京都の「岡」ってどこか思い浮かびますか?
新幹線で京都へ着くと、南方に東寺の五重塔が見え古都の風情を感じる。京都駅に降り立つと、目の前に京都タワーが聳え立つ。どちらも京都のランドマークである。京都タワーの展望台から北に向きに見下ろすと、盆地の中に3つの小高い丘が見える。北西に双ヶ岡、北東に吉田山、北方少し西側に船岡山があたかも忘れられたように横たわっている。
京都は、2億年前は海の底だった。放散虫というプランクトンが大量に堆積し、硬い地層のチャートが形成された。この地層に力が加わって断層ができ、真中が落ち込んで盆地になったと考えられている。その盆地には断層で取り残されたようにチャートの岡がある。それが双ヶ岡や吉田山そして船岡山なのである。
市内北部のランドマーク。清少納言も愛でた船岡。
船岡山は、京都市北部のランドマーク的存在である。船岡山の西側には金閣寺・北方の丘陵地には鷹峯・すぐ北には大徳寺と名所旧跡が点在していて観光客の見印として船岡山は活用されている。
船岡山は千本通の真北、蓮台野の東に位置する標高112m、比高40mの孤立した丘陵である。長い地質学の歴史上、京都盆地に置き忘れられた丘で、山としてはすこぶる小さい。
頂上から市街を一望することができる。衣笠山から龍安寺の森を隔てて仁和寺の五重塔、さらに兼好法師ゆかりの双ヶ丘の展望は、煙雨の時など見事な水彩画を見る心境である。
清少納言をして「丘は船岡」と言わしめ、この丘は王朝貴族の遊宴の地とされていた。また古来清浄の地として祭祀が行われ、古くは貞観元年(859)陰陽寮に命じて五穀を食い荒らす害虫をはらう祭りを行われたことがあり、今宮神社の疫神もはじめは船岡山において祀られたものである。
大文字の送り火の夜、この山は最も多くの人でにぎ合う。五山の内、鳥居だけが見られない。
現在、建勲神社境内および船岡山公園になっているが、植物相も外来種が殆ど侵入せず貴重な森である。このちっぽけな丘が歴史の上では、実は大変な舞台になったのである。
山は、自然林が残り山上には磐座信仰(古神道における岩に対する信仰のこと)の硬いチャートの岩盤が残る。
平安京のはじまりは船岡山から
平安京造営時、朱雀大路(千本通り)の北の起点となり、四神相応の地として玄武が守る山である。四神相応とは東西南北をそれぞれ司る神が鎮座するという伝説信仰で、北の守り神が玄武であり亀と蛇のような姿をしているといわれる。
現在の船岡山は市民の憩いの場として24時間開放されている。山全体は、大徳寺の所有であり、建勲神社境内以外は京都市が借用管理している。船岡山の名前の由来は山の形が舟を伏せたように見えるところから、その名がついたと言われているが、実際は一向に似ていない。今宮神社通りからの登り口北側から東にかけて、昔は池があり、舟が浮かんでいるように見えたと言う。また、堀川の源流は、この山の南斜面の涌き水と聞く。
船岡山の影
1200年の船岡山の歴史には、光があたった反面、影のできごとも多くあった。葬
送の地や刑場として利用され、応仁永正の乱では陣取り合戦が行われ、多くの人々の
血が流された。今でも野仏が多く残存し、当時の面影が残る。城もつくられ、土塁や
空堀が残り、多くの中世城郭研究者が訪れている。
忘れてはならないのは、1984年(昭和59年)白昼、十二坊派出所勤務の若き警察官が呼び出され、殺傷され、奪われた拳銃で撃たれた悲惨な事件があった。頂上岩盤の南側に顕彰碑があり、参詣される方が多い。歌碑には次のように記されている。
船岡の山の歴史にとこしえに 職に殉ぜし君を語らむ 合掌!!!
