剣を求めたミカド(前編)

日本とモンゴル

西暦1211年。

北アジアで勢力を広げるモンゴル帝国が、中国華北を支配していた「金」帝国に侵攻を開始しました。1215年には金の都だった燕京(現在の北京)を手に入れ、黄河より北の地はモンゴルのものとなりました。日本とモンゴルは、海路を通じてわずかながら境を接することになりました。

日本国内で、後鳥羽上皇と鎌倉幕府が戦った承久の乱は承久3年、西暦1221年。このとき、まだチンギス・ハーンは生きていました。東アジアの政情は緊迫していましたが、モンゴルは中央アジアや東ヨーロッパに目を向けたため、すぐに日本へ軍事的圧力が加わる事はありませんでした。モンゴル帝国が金の残存勢力を滅ぼすのが、西暦1234年。チンギスの孫フビライが元帝国を創始して、日本に最初の侵攻を行うのは西暦1274年のことです。

日本史を左右する事件の一つ「承久の乱」は、徐々に緊迫をはじめた国際情勢下で生じました。現代からの後知恵にはなりますが、それは来たる元寇において戦いを担うのは誰かを決める戦いでもありました。京都の朝廷か、鎌倉の幕府かです。鎌倉幕府が勝ち朝廷を影響下に収め、その指導力をもってモンゴルの後身、元と戦うことになります。元寇という大きな戦いを半世紀後に控え、軍人による政権が実権を握ったという不思議なめぐり合わせです。

三種の神器

この乱。承久の乱が発生するにあたり、一方の指導者である後鳥羽上皇の強い個性と指導力が影響したと思われます。歴代天皇の中でも、歌や書、絵画に精を出した人物は多いでしょう。しかし作刀をした人は珍しい。

鉄の鍛造が体に負担の大きい仕事だった(時に視力を損なうことがあった)、という事も影響しているのでしょうか。後鳥羽天皇は退位して上皇となってから、名のある刀鍛冶らを呼び集めて制作に当たらせ、時に自らも刀を打ったと言われます。なぜ、治天の君(上皇の別名)みずからが、刀づくりに打ち込んだのか。それは、後鳥羽天皇の治世に、「あるもの」が欠けていたという屈辱的な体験に由来するといわれます。

時は後鳥羽上皇が幼い頃、源平合戦の時代。京を抑えていた平家一門が西国へと落ち延びます。彼らは安徳天皇とともに、その権威の象徴である三種の神器を持ち去っていきました。三種の神器。歴代天皇が皇位の印として代々受け継いできた三つの宝のことです。ひとつは鏡、八咫鏡。ひとつは勾玉、八尺瓊勾玉。ひとつは剣、天叢雲剣とも、草薙剣とも呼ばれます。平家は、これらを伴って都を去りました。

都の後白河上皇は安徳天皇退去後の空白を埋めるために、孫の尊成皇子を即位させます。後鳥羽天皇です。即位の儀式は、三種のないままに進められました。前代未聞のことでした。壇ノ浦の戦いで平家は滅び去り、安徳天皇も三種の神器も壇ノ浦の海面に身を投じます。この時二つの神器は取り戻されたのですが、宝剣だけは海に沈みました。そして、ついに発見されませんでした。

三種の神器については、その存在について諸説あります。沈んだ剣は本物なのか、魂を移した形代(かたしろ)なのか、それすらはっきりしません。掘り下げれば、別のテーマの原稿が出来上がるほどです。それは神器があまりにも神秘化され秘蔵され、当時の人々ですら実態を知らない場合が多かったことも影響しているようです。ただ、同時代人の僧侶が記した「愚管抄」という書物には、神器宝剣が失われたことを明確に認識しており、「そもそもこの宝剣失せはてぬる事」と示されています。

愚管抄の作者 慈円は摂政関白 藤原忠通の子にして天台宗の座主だった人物です。皇室の周辺で起きた事象について知り得る立場にありました。それどころか、慈円はこうも言っています。「剣は太刀といって兵器の大本である。つまり宝剣は天皇の武の面の御守りなのである」宝剣が失われたのは、源頼朝が征夷大将軍の地位につき、朝家の護りを担うようになったからだ。鎌倉将軍は宝剣を代行するものであり、宝剣は必要がなくなったので消えたに違いない、と。天皇の武の面の守りだった、それが失われたとまで言っているのです。相当の衝撃であったことが偲ばれます。

