「第一条 この法律は、東京都を新しく我が平和国家の首都として十分にその政治、経済、文化等についての機能を発揮し得るよう計画し、建設することを目的とする。」と、東京が日本の首都と解釈できる文章は確かにあった。しかしながら、すでに廃止されたので無視しよう。え?「首都圏整備法」には「第二条 この法律で「首都圏」とは、東京都の区域及び政令で定めるその周辺の地域を一体とした広域をいう」と書かれているって?東京ディズニーランドが千葉にあったり、ローマを治めていない神聖ローマ帝国があったりする世の中なので直接指示さないものはおいておこう。直接説明していないのでこれも無視だ。(一応、真面目な事例も出しておこう。平成11年11月4日、当時東京都知事であった石原慎太郎氏の質問に対して、衆議院法制局長および参議院法制局長、内閣法制局長は我が国の法令法律に首都の定義は存在せず見解を示す立場に無いと回答したこともある。)
法律で決められていないなら、日本の都はどこにあるかをどのように考えればよいのだろうか。有名なところで言うと、「日本では昔から天皇陛下のお住まいがあるところを都としてきた」という話なら聞いたことがある方も多いのではないだろうか。また「遷都発令によって都(首都)は移動する」という考え方も有名だろう。都の決め方も色々あるが、今回はこの二方面からお話ししていきたい。
“天皇陛下のお住まい”から考える
天皇陛下のお住まいという観点なら皇居のある東京こそが都だと主張される方もおられるだろう。ただ京都には代々天皇陛下が住まわれてきた御所があり、しかも天皇陛下の玉座である高御座も京都にある。この高御座は天皇即位に伴う儀式に用いられる重要なもので、これがある場所こそ天皇陛下のお住まいであり、都であるという考え方もあるそうだ。
“遷都発令”から考える
「東京に天皇陛下が移動される際にも遷都発令が出たんじゃないの?知らんけど。」と思われている読者の方も多いのではなかろうか。ここで一度、明治初期あたりの日本首都移動の歴史について簡単にご説明したい。
さかのぼる事、明治の初年、日本の都を京都から大阪or東京に移動させようかという計画が上がっていた。だが当時は戊辰戦争真っ只中ということもあり、この移動には公卿などの上流貴族や保守派から強い反対意見も挙がった。そのため、天皇陛下が東京に行幸することすら異論の声が上がることまであったらしい。
歴史の教科書を読むと、明治2年3月に明治天皇と太政官が東京に移ったと書かれているが、このような状況で東京遷都などととても言い出せる状況ではなかったことは想像に難くない。そのため、なんとこの天皇陛下の移動の際には遷都発令のような政府からの公的な声明は何もなかったのだ。
では東京に遷都したのか
公的な声明がないこの天皇陛下の“移動”を公的な文章ではどのように表現しているのだろうか、例えば文部省が昭和16年に発行した『維新史』では、天皇陛下が東京に行かれたことを遷都ではなく「東京奠都(てんと)」と表現している。
奠とは(位置を)決めるという意味をもった漢字であり、遷のように移動させる意味ではない。つまり、東京奠都とは東京を都と定めたという意味だけで、京都から都を移した、京都が都ではなくなったという意味ではないということである。(京都から移したとはっきり言いたいのであれば、「東京遷都」と表現していただろう)
そもそも1つの国に首都が1つでないというルールもない。例えば南アフリカ共和国は3つも首都がある国で、行政上の首都はプレトリア、立法府がケープタウンに、司法府がブルームフォンテーンにあるという非常に珍しい国となっている。日本の首都は京都なのか、東京なのか、はたまた京都と東京の両方なのかなど、どのようにとらえてもあながち間違いとは言えないのではなかろうか。
最後に当時、京都に住んでいたものの気持ちを考えたい。もちろん気持ちなので正式な記録があるわけでも無く、あくまで筆者の憶測にしか過ぎないことをご了承いただきたい。
実は明治2年の3月28日に明治天皇が東京に移られた少し前にも行幸されていた記録がある。まず前年の明治元年3月、明治天皇は大阪に行幸された。これは江戸幕府最後の将軍、徳川慶喜が大阪の天保山から敗走した時で、天皇陛下が京都を離れたのは約500年ぶりだった。
そして同年9月に東京にも行幸された。その道中は錦絵に様子が残されるほど華やかにおこなわれたらしい。500年ぶりからなんと短い期間に2回も実施されたとなると、当時の京都に住んでいた民衆はきっとひどく驚いたことだろう。同年の12月に東京から京都にお戻りになられた際、こんな長い間、行幸されるのかと感じた方も多かったのではなかろうか。そして翌年の明治2年の3月、明治天皇は東京に向かわれ、そのまま戻ってこられなくなった。ただ京都に住む民衆は出発された際、(ああ、また行幸されるのか)と考えていてもおかしくないだろうし、遷都とハッキリ言われずにまさか住む場所を変えるだなんて考えもしなかったのではなかろうか。
当時の天皇陛下は神のような存在のお方である。一介の民からすれば、天皇陛下が帰ってきていないから引っ越したなんて勝手に決められるはずもない。また真偽のほどは確かではないが、明治天皇は侍女に「ちょっと東京行ってくるわ」と告げ、前回同様に東京に向かわれたとの俗説も聞く。民衆には天皇陛下のお言葉を疑うことなどできるわけもなく、もし天皇陛下の所在を聞かれたらこう答えるしかないのではなかろうか。
「天皇陛下は行幸されているだけ」と。