平安京が廃れ、朝廷も衰えだすと、内裏の北側は清浄の禁野として活用されていた
場所は、葬地として変容しだした。卒塔婆が多く立っていたので千本通りとも言われ
た。釈迦、釘抜き、閻魔、蓮台など葬送関係の寺名が点在している。
葬送の地や刑場としての船岡山
古より都の三大葬送の地は、東の鳥辺野・西の仏野とここ蓮台野であった。船岡山は火葬の地として知られ、多くの人々が船岡山周辺で火葬された。現に今でも歴代天皇・皇紀の御陵が点在している。千本通は無数に立ち並ぶ卒塔婆に因んで千本という地名がついたとも言われている。千本通りは平安京の朱雀大路だから、蓮台野は平安京の背中の部分にあたる。それと、紙屋川の流域で、やや低地になっているのも、葬送の地になった理由であろう。低地であり蓮が生えていて地名の由来になったと考えられる。
西側の山腹には、弘法大師爪彫りの像と称する石仏があるが、まさしく葬場としての昔を偲ぶにたるものである。
平安中期頃から末期に至る160余年間葬地であり、明治3年に廃止になり龍安寺に移されたが、その後、金閣寺裏蓮華谷に移された。筆者は幼少の頃、その谷の煙突から煙が立ち上がっていたのを覚えている。
私が楽只小学校時代、校庭のグランドを水捌けが良くなるように暗渠する工事中、多くの人骨が出てきたのを記憶している。ものの書籍によると、校庭こそが火葬した場所であったと言う。
千本通りには、千本閻魔堂や引接寺釘抜き(苦を抜く)地蔵・上品蓮台寺など葬送関係の施設が残っている。また、船岡山は刑場でもあった。中でも、保元の乱に崇徳上皇に味方して敗れた源為義の息子たちは、後白河天皇方について勝利を得た嫡男義朝と伊豆に流罪となった為朝を除き、9名の兄弟がこの船岡にて兄義朝の手により斬首されている。
軍事施設「陣」としての船岡山
中世、室町時代以降の船岡山は、特に戦略の場として用いられた。応仁元年(1467)の応仁の乱に大内政弘、永正8年(1511)には細川政賢、天文22年(1553)には足利義輝らがそれぞれ陣を置いている。
応仁の乱には山名宗全の率いる西陣の拠点となり、応仁の乱後34年を経た永正8年(1511)8月には前将軍足利義澄が入京して来たため、将軍義植は細川高国などと一時丹波に逃げ落ち延びた。軍勢を集めて入京するや船岡山に義澄軍を破るという戦いがあるなど、大変な歴史を背負った山である。西陣青年の家跡には、応仁・永正の乱合戦碑が立っている。
陣が置かれていた頃は現在の建勲神社はなく、船岡山東側の岩盤近くまで軍事施設があったのであろう。建勲神社裏西側の神域には、今でも堀切・竪堀・横堀や竪土塁が残る。
建勲神社
明治天皇は織田信長の朝廷復興の業績を追賞して社殿を創建させた。はじめは山形県天童藩織田氏邸内にあったが、明治13年船岡山の東麓に移し、次いで現在の山上に遷したもので、本殿には信長を主神とし、その子信忠を配祀している。本殿は御所を拝している向きに建っている。
例祭は永禄11年10月19日信長が入洛して、天下統一の第一歩を印した日に行われている。当日は信長が好んで舞った「敦盛」が必ず奉納されている。社には、太田牛一自筆本「信長公記」や桶狭間の戦いで使用した旨の金象嵌がある刀や紺糸威胴丸がある。
編集部VIEW!!
京都市民からも忘れられがちな船岡山。現在は憩いの場として穏やかな顔を見せているがその長い歴史は複雑である。平安京造営がこの地を起点にされたことからも文字通り京都の歴史を背負った山であることは間違いない。そしてこれからも京都の街や訪れる人々を小高いこの山が温かく見守りつづけてくれるに違いない。