100年後に伝えたい祇園祭~郭巨山(かっきょやま)とは~

郭巨山(かっきょやま)とは

平安京の人々を苦しめた疫病の退散を願ったのが起源とされる祇園御霊会。御神輿が御旅所巡幸となって、神輿迎えと神輿送りの都大路のお祓いとお清めのパフォーマンスとして、下京商人による山鉾の巡行は南北朝時代にその原型が始まったとされる。
 
現在、7月17日の神輿迎えの前祭としての山鉾は23基、同24日の神輿送りの後祭としての山鉾は11基を数え、郭巨山は前祭の山鉾に属する。

郭巨山は京都市下京区の、四条通の新町通と西洞院通に挟まれた四条通の北側南側に面する、いわゆる「両側町」が出している。平安京の条坊では左京四条三坊二保四町南側と左京五条三坊一保一町北側で、平安時代には藤原公任の邸があり、公任の姉の遵子は円融天皇の皇后となり里内裏の四条宮の敷地であった。平安末期には鎧などの切革の店が並んでいたことから「両側町」の革棚(かわのたな)町と呼ばれ、江戸中期に郭巨山町となった。町勢としては、戦前は商店・住宅合わせて34軒ほど、現在はテナントビル3棟ビジネスホテル1棟マンション2棟(うち1棟は町内会未加入)住居・飲食店・小売店など12軒ほどで構成される「郭巨山町」に建つ山鉾である。

平成30年(2018)までは郭巨山町に在籍する自治会「郭巨山町町内会」と別に「郭巨山保存会」という組織(町内会と同時加入)によって郭巨山の祭事は運営されてきたが、平成30年(2018)1月に一般財団法人に、同年5月に公益財団法人の認定を受け、それまでの郭巨山保存会は郭巨山協賛会と名称を変えて、公益財団法人郭巨山保存会の祭事を支援する団体に移行した。郭巨山協賛会の会員は郭巨山町に属する個人法人と郭巨山町在籍経験者、役員の推薦を受け役員会が認定した個人で構成されている。

公益財団法人郭巨山保存会となって寄付金などの受け入れ、人材を広く求められることができるようになった。また、個人共有名義だった町会所が法人名義となり、永年の念願だった「会所の改修」が実現した。

文献にみる郭巨山

郭巨山の文献での初見は応仁の乱終了後30年、町衆の努力により明応9年(1500)に祇園御霊会が復活を果たしたとき、それまでは先陣争いが絶えなかったためこのときから行われた「くじ取り」で、「祇園社記」第15の定書に16番「みち作山(つくりやま)四条町(新町)ト西洞院ノ間」とあるのが郭巨山町の出す山の歴史上の初見である。

「みち作山」の「みち」とは茶道、剣道、柔道などと通じる「人の行うべき姿、あるべき姿、道徳」のことで、「作山」とは毎年山屋台上の趣向を変える山のこと。室町時代の有名な狂言「鬮罪人」で町役員が集まって今年の山の趣向を相談することから毎年趣向を変える山、橋弁慶山、鯉山のように趣向を固定した山、お囃子をする山鉾があったことが伺えるが、「みち作山」が、いつごろ、どのような経緯で「郭巨釜堀りの故事」に趣向を固定したのかは天明8年(1788)の大火で町会所と蔵が罹災し、文献資料も言い伝えも残っていないので定かではない。ただ、延宝年間(1675ごろ)の山鉾を紹介した「祇園御本地」の挿絵には「かまほり山」と記されているのが文献図画における初見である。

宝暦7年(1757)祇園御霊会細記 山鉾由来記

郭巨山の祇園社社参

現在、郭巨山に残る古文書としては天明の大火(別項に詳細)の罹災から復興に向けた寛政元年(1789)以降のものが残っているが、中でも特筆すべきひとつに文久2年(1862)の郭巨山の祇園社社参が上げられる。

この年9月4日神事の項で、「市中一流悪病流行に付 町中残らず幕張り 御山祇園本社へ参詣し事」とあり、「二日、山建。三日、幕張。四日、当日。」の日程と行列内容が記されている。行程は四条~祇園町~八軒~御参道~石鳥居内~御本社参詣ノ上御神米~梅ノ坊休息~祇園町~繩手~三条~新町~四条で、山鉾で唯一、鴨川を渡った記録である。

郭巨山古文書 文久2(1862)年9月4日 神事
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この記事を書いたライター

祇園祭の山鉾のひとつである「郭巨山(かっきょやま)」を守り、受け継いでいくための組織です。