賀茂神社の祭礼が勅祭に
葵祭は正式名を賀茂祭と言い、加茂御祖(みおや)神社(下鴨神社)と加茂別雷(わけいかづち)神社(上賀茂神社)の例大祭です。
この加茂の神の前身は、京都盆地北部の豪族であった加茂県主(あがたぬし)の守護神でした。
加茂神社の記録は、まだ都が藤原京にあった時に始まり、山城国の加茂の祭りに多くの群衆が近隣から集まっていました。
群衆は武器を持ったり、馬上で弓を射たりして参加していました。
大和朝廷はこれらの勢力の増大を抑えるため、賀茂神社と加茂県主の勢力分断を図りました。
奈良時代後半に特に下鴨神社を後押しして分立させ、上下二つの神社に分けました。
長岡京遷都に伴い、下上両社の社殿を造営後に勅使を派遣して従二位の神階を授け、京の守護神として国家祭祀に組み入れました。
これで賀茂祭は春日祭、石清水祭と共に、3勅祭となります。
伊勢神宮並みに斎王が派遣される
嵯峨天皇の御代に、加茂2神の祭りを伊勢神宮の祭りと同格にします。これ以後の祭典には、下上の順に勅使を派遣し、神階を正一位にします。位階というものは臣下の序列であり、伊勢神宮に神階はなく、加茂神社は臣下として最高の位置づけになります。もう一つ特別な待遇が与えられ、伊勢神宮並みに斎王が派遣されます。ただし承久の乱後は、斎王の任命は途絶えています。現在の葵祭の行列に「斎王代」が加わったのは1957年に、勅使の行列を華やかにするためでした。当時の加茂祭の社頭における祭儀は一般の拝観は許されず、御所から社への行列を見るため一条大路には多くの桟敷が設けられましたが、大変混雑したようです。『源氏物語』の葵上(あおいのうえ)と六条御息所(みやすどころ)の、良い場所を求めての車争いの話はよく知られています。
1か月にわたる神事
江戸時代頃より葵祭と呼ばれるようになったのは、神前や参列者を葵で飾ったことに因んでいます。賀茂祭は「路頭の儀」と呼ばれる行列が華やかであるため、この行列だけが加茂祭と思われがちですが、祭典の一部なのです。両神社では5月のはじめから御禊(みそぎ)の儀、歩射神事、御蔭祭、御阿礼(みあれ)神事などの祭儀が1か月にわたって行われており、そのメインイベントが5月15日に行われます。古代では日本の神様は通常は山に居られ、田植えや稲刈りなど農耕の季節に人里にお招きし、お祭りの饗応を受けて人々の祈願を聞き、豊穣と安全を約束して帰っていくものでした。加茂祭でも両社で御阿礼の行事で祭神をお迎えし、数日間馬を走らせたり、騎射をしたりしてもてなします。
5月15日には勅使が、神への天皇のお言葉である御祭文とお供え物の御幣物を持って両賀茂社へお参りします。祭儀は天皇が勅使に御祭文と御幣物を授ける「宮中の儀」、勅使を中心に護衛やお供の人たちが行列をなして両賀茂社に至る「路頭の儀」、神社の社頭で勅使が御祭文を奏上し、御幣物をお供えする「社頭の儀」の三つからなっています。
普通の祭礼と異なり、「路頭の儀」の巡行では祭神の神輿はありません。斎王代と勅使の代理の近衛使(づかい)が御所から下鴨神社、上賀茂神社へと巡行され、この勅使が行列の主役になります。賀茂祭が葵祭と呼ばれるようになったのは江戸時代以降で、祭の当日行列参役者の冠、烏帽子、装束から牛車、牛馬に至るまで葵と桂の葉を組み合わせた葵桂(きっけい)で飾ったことによっています。
「社頭の儀」
巡行列は二ノ鳥居からは下馬下乗して徒歩で参内し、「社頭の儀」が行われます。
