京都始発の特急列車

JR京都駅には「サンダーバード」をはじめ様々な特急電車がひっきりなしに発着しています。「サンダーバード」のように1分ほど停車して発車していく特急もあれば、関西空港に行く「はるか」や山陰方面に行く「きのさき」や「はしだて」「まいづる」など京都始発の特急もあります。これらの京都始発の特急電車は到着して乗客を降ろすと一旦ドアが閉められて車内整備が行われ、発車の間際に「お待たせしました」とアナウンスがあり、ちょっとした高揚感に包まれて車内に乗り込むのですが、今日お話するのは折り返しての京都始発ではなく、車庫で整備され、発車の相当前にゆっくりとプラットホームに入線してきて乗客を乗せ、定時に出発していくかつての風格ある特急列車のお話です。

特急「かもめ」

京都始発の特急列車の代表は「かもめ」です。実は戦前、東京~神戸間に漢字書きの「鴎」という特急列車が走っていましたが、これは当然、京都は通り過ぎる特急列車でした。戦後も落ち着いた昭和28(1953)年には京都~博多の特急列車が設定され「かもめ」と命名されました。(京都8:30→博多19:10)機関車と9両編成の客車列車でしたが、この客車は一方向に固定されたシートでしたので、終点で列車ごと方向転換をしました。上りで京都に着いた「かもめ」は梅小路を通って西大路までバックし、山陰連絡線を通って丹波口まで進み、今度は山陰本線を通って京都駅まで進むと、列車の方向は逆にすることができたのです。そして梅小路の車庫で整備し、翌日、京都駅から発車していきました。

ところで京都駅は駅が大きいので梅小路から回送されてきた列車をそのまま下り専用の6・7番線に入れることはできません。そこで1番線(現0番線)と2番線の間を通って、一旦、鴨川の上にある折り返し線まで進みます。鴨川の上には今も5線分の鉄橋があり、ちょうど真ん中の線路が折り返し線なのです。機関車が客車を引く列車の場合は、機関車を最後尾にして折り返し線に入り、そこからバックして機関車を先頭に6・7番線に入線したのです。

ホームで待つ乗客は荷物を持って一旦車内に落ち着いてから、再びホームに出て売店に行ったり窓越しに弁当売りのおじさんから長旅に備え食べ物や飲み物を買い求めたりし、この時間が旅情を誘いました。そして発車時刻になると発車のベルがなり、汽笛とともにガタンと客車が揺れ、ホームが少しずつ「後ろに進み」いくつかのポイントをガタンゴトンと通り過ぎて本線に出て、列車は速度を上げていきました。旅に出たことを感じる最高の時間でした。

この「かもめ」は先述のように固定シートで、進行方向に向かって座れるのはいいのですが、毎回の方向転換が大変なので、昭和32(1957)年にはボックスタイプの座席の客車に置き換えられ、方向転換は廃止になりました。この客車は新製された軽量客車ですが、特急なのに4人掛けのボックス席はいただけないと「かもめ」ではなく「からす」と陰口を言われたそうです。

ボックスシートの客車時代の「かもめ」 (向日町~西大路)

そんな中、昭和36(1961)年に登場したのがキハ80系と呼ばれるディーゼル特急です。客車の「かもめ」はディーゼルの「かもめ」に置き換えられ、行き先も宮崎と長崎に変更されました。グリーン車を含む6両編成を2つつなげて12両で小倉まで走り、そこで行き先別に分かれました。昭和40(1965)年には宮崎行が西鹿児島まで延長され、昭和43(1968)年には西鹿児島行が、筑豊本線経由の佐世保行きに変更になりました。長崎行には食堂車も連結され、堂々13両編成で京都駅を出発していました。

ディーゼル特急は前後に運転台がありますから、鴨川上の折り返し線では、運転士さんは車内を通り抜けて反対側の運転台にポジションを変え、6・7番線への入線に備えました。入線後は客車と違って床下のエンジンのアイドリング音が響き、これから九州まで走るぞと自分に言い聞かせているようでした。そして発車の際は各車両のエンジンが大きな唸り声をあげ、黒煙を噴き上げてホームから離れて行き、後には油と排気の臭いが残りました。