後に、失われた宝剣が還るまで宮中の儀式における剣と勾玉(璽)の順番を入れ替えてはどうか、という建議がされています。朝廷において「剣」が喪失したという認識は間違いなくあったでしょう。前例が重視される貴族社会の中で、皇室にとって初めて「宝剣」の無い天皇となってしまった後鳥羽天皇。19歳で、息子の土御門天皇に譲位し、上皇となったあとも、さらに宝剣の捜索を命じたことが当時の日記に書かれています(玉葉)。諦めきれない胸の内が伺えます。

武士の時代

まさにこの時代、武家政権 鎌倉幕府が成立し、東国を中心に日本各地に守護や地頭として武士を送り込み始めました。上皇の財源であった各地の荘園群に幕府の地頭が入り込むと、年貢の未納などの問題が起こり、上皇やその近臣との紛争がしばしば生じます。後々のことですが、後鳥羽上皇は鎌倉幕府に対して、こう命じます。

「畿内にある、二箇所の荘園の地頭職を、返却するように」。

しかし幕府はこれを拒否し、都に一千騎の武士を送り込んで威圧しながら交渉に臨むのでした。征夷大将軍は、朝廷が任命するもの。幕府とは、その将軍が戦時中に開いた臨時的な行政府ということになっています。しかしこれでは朝廷であっても幕府の領分には簡単に手を出すことが出来ません。もはや二重統治のようなものです。武士の時代が、興りつつありました。

後鳥羽上皇の心中を、推し量るならば。「どうしてこうなったのか?神器を欠いたまま即位したためか?」というところでしょうか。古代の神秘的観念が強く残る時代、天変地異が統治者の人徳と結び付けられた頃の話です。意欲的な統治者であればあるほど、時代の趨勢にやるせない思いを抱くだろうと思われます。そして上皇は思い立つのです。

「剣を…」

菊御作の刀

山城、備前、備中など刀の生産で名高い地方から、名工たちが呼び集められ、月替りの輪番制で作刀に当たった…と『正和銘尽』なる刀剣本に記されます。名工の人数は12人だったとも、24人だったとも。御番鍛冶といいます。そして、上皇の眼鏡にかなったものには、十六葉の菊の紋章を彫り入れさせました。このため、これらを「菊御作」や「御所焼」などと呼びます。

後鳥羽上皇の離宮跡を神宮とした水無瀬神宮。作刀の地のひとつとされる。 

この作刀について、公的な記録はありません。『正和銘尽(観智院本銘尽)』は後年に記された刀剣書で、他の史書から裏付けが取れないために、上記御番鍛冶についても真偽は不明とされます。どこまで上皇が関与したのか、どんな体制だったのか、とにかく正確には分からないことが多いのです。

しかし、幾振りかの菊御作は残りました。2018年、京都国立博物館で、特別展 「京(みやこ)のかたな」が開催されました。私は、ここで初めて菊御作の刀(京都国立博物館所蔵 国指定重要文化財)に出会いました。後鳥羽上皇が、水無瀬(大阪府島本町)の離宮で自ら鍛え上げ、付き従う者たちに授け、味方の士気を鼓舞したと伝わる一振り。まさに歴史の証人。これらの解説に触れたことで、私にとっての後鳥羽上皇の人物像が「ぐっ」と浮かび上がりました。剣のない治世をすごした上皇は、みずから欠けたものを補うことを願い、その鍛え上げた剣を手に戦いに打って出たのでしょうか。

上皇が出来の良い刀に刻んだ菊花紋 水無瀬神宮の各所にある

朝廷と幕府

後鳥羽上皇は、ただ剣を打っただけの武断の人ではありません。文学に優れ、音楽に長け、あふれる個人的才覚とカリスマ性を発揮して巧みに近臣を編成。西日本を中心に、上皇の意志を反映する権力構造を作り上げていきました。その上皇にとって障壁となったのが鎌倉幕府でした。

従来の軍事力だけでは幕府に対抗できないと考えた上皇は、西国を中心にひろく武士を集めようとします。また、それを指揮する将官級の人材を求めます。鎌倉の御家人から、権力抗争によって不遇の立場に追いやられたものらをスカウトしていきます。御家人三浦義村の弟、胤義などは比較的有名でしょうか。朝廷と鎌倉幕府が戦った承久の乱。その裏には、ひとつの底流が感じられます。