定刻午後3時半には、巡行列が一ノ鳥居に着き、下馬下乗して進み、二ノ鳥居から本殿へ参進します。葵祭の行列は総勢511人、馬36頭、牛4頭、牛車2台、腰輿(ようよ)1台からなり、行列の長さは約700m、5列に分けられます。第1列は警護列で、第2列は天皇からのお供え物の列です。続く第3列は勅使とそのお供の列です。列にはお供の武官で、神前で舞を奉納する舞人が6人騎馬で行きます。第4列は勅使のお供の陪従(べいじゅう)と内蔵使(くらつかい)の列です。陪従は神前で雅楽を奏する武官で、7人が騎馬で巡行します。列の最後は風流傘で締めくくります。風流傘は、大きな傘の上に紺布を張り、錦の帽額総(もこうふさ)などをかけわたし、さまざまな造花を盛っています。
十二単を纏い、8人の輿丁が担ぐお腰輿(ようよ)に乗った斎王代を中心に、女人列では女別当、内侍、命婦、女嬬(にょじゅ)、采女、童女(わらわめ)、騎(むねのり)女など斎王に仕えた女官に扮した女性たちが当時の正装で参列します。上級女官には、この花傘が差掛けられます。花笠の上には、菖蒲、椿、水仙、桜などが飾られています。
いよいよ斎王代が、童女に十二単の裾を持たせて入ってきました。お腰輿は二ノ鳥居前で下乗し、そこからは徒歩で参進します。その後、祭場内の斎王代幄舎(あくしゃ)に入ります。
女別当、内侍などの女官が、斎王代に続きます。巡行列の各自は境内のこの場所で本殿に拝礼し、その後斎王代幄舎に入ります。
赤い衣装の子供達は、牛車を引く牛の引き綱を持つ牛童(うしわらわ)で、8㎞巡行してもまだまだ元気のようでこのように休憩所に向かって駆け出していました。待っているお母さんの元へ行ったのでしょうか。
斎王代幄舎の斎王代と女官達。斎王はかつては未婚の内親王(天皇の娘)が勤めましたが、現在は京都在住の未婚女性から選ばれ、斎王代として勤めます。
斎王代の髪はおすべらかしで金属製の飾りもの「心葉」をつけ、額の両側には「日陰糸」を下げます。手には桧扇(ひおうぎ)を持ちます。きらびやかな十二単衣も、重さは30kgもあるそうで、着付けは2人がかりで3時間近くかかります。この衣装では巡行も、また幄舎での待機も大変なことでしょう。
向かって右は舞人(まいびと)6人で、巡幸中は騎馬で進んできました。このあと舞殿で東遊(あずまあそび)を舞います。左は陪従で、神前で雅楽を奏する武官で7人が騎馬で巡行してきました。陪従の衣装には、色鮮やかな唐獅子模様が刺繍されていました。
舞人と陪従が立ち並ぶ中、勅使が参進してきました。勅使は社頭の儀のみに参役され、大勢のお供に社頭の儀で必要な調度品を持たせて進んで行きました。
勅使が御祭文を奏上した後に続いて斎王代の拝礼があるのですが、あの衣装で前に進むのは大丈夫だろうかと心配していました。前に毛氈をしいてもらいそこに立ち、その場で拝礼されました。そうですよね。
警護の衛士が勅使の横に控えていましたが、背中の模様が気になりじっと見ていました。良くは分かりませんが、平安時代に良く出没して源頼政に退治されたという鵺(ぬえ)ではないかと思いました。
陪従により十二歌が唱えられる中、左馬寮と右馬寮から奉献される馬2頭が馬寮使により引かれて橋殿を三周し、その都度馬寮使の拝礼に合わせ二頭の馬も頭を下げるのには、思わず参加者から笑みがこぼれました。
舞人はその衣の上の片方を脱いで直立して立ち、儀式の終わりを迎えました。時刻は3時半から始まり、もう6時になっていました。
この後まだ境内では「走馬の儀」があるのですが、いささか見ているだけで疲れましたので、失礼して帰りました。
豊穣祈願に始まった賀茂祭ですが、今では京の歴史を思い起こさせ、京の文化に人々が魅了される良い機会となっています。京の三大祭のもうひとつである祇園祭の山鉾巡行も今年は再開されます。来年こそは賀茂祭が盛大に巡行され、この行列の華麗で優美な姿を多くの方に見て欲しいものです。
加茂別雷神社. 勅祭 賀茂祭(葵祭).神社説明資料.
岡田精司. 2000.一.県主の神ら王城守護のかみへ-二つの加茂神社-、「京の社」.p.13―46. 塙書房.
山本四郎. 1995. 京都府の歴史散歩 上. 山川出版社.