ちびっこファンにも大人気だったディーゼル特急「かもめ」
列車名や号車、行先がサボできちんと表示してあった当時の特急列車

特急「まつかぜ」

前述の昭和36年10月にはもう1本、京都発のディーゼル特急が登場します。京都7:30発、大阪から福知山線経由の特急「まつかぜ」松江行きです。まだ大半の列車が、SLが古びた客車を引く状態の山陰本線に初めて登場した特急列車で「山陰のクイーン」として大いに期待を集めました。京都から山陰本線で福知山に向かわず、わざわざ大阪経由にしたのは大阪からの乗客をあてこんでのことでした。

このように昭和36年は、新しいディーゼル特急の登場で地方都市にも特急がやってくる時代の幕開けとなりました。ところがそんな期待をこめた初日から「まつかぜ」は大きなトラブルに見舞われます。福知山に到着後、最後部の車両がトラブルを起こし動かなくなったのです。そこでその車両だけ切り離して残る5両で西下したのです。したがって5両目の後ろには運転台がない状態で松江まで走り、松江ではそれまでの先頭車を転車台で向きを変えて京都方に連結して帰ってきたということですから驚きです。今なら福知山で運転打ち切りでしょうが、何としてでも走らせるという当時の国鉄マンの心意気は半端ではなかったようです。その日は大きな駅ではブラスバンドの演奏があり、沿線各地では小旗が振られるなど、山陰各地の大きな期待にこたえたかったのでしょう。

その「まつかぜ」は、昭和39年には博多まで延長(京都7:20→博多20:00)され、文字通り「山陰のクイーン」の特急に成長していきます。編成も最長13両まで拡大されました。藤圭子の演歌に「京都から博多まで」というのがありました。まさか「まつかぜ」を乗り通した女性の歌ではないでしょうが、京都始発で西に向かうということでは重なるものがありました。

寝台特急「あかつき」

以上は昼間の特急列車の話でしたが、長距離列車の醍醐味はやはり夜行列車です。関西から九州方面の寝台特急列車の大半は新大阪発でした。それは山陽新幹線が出来るまでは東京から新大阪までは新幹線、そこから九州方面には寝台特急に接続するという側面もありました。西鹿児島行の「なは」、南宮崎行の「彗星」。長崎・佐世保行の「あかつき」が三羽烏だったのですが、そのうち「あかつき」が平成3(1991)年から京都始発になりました。(京都20:32→長崎8:41 佐世保8:30)先の「かもめ」などと同様、一旦、鴨川上に引き上げて京都発になるのですが、ヘッドマークを付けた電気機関車に引かれて7番ホームに入ってくる光景はかっこよく、夜行列車だけにまた独特の始発前のムードがありました。

平成12(2000)年には、ブルートレインの整理の中で「あかつき」は「彗星」と併結した形になり、さらに平成17(2005)年には「なは」と併結する形になりましたが京都始発は残りました。晩年は様々なニーズに対応するために「ソロ」「ツイン」などと呼ばれた個室の寝台車や「レガートシート」と呼ばれた座席指定車も連結され、リクライニングシートを倒して夜行列車の旅を楽しむことができましたし、一部には女性専用の席もありました。しかし編成も短くなり、いつかは無くなるだろと懸念していました。

こうして京都始発の長距離特急列車は「鉄道がステキだった」時代を演じてくれたのですが、「まつかぜ」は昭和47(1972)年に大阪始発になって京都には来なくなりました。もっともこのとき京都始発の「あさしお」が登場し、山陰本線経由で、最長、米子まで行くことが出来るようになりました。一方「かもめ」は昭和50(1975)年3月の山陽新幹線博多開業を機に廃止になりました。また最後まで関西始発のブルートレインとして頑張った「なは あかつき」も飛行機や高速バスの台頭で乗客減が続き、車両の老朽化もあって平成20(2008)年に廃止になり、京都駅始発の長距離列車は豪華観光列車を除いて消えてしまいました。

ところで、今回は特急列車の話でしたが、急行列車となると、京都始発で中国・九州方面や山陰方面はもとより、奈良線や草津線を走る列車も多数設定されていました。また機会があればご紹介しましょう。

京都駅に到着する「なは あかつき」 (平17年)
【参考文献】
時刻表(各号)
列車名大辞典(イカロス出版)
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この記事を書いたライター

 
昭和30年京都市生まれ
京都市総合教育センター研究課参与
鉄道友の会京都支部副支部長・事務局長

子どもの頃から鉄道が大好き。
もともと中学校社会科教員ということもあり鉄道を切り口にした地域史や鉄道文化を広めたいと思い、市民向けの講演などにも取り組んでいる。
 
|鉄道友の会京都支部副支部長・事務局長|京都市電/嵐電/京阪電車/鉄道/祇園祭