お稲荷さんと鉄道

3本の鉄道が通っていた伏見稲荷

伏見稲荷大社を訪ねると、インバウンドの観光客を中心に毎日がまるで初詣のような状況です。彼らは外国からやってきてお参りしてくれるのですが、私たちが遠方の社寺に出かけるのはよく考えると交通機関やマイカーがあるからです。特に初詣の時などは、一部の鉄道会社は大晦日に終夜運転も実施するほどです。つまり、電車が走るまでは歩いてせいぜい近くの氏神様に行くのが日常のお参りでした。

それが明治になって鉄道が走ると一変します。伏見稲荷大社の門前に鉄道が最初に通ったのは、このKLKでもお話したように官営鉄道の東海道線が京都駅から稲荷を経由して山科~馬場(現膳所)~大津(現浜大津)に走り出した明治13(1880)年です。でも京都駅から1駅、およそ2.7kmですからお参りに行く人は1日10往復の汽車を当てにせずに歩いていたでしょう。

ところが明治37(1904)年に市電の前身である京都電気鉄道が伏見線の勧進橋から分岐して稲荷線を開通させると、路面電車ですから頻発運転されるために「電車に乗って稲荷さんに行く」人が増えます。その後、明治43(1910)年に京阪電車が大阪天満橋~五条間に開通すると、参詣者がさらに広域化したのは容易に想像できます。大阪からでも手軽に伏見稲荷大社にお参り行くことが出来るようになりました。

ちなみに京阪沿線には伏見稲荷大社以外に八幡の石清水八幡宮、香里園の成田山不動尊など著名な社寺が並んでいるために電車に乗ってお参り行くという新たな社会行動が生み出されましたし、鉄道会社からすればそのことを視野に入れた開業だったといえるでしょう。結果的に京阪間でみると淀川右岸は官営鉄道が通っていましたが、左岸は点在する集落と社寺を京阪が縫うようにつないだという見方もできます。

こうして鉄道と社寺参詣は深い結びつきで成立します。その視点でみると大正末期から昭和初期にかけて京都電燈(現叡山電車)と比叡山、鞍馬電鉄(同)と鞍馬寺、少し離れますが高野鉄道(現南海電鉄)と高野山、吉野鉄道(元近鉄吉野線)と吉野などケーブルカーを含む鉄道は大きな社寺に気軽にお参りに行けるように敷かれ発展していきました。

もうひとつの視点は複数の鉄道がその社寺に通じているとよりにぎわうということです。伏見稲荷大社には昭和45(1970)年に市電稲荷線が廃止になるまでは京都市電、京阪電車、国鉄(現JR)奈良線と3本の鉄道が通じていましたからあれだけ多くの人が伏見稲荷大社に集まってこれたのです。よく初詣客の数で話題になるのはそのためです。

同様の例は伊勢神宮に対して近鉄と国鉄、兵庫県の西宮神社に対して阪神と国鉄など参詣者の多いところに複数の鉄道が通じていることが多いです。これらの線区では初詣割引切符などサービス合戦もくりひろげられました。昭和27(1952)年、京阪電車は福引付きの初詣乗車券を発売したのですが、その特等の景品はなんと土地付きの1戸建て住宅という大盤振る舞いでした。そら「京阪で稲荷さんに行こう」ということになりますよね。

疏水上にあった市電 稲荷野電停
東側を国鉄奈良線のディーゼルカーが通っている。
国鉄の初詣臨時列車「稲荷号」(昭和54年1月)

初詣の輸送

今年の伏見稲荷大社の初詣客は277万人で全国5位、西日本1位と報じられていました。とにかく稲荷さんへの初詣の参拝者は多く、そのほとんどが京阪やJRでやってきます。国鉄時代から奈良線では正月の期間中、京都駅~稲荷間の臨時列車を走らせていたいました。当時の奈良線は単線ですから定期列車の間に挟み込んで、稲荷さんの鳥居を模したヘッドマークを取り付けて走らせていました。もっとも稲荷さんの正月輸送といえば京阪電車でしょう。

