京都市動物園の南側から蹴上まで真っ直ぐ延びる坂道をインクラインとか蹴上インクラインと呼んでいますが実際は何だったのかお話しましょう。
蹴上インクライン
ご承知のように琵琶湖から水を引いている琵琶湖疏水は緩やかな傾斜で大津から蹴上の上まで流れてきます。そこから一挙に水を落としてその力で発電(蹴上発電所 初代のものではありませんが今も現役)すると同時に、その水は水道水として今も京都の生活を支えています。またその水路を使って舟運も発達しました。いわば大きく3つの役割がありました。しかし、蹴上までの上の水路と南禅寺の前の下の水路が途切れてしまうのでそのまま船を通すことが出来ませんから設けられたのが船のケーブルカー(傾斜鉄道)であるインクラインなのです。今はその跡が散策路になっていますからあの坂道のことをインクラインと呼ぶと思っておられる方もおいでのようですが,そういう意味ではインクライン跡としておいた方がいいかもしれません。
さて琵琶湖疏水の建設に携わった田辺朔郎と高木文平がアメリカのモリス運河を視察したときに見たのが船を載せて坂を上下するインクラインだったのです。これは上の水路と下の水路を結ぶ妙案と考え、日本に持ち込んだのです。その仕組みは車両というより2組の木製(後に鉄製)の枠組み(台車)をロープでつなぎ、片方が上ればもう片方が下がるというものでした。したがって通常のケーブルカーのように途中で離合線があってすれ違うのではなく、全区間複線でした。そして上の南禅寺船溜りと下の蹴上船溜りの中まで台車が入る形で動かすことによって、台車に船をそのまま入れ、水から出たときに船はその台車に収まりますから荷物の積換えも必要ありません。そして相手側に着くと、再び浮力で浮き上がるというしくみで、実に便利なものでした。
ところで山のケーブルカーは山上側の駅も勾配が付いた状態ですが、インクラインはその手間に最高地点があり、少し下がった状態で上の船溜まりに入ります。でなければ上の船溜まりで船を台車に載せたり降ろしたりできませんよね。ところがその船溜まりには油の付いたロープや滑車も水中にあるわけですから、飲料水に油が混じらないようにするため、そこよりも上流(大津寄り)に浄水場への取水口を設けるという工夫もしていました。
そのスケールは長さが581.8m,高低差は36.4m,その間の勾配は15分の1です。疏水のトンネル工事から出た土砂を使って路盤を整備したので、一石二鳥でした。1890(明治23)年に完成し、翌1891年から営業を開始しました。当初は水車の力でロープを動かそうと計画されましたが、水力発電が現実になると、モーターでロープを動かすことになりました。動力が電気でかつ長さも世界一のインクラインでした。
ケーブルカーですから運転室が必要です。当初は上の船溜まりにあったようですが、後に下の船溜まりに面して運転室が設けられました。動物園の疏水べりに休憩所がありますが、実はその下がインクラインの運転台と機械室だったのです。ロープを大きな円筒(ドラム)に巻き付けて回転させて動かしていましたので、この運転台と機械室をドラム工場と呼んでいました。急激にロープが走り出すことがないようロープを何重にも巻き付けて回転させる工夫をしていました。琵琶湖疏水記念館側から歩いて行くとドラム工場と呼ばれていた部屋の中を見ることが出来ます。インクラインと運転台がほぼ直線状に配置されていることから、そこからのぞくと当時の雰囲気を感じ取ることができます。
速度は2段切り替えができ、10~15分かけて上下していたとありますから、1時間当たり5~6往復、船にすると10隻程度が輸送力ということになります。大正期の資料では大津からは砂や米が,大津へはぬかが一番多い荷物だったようです。重いものばかりですから、積み替えず行き来できたのは有効でした。さらに人が乗った屋形船も上下してましたし、台車にひょいっと乗った単独のお客も運んでいたようです。
ところが大正元(1912)年に京津電車軌道(現京阪京津線)が開通すると疏水を使った旅客輸送は激減します。その後、大津の船宿がいわゆるチャーター船を出してそのまま「インクライン下り」というツアーを実施したこともあったようですが、一過性に終わりました。一方で荷物の輸送はやはり船に頼ってましたから、インクラインも大活躍でした。ちなみに蹴上インクラインの稼働時間は午前6時から午後6時まででした。しかし戦後、京都~大津間の国道が整備され、トラックが増えてくると船による輸送は急減し、昭和23(1948)年にインクラインは休止されます。その後、レールなども撤去されるのですが、市民の願いもあって昭和52(1977)年に今のように復元され、昭和58年には史跡に指定されました。
鴨川運河と伏見インクライン
疏水は南禅寺から夷川の船溜まりを経て鴨川の東側に出ます。そこから、今は塩小路付近まで暗きょになって分かりませんが、鴨川の東側を伏見まで南下します。いわゆる鴨川運河とよばれるものです。そして墨染付近で再び西に向きを変え、ここにも大きな高低差を設けて、明治28(1895年)にインクラインが設けられました。伏見インクラインです。現在は国道24号線になっていますが、近鉄伏見駅の東側には当時の下の船溜まりの跡が見てとれます。
こちらは長さ300mで蹴上インクラインより規模は小さかったですが、勾配は10分の1ときつかったようです。伏見から京都市内中心部への荷物の輸送になくてはならない装置でしたので、蹴上インクラインよりも稼働時間は長かったのです。ちなみに伏見インクラインの動力は蹴上と違って当初は水力でしたが、後に電気によって動かすようになります。こちらは昭和18(1943)年8月に休止となり、昭和43年に埋め立てられて国道24号線になりました。伏見郵便局の前に横断歩道橋がありますが、その上から伏見インクラインの位置関係を伺うことができます。
一見、鉄道とは関係ないお話のようでしたが、これら2つの傾斜鉄道は近代の京都の発展に大いに活躍してくれました。
参考文献琵琶湖疏水の100年 京都市水道局
びわ湖疏水 探究紀行 琵琶湖疏水アカデミー