失われた宝剣と、それに象徴される皇室の権威低下、勃興する武家政権。世の動きに抗った上皇、彼が生みだした菊御作の剣。「後鳥羽の生涯は正統な王たることを目指し、 正統な王たることを自分自身で確信する ための長い旅であったといってもいい」(坂井孝一『承久の乱 真の「武者の世」を告げる大乱』 p.67中央公論新社)

後鳥羽上皇は、最初から鎌倉幕府との軍事的衝突を考えていたわけではありません。最初は幕府を朝廷の制御下に置き、制度的・文化的に融和させることも検討していました。鎌倉第三代将軍の実朝が生きていた頃は、上皇と幕府の協調はうまく行っているかに見えました。実朝には実子がなく、第四代将軍をどうするかという問題がありました。そこで両者は「親王」を、後鳥羽の皇子を次の将軍にしてはどうかと考えるのです。

皇族が将軍になれば、朝廷と幕府の協調路線はさらに深まるでしょう。ただし、後鳥羽上皇は手放しで喜んではいませんでした。皇族の征夷大将軍はたしかに両者の関係を円滑にします。しかし、朝幕両者が対立した場合に幕府に反乱正当化の口実を与えうる諸刃の剣です。前出の愚管抄には、後鳥羽が「将来に、この日本国を二つに分ける」恐れがあると語ったと記されています。朝幕協調は可能なのか。見極めながら政策を進める上皇にとって、これまでの方針を一気に改める事態が起こります。鎌倉幕府第三代将軍、実朝が暗殺されたのです。

想像するに、上皇の懸念は以下のような所でしょうか。交渉相手たる将軍が不意に死去したこと。鎌倉幕府内の意見統一が曖昧になったこと。幕府内の治安に不安があること。つまり皇子を将軍に送り込んだところで、また政争に巻き込まれ、暗殺の対象にされかねないこと。皇族将軍が、朝廷に反逆する際に正当化の旗印に利用されうること。

上皇は幕府に対する態度を転換します。幕府をまとめていた北条政子や義時らは、朝廷に対して改めて将軍の後継者として親王を送り込むことを願うのですが、上皇はこれを断ります。「皇族ではなく、貴族の子『摂関家の子弟』を送り込んで将軍とせよ」そして鎌倉に対する挙兵の準備を勧めていくのです。

天台座主 慈円は幕府と朝廷の融和を進めようという立場でした。愚管抄は挙兵へ突き進む後鳥羽上皇を危ぶみ、これを諫めるために書かれたという見解もあります。しかし、上皇は「剣」を求めました。上皇が京都市の南、城南宮にて流鏑馬を実施するという口実で武士を集めたという逸話はよく知られています。(ただし城南寺というお寺の仏事守護のためだという異説も存在します)

これらの軍勢でもって、上皇は「北条義時を討伐する」という名目で軍事行動を開始。手始めに上皇への協力を拒んだ山城守護の伊賀光季という武士を襲い、これを討ち取ります。これに対して北条義時および姉の政子らは、御家人らを前に鎌倉政権の危機であることを訴えて抗戦を煽ります。承久の乱の始まりでした。

後鳥羽上皇が挙兵の際に武士を募ったとされる城南宮 
画像提供:城南宮

ここまでを、この稿の前半とします。後半では、承久の乱の結末と、歴史の中での意義について考えてみたいと思います。

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この記事を書いたライター

 
写真家。
京都の風景と祭事を中心に、その伝統と文化を捉えるべく撮影している。
やすらい祭の学区に生まれ、葵祭の学区に育つ。
いちど京都を出たことで地元の魅力に目覚め、友人に各地の名所やそれにまつわる歴史、逸話を紹介しているうち、必要にかられて写真の撮影を始める。
SNSなどで公開していた作品が出版社などの目に止まり、書籍や観光誌の写真担当に起用されることになる。
最近は写真撮影に加えて、撮影技法や京都の歴史などに関する講演会やコラム提供も行っている。

主な実績
京都観光Navi(京都市観光協会公式HP) 「京都四大行事」コーナー ほか
しかけにときめく「京都名庭園」(著者 烏賀陽百合 誠文堂新光社)
しかけに感動する「京都名庭園」(同上)
いちどは行ってみたい京都「絶景庭園」(著者 烏賀陽百合 光文社知恵の森文庫)
阪急電鉄 車内紙「TOKK」2018年11月15日号 表紙 他
京都の中のドイツ 青地伯水編 春風社
ほか、雑誌、書籍、ホームページへの写真提供多数。

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