大晦日から元旦にかけての終夜運転と三が日は全く輸送体系が変わります。今は深夜帯に間隔があいていますが、以前は切れ間なく急行と普通がそれぞれ10分おきに運んでいました。駅前の踏切には大勢の係員が出て遮断機が下りて線路内に人が取り残されないように見事にさばいていました。また今のようにICカードなどはありませんでしたから、駅前には臨時の切符売り場のボックス(特急電車のように塗ってあった)も置かれ、「京橋まで大人2枚、子ども1枚」とこれまた見事にさばいていました。券売機よりもよほど早かったというのが私の思い出です。

京阪と市電の平面交差

さてこれは稲荷さんとは直接関係がありませんが、稲荷周辺に関わる鉄道話を2つ加えておきます。
1つは京阪と市電の平面交差です。市電開業後に京阪が開通しましたが、当時の京阪は路面電車と同じ扱いでしたから平面での交差が認められました。設備や運用は後からやってきた事業者が担うことになっていました。そこで衝突しないように双方に信号機を取り付け、交差の南西側に建っていた信号所の2階から京阪側が操作していました。しかし運転手が見落としたのか昭和6年と昭和9年に市電と京阪が衝突する事故が起こりました。特に昭和9年の事故は市電が大破、京阪側に過失があったので何と京阪は大津で走っていた小ぶりの電車を京都市に実物で弁償しました。もっとも市電とはブレーキ操作の仕組みが違うので使い勝手が悪く、結局は車庫に置かれていることが多かったようです。

またその事故のあと、脱線ポイントという装置が付けられました。これは平面交差の手前にポイントが取り付けられていて、信号機が赤の場合、万一走行してもレールからわざと電車を脱線させて交差部分に侵入させない仕組みでした。これで安全はかなり保たれるようになりました。京阪電車も市電もこの平面交差ではガタガタン・ガタガタンと大きな音を立てて通り過ぎて行ったのです。当時7両編成の京阪特急が徐行をしながら車体を揺らしてここを通過すると、居眠っていた乗客もそろそろ京都に帰ってきたと思ったものです。

脱線ポイント
万一このまま市電が進むと脱線してしまうしくみ

稲荷駅のランプ小屋

もう1つはJR稲荷駅にあるレンガづくりのランプ小屋です。これは鉄道黎明期、客車内の照明となるランプやそのための灯油を保管するための倉庫なのです。今もほぼ当時のまま残っていますので準鉄道記念物に指定されていますが、前を行く多くの外国人観光客はどこまで関心があるのでしょうね。
ちなみに当時の客車の屋根には蓋つきの筒状のものが組み込まれていて、夜になると鉄道員が客車の屋根に上って上からランプを差し込んでフタをするという作業をしていました。そのほの暗いランプに照らされながら揺られて山科方面に進んだのです。

稲荷駅ランプ小屋

JR稲荷駅も京阪伏見稲荷駅も伏見稲荷大社を模して朱塗りになっています。昔、あの朱塗りを錆止め塗料と間違っていた無粋なお方がおられましたが、照明の灯具を神社風にしたり京阪の駅舎前には千本鳥居をイメージした柱が何本か建てられるなど、時代と共に進化しながら稲荷さんの最寄り駅は賑わい続けることでしょう。

【主な参考図書】
鉄道ピクトリアル356号 427号
鉄路五十年 京阪電車
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この記事を書いたライター

 
昭和30年京都市生まれ
京都市総合教育センター研究課参与
鉄道友の会京都支部副支部長・事務局長

子どもの頃から鉄道が大好き。
もともと中学校社会科教員ということもあり鉄道を切り口にした地域史や鉄道文化を広めたいと思い、市民向けの講演などにも取り組んでいる。
 
|鉄道友の会京都支部副支部長・事務局長|京都市電/嵐電/京阪電車/鉄道/祇園祭